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1話 初仕事は盗み聞き? その6

 七月一日。

 放課後になるとさくらは、職員室――四〇代になる女性担任のもとへ訪れた。

 バイトをしてもいいのかどうかの相談を持ちかけたのだが、「もちろん良いわよ」とあっさり許可をもらえてしまった。偶然近くを通りかかった校長も「いいじゃない。やりなさい」笑顔で背中を押してくれた。

 学校から許可が下りるかどうかは不安だったが、拍子抜けするほどにあっけなくもらえてしまった。

 とにかくこれで、学校もOKサインを出してくれたということだ。

 残るはバイト先に、募集枠があるのかどうかが問題だった。こればかりは真緒がバイト先に打診してくれるようなので、黙って待っているしかなかったのだが――――どうやら肯定的な反応があったようだ。

 夜の二二時のことだ。

 ただいま! と真緒が元気よく玄関に現れて、

「さくら、バイト先の支部長がね、週に一度のバイトでも大丈夫だってさ。それから『明日、ぜひ連れてきなさい』とも言っていたよ」と嬉しそうに報告した。

 さくらは、やや困惑顔で答えた。

「……明日?」

「面接のことだよ」

「……はやっ!」

 明日の放課後に面接がある。どうやらそういう話になっているようだった。あまりに展開が早くてさくらは焦ったが、それは望むところでもあった。


 そして翌日。

 七月二日の朝。

 さくらは学校に到着すると真っ先に職員室を訪れて、担任に頭を下げた。

「先生、また相談しに来てしまいました。あの……」

 履歴書の書き方を教えて欲しい。さくらがそう伝えると、やはり展開が早いことに驚いたのか、担任も目を丸くした。

「あれ? さくらちゃんのお姉さんって、バイトしているのよね。履歴書の書き方、教えてもらえなかったの?」

「昨夜はおねえちゃん、すぐに眠っちゃったんです……それに今日の朝もギリギリまで眠っていたようだったから……」

 ふふ。と担任は小さく笑い、

「分かったわ。でも朝は職員会議があるから、お昼ね。給食を食べ終わったあとで書きましょう」

「あ、ありがとうございます」

「教室でいいわよね?」

「はい。私はどこでも大丈夫です。よろしくお願いします」

 さくらはホッとして、深々と頭を下げてから職員室を去った。


 だがさくらは、後になって少しだけ後悔する。「どこでも大丈夫です」などと言ってしまったが、できるなら先生と二人きりになれるような場所で書くべきだった。


 午前中は、雲が薄く膜を張っているような天気だった。少しだけ蒸し暑く、天気予報士によれば深夜には小雨が降るとのことだったが、雨の気配はまだ感じられなかった。

 さくらの席とは、クラスのど真ん中に位置している。人に囲まれているためなのか、なんとなく気分的にも蒸し暑い。しかし、履歴書のことや、放課後に面接をしなければならないことを考えると、些細な不快感などはどうでもよくなるほどに緊張してしまう。

 なるべくバイトのことを考えないようにしながら、さくらは午前中の授業を乗り切った。

 そして昼休み。

 昼食を終えたクラスメイト達は、それぞれの休み時間を満喫しはじめた。男子の仲良しグループがトランプゲームを始めたり、女子のグループはお喋りに夢中になり、または何人かで連れだって教室を出て行ったりするような、いつも通りの昼休みムードになった。

 ほどなくして担任が、さくらの席に現れた。

「さて、さくらちゃん。書きましょうか」

「あっ、はいっ」

 さくらが応じ、机の中から履歴書とボールペンを取り出すと、物見高いクラスメイトがやってきて「なにを書くんだ?」と覗き込み、側に居たクラスメイトも「なになに?」と反応した。

