アヒルの子 その1
ひらがなで三文字。
さくら。
それが彼女の名前である。
大月家の次女として産まれてきたさくらは、赤ん坊のころから冷めた感じのする女の子だった。
あらゆることに好奇心を見せなかったのだ。
たとえば両親が、お腹を押すと「ぶううっ」と音のなる豚さんのお人形であやしてみたときにも、赤ん坊のさくらは、ちらっと見ただけでどこか別のところに視線を向けてしまったり、また、ウサギさんのお人形を揺らして耳を「パタパタッ」と羽ばたかせたりしたときにも、しばらくは目で追っていたりもするのだが、やがて飽きてはポケーと呆けていた。
どことなく感情表現にもとぼしく、笑うこともすくなかった。
――笑わないのならば、意地でも笑わせてやる。
父親はムキになり、「ぶううっ」を鳴らしまくり、うさぎさんの耳を「パタパタ」させていたかと思いきや、その首を「ガックンガックン」振ってヘッドバンキングさせ、「きょおおおお」と奇声をあげながら「ぶううっ、ガックンガックン、ぶううっ」、やがてウサギと豚を、空中戦に発展させる。しまいには力みすぎて「ぶ」とオナラをしてしまったりもするのだが……当時、産まれて三か月のさくらは、とりたてて興味も覚えなかった。
どちらかというと、三歳になる『さくらの姉』のほうが、笑い転げてしまって大変だった。
さくらの姉――真緒。
なにが大変なのかというと、お箸が転がるのを見てしまっただけでもツボにはまってしまうくらいに閾値の低い真緒なのだ。父親のピエロっぷりが面白すぎて、真緒はお腹をかかえながらゲラゲラと大笑い、ゴロゴロと床を転がり、涙を流しながらドンドンと床を叩き、呼吸困難におちいったすえに嘔吐である。
おええー、と。
もちろん『後始末』をさせられるのは父親だ。
「……あんた……ご飯食べたあとに笑わせにかかるの、やめなさいよ」
母親は目を尖らせる。
もしかすると、さくらがどことなく冷めた感じがするのは、母親の血をしっかりと受け継いでしまったせいなのかもしれない。
母親は、笑顔を作ることが苦手なタイプの人間だったのだ。
二児の母ともなれば、とっくに母性には目覚めているし、彼女なりにたっぷりの愛情を込めて子どもを育ててはいるのだが、どうにも笑うことを気恥しがっているふしがあり――楽しいときには自然と笑うようなこともあるのだが、とにかく笑うのは苦手だった。
そして母親は、自分とさくらが似ていることを、誰よりも分かったような気になっていた。
「さくらが笑うよりも先に、家の中がめちゃめちゃになるじゃない……」
だが父親も、
「笑い過ぎてしまう真緒がいけないのだ」と、悪びれもせずに口を尖らせる。
さすがにめちゃめちゃになったリビングルームの――散らかったおもちゃや、お人形、吐しゃ物などは一人で全部片づけるのだが、やはり次の日の夜になれば、父親はやっぱり懲りることもなく道化師になり、母親は呆れかえり、さくらはシカトし、真緒は笑い乱れるのだった。
父親は諦めることもなく毎日毎日、同じようなことをやり続けた。
猫じゃらしを買ってきてはくすぐり攻撃をやってみたり、絵の具を大量に買ってきたかと思いきや、自分の身体にぬりたくってボディーアート――どこかのシャーマンみたいに一心不乱に踊ってみたりもした。
だがやはり、さくらは大した反応をみせることもなかった。笑ってしまうのは真緒ばかりだったのだ。
ある意味でさくらは、真緒の笑い声をききながら育ったとも言えるだろう。不思議なことに、真緒の笑い声をきいていると安心するようである。すーっと眠りにおちる。
すやすやと眠りつづける。
やがて目が覚めれば……、夜泣きをしてしまう。
どことなく冷めた感じのする女の子とはいえ、健康であることには変わりはない。健康な赤ん坊であるかぎり、お腹が空けば泣いてしまうし、不快な思いをしたときにもやっぱり泣いてしまうのだ。
さくらが泣いてしまったときには、普段なら真っ先かけつけるのは母親だが、母親そばにいないときには真緒がかけつける。
真緒はわずか三歳だが、『姉』に目覚めていたのだ。
「よしよし、いいこいいこ」……などと言いながら頭をなでてやるのは、もしかすると単なる母親のまね事で、『母性』とはなんの関係もないおままごとのような行為なのかもしれなかったのだが、さくらが安心して泣きやむことだけは、間違いがなかった。
