1話 初仕事は盗み聞き? その4
玄関に入って靴を脱ぎながら、さくらが言う。
「おねえちゃん、『賢太』の餌と、お水の交換をお願いしていい?」
「はーい!」
真緒は笑顔で応じて靴を脱ぎ、スリッパも履かずに小走りでリビングルームへ向かった。
さくらはスリッパを履き、その後を追う。リビングルームを通り抜けてキッチンへ。イスにかけてあるエプロンを装着し、ちら、とキッチンカウンターの上にあるデジタル時計を見ると、六時を過ぎていた。
――色々なシジミ料理……挑戦してみたかったけど、今からじゃ時間かかっちゃうよね。
――ボンゴレとスープ、あとはベーコンのサラダ。それだけ作れれば充分か。
――おねえちゃん、だいぶお腹空かせていたみたいだし、早く作らなきゃ。
ちら、とリビングルームに目をやれば、真緒は部屋の隅っこ、ハムスターケージ前でしゃがみ込んでいる。彼女は首をかしげて、不思議そうになにかを考えているが……さくらは気にしないことにした。
テキパキと動き始める。
お鍋に水を張り、中に粉砕昆布とシジミを入れてから火にかける。蓋をして、とりあえず放置。
次に耐熱プラスチックケースにも水を張り、中にパスタ二人分を入れて電子レンジに放り込む。スイッチはまだ入れない。
買い物バッグから黄色パプリカ、トマト、しめじなどを取り出して、それぞれを水で洗いはじめた。
「ねえ、さくら」
「うん?」
突然声をかけられて、ぴたっ、と手が止まる。
キッチンカウンターのところに立つ真緒は困惑顔だった。彼女の手には、ハムスターの『賢太』が大人しく乗っていた。
「賢太がね、脱走したような気がしたんだけど」
「脱走、した気がした?」
「いや……私の勘違いだよねぇ……」
「え?」
脱走した、ではなくて、脱走したような気がした。どういう意味なのだろうか。
真緒が続けて言う。
「今ね、賢太がフローリングで、べたーっと寝転がっているところを発見したの。いつのまにか脱走していたみたいなんだけど……」
「あ、おねえちゃん、ケージを開けっ放しにしちゃってた?」
「……たぶん。そう」
「たぶん?」
「いや、絶対そうだよね。ごめん。次から気をつける」
真緒は自分の失態を謝り、背中を向けて賢太をケージへと連れて行った。
「うん?」
さくらは、それらの言葉の意味がわからなくて考え込んでしまったが……すぐに「まあいいか」と思い直して調理に取りかかった。
☆
調理時間、わずか二〇分。
四人がけのキッチンテーブルには、ボンゴレ、シジミときのこのスープ、ベーコンが乗ったサラダが二人分並んだ。
「おねえちゃん、できたよ」
というさくらの声がかかると、いつの間にか私服――緑のシャツに黒のスカートに着替えていた真緒は、待っていましたとばかりに食卓に飛び込んできて、手を合わせた。
「うへーいっ! いただきます!」
真緒が満面の笑みで言ってから、フォークを使って口の中に沢山のパスタを放り込んだ。ハムスターみたいに頬を膨らませて、もぐもぐとそしゃくして、ごくんとのみ込む。スープも一口、二口飲んで、幸せそうな――だらしのない顔になった。
「はふう。おいしい。五臓六腑にしみいる感じだよ」
「良かった……例えがどこかのおじいちゃんっぽいけど」
「私、シジミのお味噌汁だけは絶対に出てくるだろうなあって思ってたけど、スープもいいね!」
「うん。どっちにしようか迷ったけど、パスタだから」
真緒の反応に満足したさくらも、フォークを使ってパスタを絡めていく。
「まあ私、さくらが出してくれた料理だったらなんでも食べるけどね」
「な……なんでも?」
さくらの持つフォークが、ピタリ、と止まった。
真緒の言う「なんでも」はシャレにならない。なぜならば彼女は、ゴールデンハムスター『賢太』のために買ってきたおやつを、勘違いとはいえ、なんの疑問も持たずに食べていたことがあったのだ。
そんな真緒は、スープの中に入っているエノキダケを一つ、フォークで突き刺しながら言う。
