1話 初仕事は盗み聞き? その7
さくらの学校の、先生の小話である。
人は常に予測をしながら生きている。
たとえば、まっ暗闇のなかで、一定の間隔で設置されている階段を上り下りしたりするときにも、「このくらいの歩幅で」、「このくらいの高さで」などと予測しながら足をふみだすものなのだ。
だからこそ、予測が間違っているとびっくりしてしまう。「あれっ! もう一段あると思ったのに」みたいな現象が起きて、がくんっ、と階段を踏み外してしまったり、または、つまづいていて転んでしまうこともあるのだと。
それからも先生は、なにか話したいことがあるようで、前置きをするように話を続けた。
どこからか、「にゃー」という声が聞こえれば「猫だな」と予想するし、「ワン」という声が聞こえれば「犬だな」と予想する。
だからこそ先生は、そんな予想を間違えて、ひどく驚いたのだと言っていた。
牧場での出来事らしい。
「ワン! ワン! と聞こえるものだから、あれ? おかしいなあ、犬なんかどこにもいないのになあ、って僕は不思議だんたんだけど」
と、言ってから、犬の代わりになにがいたのか、先生は教えてくれた。
シマウマ。
「僕は驚いちゃったよ。シマウマって、ワンワンって鳴くらしいんだ」
さくらは、まったくためにならなかったそんな小話を、この日、ふと思い出してしまうのだった。
大月真緒が「見た感じは物ものしい」だの「中身がグロテスク」だのと喋っていたその声は、なかなか大きな声だった。
玄関から三〇メートルほどのすぐ側で喋っていたものだったから、きっと中にいる人間にも聞こえてしまっていたのだろう。そして黙っていられなかったのだろう。
建物の中から一人の少女が現れた。
「誰がグロテスクだって?」
ドスを効かせたような声だった。
さくらは、彼女の姿を見た瞬間、「あ、おねえちゃんの同僚だ」と予想した。
「あ、支部長だ」
と真緒が言った。
さくらはすぐに信じられず、「え、支部長? どこにいるの?」と思いながらキョロキョロと見てしまった。
だが、ほかには誰もいない。
どうやら目の前にいる少女が、その支部長で間違いないようである。
「えっ、この子が支部長なんですかっ!」
さくらはつい、大きな声で言ってしまった。
「……な、なにかしら、悪い?」
「いえっ、めっそうもないです」
「……そう?」
と言って、不審そうな顔でさくらを見つめる人物は――、
自分と同じくらいの歳の少女だった。
目線の高さも、さくらとほぼ同じ。ということは身長が一五一センチ程度である。
ちょっとだけ釣り目で、怖そうな印象のある少女だったのだが、さくらが目を合わせていると、むしろ支部長のほうが慌てて目を逸らしてしてしまった。
まったく堂々としていない感じだった。
髪型は、丸みを帯びたショートカット。前髪を横に流し、赤いヘアピンで留めていた。髪の毛は、一本一本きれいに整っていた。
――あ、きれい。なにかコツでもあるのかな。あとで訊いてみようかな。
そんなことを考えながら、綺麗な髪、怖そうな目つき、同じくらいの身長、じろじろと長いあいだ見つめていると、
「……なに?」
と、落ち着かない様子の支部長が言った。
「あ、な、なんでもないです」
「……ふうん?」
さくらは、またひとつ驚いた。
普通に喋っているときの支部長は、声のトーンがやたらと高いのだ。
最初は「ドスを効かせたような声」だったために分からなかったのだが、彼女が普通に喋っているときにはまるで、九官鳥のようなかん高い声を発しているのだ。
色々な驚きで、さくらはぽかーんとしてしまう。
――しかも、あの服装はなんなんだろう。
と、やや困惑。
支部長の服装とは、白のポロシャツ、紺のショートパンツ姿なのだが、なぜかその上に、ぶかぶかの白衣を重ねて着ているのだ。
はっきり言って白衣は、似合っていなかった。
なぜこうも似合わないのかは明白である。
白衣のサイズ感が合っていない。本人がまったく堂々としていない。どう見ても中学生。むしろ声だけ聞いていると小学生。子どもっぽい。
「えーっと」
と真緒が、なにかを不思議に思うような声を発した。そして彼女は、支部長の頭から足までを、さっと観察した。