そして真緒が……
まるで青空の中さんさんと輝く太陽のような笑顔を、にこーっと向けてやると……、
さくらは笑うのだ。
さくらも笑顔を向けられると、笑うのである。
これには父親も、母親も、ちょっとだけ悔しい思いをした。
ありのままをいえば嫉妬した。
どんなに無理やり笑わそうとしても笑わせることができなかった父親と……、自分に似てしまったのだから笑わなくてもしょうがないと決めかかっていた母親とが……、二人同時にすねてしまったのだ。
だから父親は、
「真緒! 分かったぞ! さくらが俺のことを無視していたのは、幽霊を見ていたからに違いない!」
などと現実逃避。
「じゃあ、おとうさんより、ゆうれいのほうがおもしろいんだね!」
「……」
父親無言。
そして母親が、
「そうかそうか。今日からは真緒、あなたが母親になりなさい」
と冗談なのか本気なのか分からないようなことを、真顔で言う。口はへの字である。
「うん! わたしがははおや!」
真緒は無邪気にうなずいた。
それからというもの、父親はむりやり笑わそうとすることは少なくなった。
ただ、少なくなったというだけで、道化師を引退してしまったわけではない。長女があんなにもゲラゲラ笑ってくれることが気持ちが良かったのだろう。だから父親は、長女の真緒を笑わせるときには全力でバカをやり、次女のさくらを笑わせるときには優しく笑いかけてやっていた。さくらもその笑顔にはつられて、
「きゃは」
と愛らしい声で笑っていた。
母親は、一ミリグラムほどの羨望のまなざしでそれを見つめていたのだが、かといって無理に笑顔を作ってみせるようなことはなかった。あるいみ自分らしさを見失うこともなく、毎日毎日たんたんと育児につとめていた。
ただその代わりに……、
母親も、さくらと二人っきりになったときだけは、こっそりと笑顔を作ってみたりした。
もちろんさくらも、満面の笑顔を返していた。
☆
桜といえば、季節は春である。
あちらこちらに桜の花びらが散らかり、ピカピカのランドセルたちが小学校の昇降口へと吸い込まれていき、上級生たちはクラス替えに悲喜さまざまな思いをはせらせる。また社会人たちは、たるみきった心を入れかえて新人育成に望み、新人たちは慣れない仕事にはげむ。――春。
桜といえば、季節は春であるはずだ。
だが――、
大月さくら。
彼女は、十月十日に産まれていた。
秋のど真ん中である。
少し前まではあんなに瑞瑞しかった田んぼもまるで野球部の頭みたいに刈り取られ、そこで仲良く大合唱をしていたはずのカエルたちは冬眠にそなえて『飯』の争奪戦をくりひろげるようになり、イタズラな近所のガキどもは柿や栗を投げあう『秋の合戦』に夢中になっては血まみれになる。――そんな秋のまっただなかに、大月さくらは産まれてきたのだ。
だから当然といえば当然のことではあるのだが、彼女は物心がついた頃、ふと気がついてしまった。
自分の名前にまつわる違和感。
「……あれ、おかしいな」
八歳。
それは、さくらが小学三年生の、誕生日がもうすぐにまで迫っている秋のことだった。
小学校からの帰り道。広大な田んぼが広がる道辺では、リンリンと鈴虫が鳴いていた。さくらはそれを聞いているうちに、ふと疑問になってしまったのだ。一体どうして、自分は秋に産まれてきたのに名前が『さくら』になってしまったのだろうか。
――ああ、そうか、きっとてきとうだったんだ。
すぐに悟った。
なにせあの「のほほーん」とした両親のことだ。どうせ何も考えていなかったんだろう。なんとなく「桜が好きだったから」とか、そういう理由で名前をつけてみたに違いない。……そんなふうに自己解決をしてしまった。
そもそもさくらは、自分の名前があまり好きではなかった。
「すぐに散っちゃうのに」というネガティブなイメージを持っていたのだ。
この名前をつけた両親に、「どうしてこの名前にしたの?」などと問いかけてみたくなってしまったのだが……、さくらは嘘をついたり、隠し事をすることがとても苦手だったために、自分の名前に悪い印象をもっていることなどは、両親にはすぐにバレてしまうはずである。バレてしまったら、悲しませてしまうかもしれない。――だったら黙っていたほうが賢明だ。