「まあさすがに、毒キノコみたいなものとかを出されちゃったりしたら、私でも食べるかどうかは迷うけど。あはは」
「え……どうして迷うの……?」
思わずさくらは、じとーっとした半眼を向けた。
すると、珍しくも真緒の顔が、さーっと青ざめていく。
「や……やっぱり出されたからには食べないとだめだよね……うう。毒キノコかぁ……どうしようかなぁ……」
「ちっ、違うよ。私が言いたいのは逆だよ。そんなもの迷わずに捨てなきゃだめだよって言っているの」
「ああ、そういうことか。安心した」
本気でホッとしたような表情で、真緒はエノキダケを口に放り込んで食べた。
美味しそうに食べてくれるので、さくらも安心――ずっとお預けにしていたフォークを動かしてパスタを絡め、口に運んだ。
「でも……」
と真緒が言う。
「うん?」
「私、もしもさくらに毒キノコを食べさせられちゃったとしても、それはそれで本望かもしれない……」
いきなり何を言い出すのだろうか。
さくらは思わずむせてしまい、けほけほと咳こんでしまう。
「お……おねえちゃん」
「うん?」
「おねえちゃんは私の料理でお腹をこわして、トイレでうーんうーんって唸りながら『本望だあああ』とかって言えるの……?」
「言えるね!」
なぜか自信たっぷりに真緒は言った。
しかし、毒キノコなどを食べてしまった日には『食あたり』では済まない。『食中毒』である。トイレどころか病院行きだ。
真緒は続けて言う。
「なんなら私、病院のベッドの上でも言っちゃうね! 『本望だあああ』って」
「お願い。やめて……お医者さんがさじを投げちゃうよ……」
「大丈夫だよ」
「なにが大丈夫なの……」
「私、絶対にさくらより、一日でも長生きするつもりだから!」
「そういう問題じゃないんだけど……っていうか今日は、ほんとうにどこかのおじいちゃんみたいなことばかり言うね」
「えへへ」
「……もう」
真緒が無邪気に笑うので、さくらもつられて半笑い。
それからも二人の食事は、冗談とつっこみが飛び交うような、和やかなお喋りとともに進行した。
☆
「さて」
と真緒が、空っぽになったお皿を重ねてから言った。
「うん?」
さくらのお皿も、ちょうど空っぽになったところだった。
「さくら、さっき何を言おうとしていたの?」
「あ……うん……あのね」
少しだけ言いにくいことだった。
しかし、伝えると決めていた。正面に座っている真緒に向けて、率直に言う。
「私もバイトしたいの」
「ああ。なんだ。やっぱりそういうことか」
真緒はすんなりとなにかに納得した。可能性としては反対されてしまうこともあるだろう、とさくらは考えていたのだが、そういう雰囲気でもなさそうだった。
「やってもいいかな?」
「うーん……でもどうして急に?」
「お――」
言いかけて、さくらの口が止まった。
おねえちゃんばかりにバイトをさせてしまうのが心苦しいんだ。そんなことを言おうとしたのだが、「あっはっは、気にしない気にしない。だってさくらは家事やってくれているもん」などと言われて、煙に巻かれてしまう予感がしたのだ。
「お?」
「いや、あのね、私もバイトをしたいの。ただそれだけ。ほんとうにそれだけ」
「……」
きょとん、と真緒は目を丸くしていた。
しばらく二人でそのまま沈黙してしまったが、
「そうだよね。私がバイトを始めたのは、さくらと同じ歳だったもんね」とひとりごとのように言った。
「……うん」
真緒は、さくらと同じ歳のときにバイトを始めた。
つまりそれは、中学二年生にしてバイトを始めたということだ。この世界では、それが広く認められている。
「だから私も、バイトをしたいの」
さくらがもう一度言うと、真緒はすぐに頷いた。
「うん。私には反対する理由も、権利もないかな」
「ほんとう?」さくらは目を輝かせた。
「ただし」
「うっ……?」
さくらは内心で後ずさりした。
なにか条件をつけようとしているのだろうか。
「週に一度だけ。とりあえず……そういうことでいい?」
「一度だけ、かぁ」
ちょっとだけ微妙かな、と思ってしまった。