それから口を開く。
「どうして今日は白衣なの?」
「……うっ!」
支部長が驚いた。
微弱な電流でもあびてしまったかのようにビクリと動き、決まりの悪い顔になった。
「うるさいわねっ、きょ、今日はちょっと寒かったのよ! べつにいいでしょ!」
などと、かん高い声で反論。
ちなみに本日は、ちょっとだけむしむしとした一日だった。日は傾いているが、まだ暑い。階段を五〇段も登ったばかりだったので、さくらは暑くて汗をかいてしまったほどであり――、支部長のひたいにも小粒の汗がうかがえる。
「まあいいわ」
と支部長が、なんとか仕切り直そうとする。
「――ねえ、なんで白衣」
「う、うっさい! いいの!」
どうしても気になってしょうがない真緒が、とことこと近寄っていく。「な、なによ」と言いながらまるで不審者に怯えるような目つきの支部長は、二、三歩後ずさり。
「いや、だってさ、なにか秘密があるんじゃないかって」
「く、来るな! 食べものなんて入っていないから!」
「えー私が食いしん坊みたいな言い方は――」
「実際そうじゃないのよ!」
言い合っているうちに、あっというまに真緒の魔手圏内。ぺらっ、と白衣をめくり、べちっ、と手を叩かれる。
「……いたい」
「ほら、そんなことはいいから。せっかく妹が来てくれたんだから紹介しなさ――」
支部長の言葉が、さくらの顔を見たところでピタリと止まった。
しかし目を背ける。
再び、ちら、とさくらを見る。
目を逸らす。
そしてまた、ちら、とさくらを見て、
「――っ!」
支部長はなにかに気がついた。
驚愕の顔。
まん丸に目を見開いて、ぽかんと口も開けてしまった。
その顔は、もしかするとさくらのすぐ後ろに殺人鬼だか変態だかが立っていて、今にも斧やチェーンソーを振り下ろそうとしていることに気がついてしまったような顔つきにも見えなくはなかった。
さくらは、えっ!? と恐ろしくなって後ろを見た。
誰もいない。
顔を正面に向ける。
やっぱり支部長は驚いている。さくらのことを見つめながら驚いている。さっきまで目も合わせようとはしていなかったその彼女が、視線をしっかりと向け、まん丸に見開き、硬直している。
「……ど、……どういうことなの?」
ぼんやりと言った。
――どういうことなの、と言われても。
さくらは小鳥のように首をかしげ、なにか思い当るようなことを頭の中で探りはじめた。まさかおかしな服を着てしまっていたり、靴が片方ちがうとか、泥だらけだったりするのだろうか。いや絶対に違うはずだ。あの驚き方はそんなものではない。頭の上にヒヨコでも飛んでいるのかもしれない。ちら、と上をみる。なにもない。ならば顔にラクガキでも――、
さくらは、ハテナマークを全身で浮かべながらボディチェックをはじめた。
真緒、支部長が小さなこえでボソボソ喋りはじめていたのだが、その声はさくらの耳には届かなかった。
「……あ、さすが支部長。もう気がついちゃった?」
「ねえ、一つ聞いていい? ……どっちが先なのかしら?」
「もちろんさくらが先だよ」
「……そ、そうよね」
「さくら自身はまだ知らない」
「……うそっ? 本人が知らないの?」
「そのほうが面白いじゃん」
「……いい性格してるわね。あんた」
そこでようやく、さくらはなにが二人が小さな声で喋り合っていることに気がついた。
二人は同時に――、
ちらっ
と、さくらを見た。
「あ……、あの、なんでしょうか」
さくらがたまらずに口をひらくと――、
それに答えたのは、真緒だった。
「あのね、マリンちゃんは――」
と、言いかけた瞬間。
「うわあっ、バカっ、あだ名でよぶなっ! 支部長だ、支部長!」
ばたばたと慌てて支部長が、ひときわ高い声――九官鳥のように高い声をだしながら、真緒の口をふさごうとして手を伸ばした。
「そうだった。えっと支部長」
「……そ、そう、わたしが支部長」
「支部長がさくらのこと――」
「って、バカかっ! 黙っているんじゃなかったのかよ!」
「……えへっ」
「わざとかコラっ!」
支部長の顔は、真っ赤になってしまった。しかも、さくらと目を合わせようともしない。
「……どういうこと?」