 六人のクラスメイト――制服姿の男女四人、ジャージ姿の男女二人が、集まってきてしまった。

 思わずさくらは、ぽかんとして絶句。

「なにこれ?」

「おっ、履歴書じゃん」

「履歴書ってなに」

「さくらバイトすんのか」

「バイトの紙なの? これ」

「え、さーちゃんバイトするの?」

 担任一人と、クラスメイトの六人がさくらの席を囲んでいた。ただでさえむしむしとした空気が、人が集まってきたせいでより暑苦しい。しかもさくらは、目立つことがあまり好きではない。困惑して言葉も出なかった。

「さーちゃんいいなあ、あたしもバイトやりたい」とジャージの女子が言った。

「さくらだから出来るんだろう? お前じゃ無理だ」とジャージの男子が言った。

「ハア?」

「なんだよ」

 なぜか急に、囲んでいるうちの二人が険悪になった。しかも、履歴書を広げているさくらの目の前だ。

「どうしてよ。あたしには出来ないけど立浪(たつなみ)には務まる。そう言いたいわけ?」

「当たりまえだろ? おれは体力系ならなんだって出来る」

「言うと思った。これだから体力バカは。昼休みになった瞬間にジャージ着ているし」

「お前だってジャージ着ているじゃん。どの口がそんなことを言うんだ? 昼休みに入った途端に着替えたのは、お前も一緒だろ」

「あたしは立浪(たつなみ)と違って、効率を考えているだけよ。五時限目の体育は二クラスが合同でしょう? だから今のうちに着替えないと更衣室が混雑するのよ」

「だからなんだ?」

「あんた、今の説明で分からないの? 頭のなかでヒヨコでも飛んでいるの?」

「どっちにしろお前だって、身体を動かす気まんまんじゃないか」

「だからっ――」

 ジャージの二人は、あっというまに口論をはじめてしまった。周りで見ていたワイシャツ姿のクラスメイトは「またか」と、諦めたような半笑い。担任だけがうんざりとしたような顔をした。ため息をついてから仲裁にはいった。

「あなたたち、邪魔するならちょっと離れていなさい」

 ジャージの男女は肩をすくめた。

 それから二人は、何事もなかったかのようにさくらを見て言う。

「さーちゃん、邪魔しないから見せて」

「おれもしないけど?」

 さくらは返事に困った。あまり注目されると緊張してしまう。かといって「見ないでほしい」と伝えるのもおかしいだろう。

「……別にいいけど、見ていても、なんにも面白くなんかないよ?」

「いいのいいの。あたしには、さーちゃんの大人の第一歩を見届ける義務があるの」

 ジャージの女の子が言うと、他のクラスメイト五人も、うんうん、と頷いた。

 ――見られると緊張するんだけどなぁ……。

 と思いながらもさくらは、ペンを動かした。


 名前――――、大月さくら。

 生年月日――――、暢楽(ちょうらく)22年、10月10日生まれ、13歳。

 住所――――、奈良県、桜井市、……。

 電話番号――――、……。

 そこまで書いて、さくらのペンが止まった。

 学歴――――。


「学歴の書きかたはね」

 と、担任が指示をだしてくれる。

 さくらはその通りに書いた。

 書き終えて、履歴書の次のページを見やると「趣味」という欄があった。

 さくらは迷うことなく「料理」と書いた。すると、やじうまのうち一人の制服男子が「毎朝おれに味噌汁を作ってくれ」と言った。ジャージの女子が、「どさくさに告白するな」と、手刀で肩を叩いた。