まったく意味が分からなくて、さくらは真緒に目を向けた。なにかの説明を求める目つき。
「支部長がね、ステキな妹さんですねって」
「あ、あはは……」
さくらはどんな反応をしていいのか困った。なにかを誤魔化しているのだけは分かる。
「と、とにかくっ!」
と、支部長がこんどこそ立てなおしを図った。
「き、きみが、バイトに応募してくれた子ね?」
「はい。そうです」
「名前は?」
「さくらです。大月さくらと言います。中学二年生です」
と、さくらが説明をしたところで――、
「名前、知っているくせに」
と真緒が横やりをいれた。
「ほっ、本人確認は基本なのよ」
「ねぇねぇさくら。昨日から支部長、さくらちゃんってどんな子なのかって――」
「きさまはバカかあっ!」
「姉バカです」
「――そういう意味じゃっ、ああ、もう!」
支部長は、がにまたになって足で、だんだんっ! 地面を二回蹴ってから、
「まあいいわ。――さくらちゃん、持ってきたものを出しなさい」
と支部長は、はぁはぁ、と息を切らせながら、真っ赤な顔をしたまま目線も合わせず、さくらに向けて、片方の手のひらを上に向けた。
――あ、履歴書のことだな。
と、すぐに気がついた。
だが、
さくらにしては珍しいことなのだが、胸中で、いたずら心が生まれてしまった。わざとボケたふりをしてみたくなったのだ。支部長は、犬にお手をやるようなポーズで固まっている。その手のひらに、お財布でも乗せてみたくなってしまったのだ。
どんな反応をするのだろうか。
きっと――、「きいいっ、カツアゲじゃないわよっ! 姉妹そろってバカだろっ!」などと、九官鳥のようなかん高い声で罵りながら、じたばたと一人で暴れはじまって、あげくに酸欠になって倒れてしまうに違いない。それを想像するとおかしくて、支部長が可愛くてしょうがなくなってしまい――、だが、さすがに実行はしなかった。
さくらは、バカな妄想をふりはらって、履歴書の入った封筒を差しだした。
「たしかに受けとったわ。まあ、中に入りなさい」
「はい」
結局、視線は合わせてくれないまま白衣をひるがえして、支部長は中へと向かってしまった。
「入りなさーい!」と姉が続けて言った。
「……まお、今日は黙ってて。……おねがい」
「はーい。無理」
建物の中は意外なことに、綺麗だった。
スリッパを履いてピカピカの床のうえを三人で歩き、玄関からすぐ側の扉をあけて、職員室みたいな部屋に入った。
観察すればするほど、学校の職員室とおなじような感じだった。六つのワークデスクが並んでいて、それぞれに書類、パソコンが乗っていた。奥のほうには、いかにも支部長席みたいな、ひとまわり大きな机が置いてあり、沢山の書類が山積みになっていた。
だが、他には人がだれもいない。寂しげな部屋だった。
窓の外に目をやると、木々の間からは、広い田園風景が見えた。
たかだか階段を五〇段ほど登っただけだというのに、遠くのほうまで見渡せる景色が綺麗だった。
夕焼けがはじまっていたのだ。
大地には、沢山の作物が植えられた緑いっぱいの畑や田んぼ。目線の高さには、青と赤のグラデーションのかかった空がひろがっていて――、雲は、オレンジ色に発光しているみたいで――、
「きれい」と、さくらは呟いた。
「だよねえ」と真緒が同意した。
「山にはあんまり登らない?」と支部長が訊いた。
「あ、たぶん、小学生のころ以来です」
「そうだねぇ、さくらが小学三年生のときかな」
「ふうん? まあ、この時間帯は、特にきれいなのかもね」
支部長は、窓際にたてかけてあるパイプ椅子を一つ掴んだ。
「さくらちゃん、あなたもこれを一つ持って、ついてきて」
「あ、はい」
さくらは指示に従って、パイプ椅子を一つ掴んで、支部長の背中を追った。
「私は?」
と真緒が訊いた。
「まおは仕事にとりかかりなさい」
「えぇー。出勤まで時間があるのに……」
「あんた……一緒についてきても、退屈なお話を聞くことになるのよ?」
「でも私、そこでもすることがあるよ」
と、真緒が一本指を立てた。
支部長は、渋面になって訊いた。
「……なによ」
「さくらの護衛とか」
「……もしかして、まお、すっごく失礼なこと考えてない?」
「考えているかも」
「……」