 さくらは「あはは……」と困ったように笑ってから、視線を手元に戻した。

 履歴書の、つぎの空白を見る。

 ――長所。短所。

「……どうしよう」

 さくらは困った。『長所』という空欄のうえにペンを置いたまま途方に暮れてしまう。自分のことを客観的に考えてみたことなど、ほとんどないのだ。

 ペンが止まってしまったために、先生がアドバイスをしてくれる。

「私の立場で、こんなことを言うのもなんだけど……、所詮は学生のアルバイトなんだから、パッと思いついたものを書いて構わないと思うわよ」

「そ、そうなんですか?」

「ええ」

「でも、短所は書けると思うんですけど、私に長所なんか……」

「あら、私はいくつも知っているわよ。でもいい機会だから、自分で考えてみなさい」

「そうですよねぇ……うーん」

 さくらは悩んだ。

 すかさずにジャージの男子が口をひらく。

「長所はシスコン」

「なるほど、シスコンか」

 とさくらがペンを動かそうとしたところで、ジャージの女子が「まていっ!」と言って、すばやくペンを取り上げた。そのペンで、ジャージの男子の頭をコツンと叩く。

「いってえっ」

 わざとらしくも頭をおさえながら悲鳴をあげた。

「あっ!」

 とさくらも我に返り、ジャージの男に鋭い視線を向ける。

「――あ、あぶないっ。なんてことを書かせるの……」

「いや、まさか書くとは思わなかった」

「書いちゃうところだったよ!」

「書くか? 普通……」と、ジャージの男子は、悪びれる様子もなく半眼でさくらを見た。

「書かないわよね……」と、女子のうち誰かが言った。

「普通、書かないわよね」と、担任も同意した。

 担任にまで裏切られたような気分で、さくらは目を丸くした。するとジャージの女子が「うんうん」と頷いてから、口をひらいた。

「さーちゃん、きみの長所と短所を教えてあげるよ」

「……なに?」

「即決即断ができるところよ。でも、はっきり言って危なっかしい。……なにかと紙一重ね。だから長所は決断力がある。そして短所は流されやすい」

「……私、流されやすいのかな」

「別の言いかたも出来るわよ?」

「なに?」

「さーちゃんは、なにも考えていなーい。あははっ」

「ひ、ひどい……」

 だが、即決即断というところは、当たらずとも遠からずだろう。

 そもそもこのバイトも、「もうちょっとおねえちゃんのことを楽させてやりたい。あ、私もおねえちゃんのことろで働いてみたい」と、そのくらいのことしか考えていなかったのだ。

 しかも、姉の働いているバイト先についても、どのようなところなのかもまだ分からないくせに「まぁいいか」と曖昧にしたままなのだ。これはもしかすると、本当になにも考えていないだけなのかもしれない。…………だが、さすがに短所の欄を「なにも考えていなーい」などと書くわけにはいかないだろう。

 長所。本当ならば、ハテナマークを付けて書きたいところだったが、「即決即断」と書いた。

 短所。本当ならば、こんなことは認めたくもないことだが、「流されやすい」と書いた。

 ――うう、こんなのでいいのかなあ。

 ――あとで面接官にぜったい、「流されやすいとは、どういうことですか?」とか、訊かれちゃうんだろうなあ。

 などと考えながらも、さくらは残りの空欄を手早く埋めて、履歴書が完成した。

「先生、できました」

「うん、まあいいでしょう」

「こんなので、採用してもらえるでしょうか?」

 さくらが不安な表情で訊ねると、間髪いれずにジャージの男子が口をひらいた。

「さいよう、したいようっ!」

「……」

「……」

「……」

「……」

 近くにいた全員が、反応に困った。

 昼休みの賑やかな空気が流れるクラスの中、さくらの席だけが凍りついてしまったかのように沈黙してしまった。

 さくらは一つだけ悟った。

 ――なるほど……ダジャレで笑えるのは、小学生までなんだなぁ……。

 ジャージの女子が、「はぁ」とため息をついてから、

「ねえ」

 と、彼に向かって話しかけた。

「……な、なんだよ」

「次の授業って、なんだっけ?」

「せめて感想を言えよっ!」

 ジャージを着た二人のやりとりに、さくらだけが噴きだした。履歴書に唾がとんでしまい、慌てて拭いた。





 放課後、さくらはまっすぐに家に帰った。

『緊張しているときには時間の流れが遅く感じられる』などと、どこかの誰かがそんなことを言っていたなと思い出したが、さくらに流れる時間は、みるみると加速していくようだった。

 リビングルームに待機して、ハムスターの『賢太』と遊びはじめると、間もなく真緒が帰って来てしまった。「さくら、準備できてるう? 行こうかあ」と、玄関から脳天気な声がして、さくらは覚悟を決めて外に向かった。壁のアナログ時計を横目で見ると、一六時二〇分だった。

 真緒の自転車を追って、さくらも自転車をこいだ。

 昨日も自転車を走らせた道だ。

 本日の目的地。真緒のバイト先とは、スーパーへと行く道すがらに存在している。標高が一〇〇メートル程度の小さな山、『耳成山(みみなしやま)』というところにある。繁華街と田園地帯のちょうど中間あたりにその山があり、山を少しだけ登ったところに『PRF研究所』があるようだった。

 真緒の説明では、「PRF研究所って言ってもたいしたことないよ。支部のまた支部のような感じだし」とのことだった。「だからぜんぜん立派なものでもないよ」と、つけ加えて説明をしていた。


 たいした会話を交わす間もなく、あっという間に耳成山のふもとに到着してしまった。二人で適当に自転車をとめた。

 それからさくらは真緒の背中を追って、まるで神社にでも続いていくのではないかという石の階段をのぼった。五〇段ほど登ったところで見えた建物は――、

 たしかに、立派な建物ではなかった。

「おねえちゃん」

「ん?」

「これ、幼稚園とかじゃないの?」

「えっ、そう見える?」

「見えるよ……」

 階段を登りきると、すこしだけひらけた場所に出た。小さな子どもが走り回れる程度の広さがあるが、ヘリコプターの離発着などは、まず無理だろう。その程度の庭である。――そして、たくさんの木々に囲まれて、二階建てのコンクリート製の薄汚れた建物がぽつんと建っていた。

「っていうか、幼稚園にすら見えないような。……なんていうか、その」

 つい、言ってしまいそうになって言葉をにごしたが、さくらは心のなかで叫んだ。

 ――なんていうか、ぼろぼろだ!

「あ、あはは……、まあ、中身はだいじょうぶだよ」

「そ、そう?」

「ほら、見かけと中身は違うよーっていうことわざがあるじゃない? なんだっけ。『ようとうくにく』みたいにさ」

 ようとうくにく――羊頭狗肉とはつまり「見かけが立派で、中身がだめ!」という意味のことわざである。さくらは、建物に突入するまえに真緒につっこんでみた。

「それ、だめな場合のたとえだよ……」

「あ、じゃあドラゴンフルーツ」

「え、どういうこと?」

「あっさりしていておいしいじゃない?」

「うーん? わたしは食べていないけど」

「おいしかったよ。見かけはちょっとだけ物々しいけどね」

「――うん。そうだね。ちょっとだけ、物々しいかんじがするかも」

「でも、中をあけるとびっくり」

「……うん」

「あ、中身が一番グロテスクなんだった……。このたとえが一番だめだ」

「……」

 二人は当然、その中身をみたことがある。

 ちなみにそのとき、包丁を通したのはさくらだった。

 ドラゴンフルーツを真っ二つにしたときに、さくらは中身を見て、『ある勘違い』をしてしまい、絶叫してしまったことがあったのだ。どんな勘違いなのかは――、さくらは思い出したくもない。

 ちょっとだけグロテスクな感じのする中身だった。真緒は、「おいしいよ」と言いながら食べたので、さくらは全部ゆずってしまったのだが――、姉がもぐもぐとほおばるところは見ることが出来なかった。動物番組でたまに流れるような、昆虫が捕食されてしまうシーンを見ているような心境になってしまったのだ。

「あ……でもだいじょうぶ!」

 と真緒が胸を張って言った。

「こんな建物でも、慣れちゃえばなんてことないよ!」

「うん。……そうだよね?」

「そうそう。たとえ中身がどれだけグロテスクでも、不気味な人間がいても、話してみればなんてことないし!」

 と、姉が大声で演説するものだから、

「誰がグロテスクだって?」

 建物のほうから、若い女の不機嫌そうな声がした。


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