「このことについては深く考えないでおこう」と思い直した。
その矢先、
さくらの担任の先生が、ひとつの機会を与えてくれた。
「――それでは、調べてきてくださいね」
機会とは、『宿題』だった。
自分は「どうしてそのような名前なのか」、その名前には「どんな意味が込められているのか」。その二つを親から聞いてきなさいというものだった。
まさかこんなタイミングで、そのような宿題を出してくるなどとは。
しかし、これで面と向かって訊くことができる。
おそらく両親は適当につけてしまったのだろう。意味などは、なにも込められてはいないのだ。そんな諦念を抱きつつも、もやもやとしていた気持ちだけはスッキリとしそうだ。――そんな期待をしながら父親に問いかけてみた。
すると父の口からとびだしてきた言葉は、あるいみ明快だった。
「うん? なんとなく」
「……」
「お、おい。なんだそのがっかりしたような顔は」
「……べつに」
リビングルームには、大窓から西日がまっすぐに差し込んでいた。
部屋の真ん中においてあるガラスのテーブルに宿題のノートを広げ、鉛筆を片手にしながら、さくらはため息をついた。
テーブルの両側には、白いソファーが設置してある。
さくらはソファーとテーブルの隙間にすっぽりとはまりこむような形で、座布団をしいて座っていた。思わず鉛筆を、ぽとん、と落としてしまう。空白のノートの上を、ころころ、と転がる。
「……まあ、どうでもいいんだけど」
と、言うさくらの顔は、はっきりと落胆していた。肩にかかる程度のミドルヘアが、西日に照らされてオレンジ色に染まっている。その髪は、毎日丁寧に母親にブラッシングをされているだけはあって、つやつやと光を反射している。
そして、普段ならば、ぱっちりとして愛くるしいほどに大きなさくらの瞳は――、
半眼。
睨みつけるように父親を見ていた。明らかにむずかっている。
すると父親は、
「……めずらしい」
意外なものを見てしまったかのような感想をもらした。
テーブルの対面側でふんぞり返るように――深くソファーへと腰掛けている父親は、気まずそうに自分のあごをぽりぽりとかいた。
「……え? なにが、めずらしいの?」
さくらに問いかけられても、父親は黙ったまま。じーっとさくらを見つめ返した。
父親は驚いていた。
驚いてしまうのも無理はないのだ。
――笑顔を向けてやれば、さくらは笑う。
それは今でも変わらないのだが、やはり「あらゆることに関心がうすい」という部分も、大して変わりはなかったのだ。
あらゆる物事に、こだわるようなこともない。
おもちゃ、お人形、お菓子、お洋服、本、自転車。
さくらにとっては、あらゆるものが「どうでもいいもの」なのかもしれなかった。
極めつけなのが『友人』である。
さくらの家のすぐ近所には、小さな頃から仲のよかった女の子がいた。
さくらと同じ小学校に入学し、登下校も一緒にし、放課後も毎日のように遊ぶくらいに「仲の良いはず」の、いわゆる幼馴染がいたのだが――。入学してから半年後、彼女は遠いどこかへと転校して行ってしまった。
「いやだいやだいやだいやだ! わたしはここにすみたい! さくらちゃんといっしょにいるの!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら彼女が泣き叫んだあの声は、二年が経過した今となっても、さくらの両親の耳に残っている。
あれは可愛そうだった。
しかしあのときのさくらは、あっさりとその出来事を「まあ、いいか」と受け入れていたのだ。
ケロッとした様子で、悲しむような顔もまるで見せなかった。
両親は、「さすがに胸中では悲しんでいるのではないか?」、「誰もいないところで、実はこっそり泣いたりしているのかも?」などと考えたこともあったが、やはりというか見当外れだったようである。
その出来事に対して、
――「さくら、悲しくないの?」
などと、父親は直接訊いてみたことがあったのだが、
――「えっ、なにが?」
さくらは、キョトンとした顔で訊きかえしていたのだ。「まるで思いあたるようなことがない」、といった顔つきだった。
友人でさえもそんな反応なのだから、もちろん、友人以下のぬいぐるみ――父親の激しいおままごとによって首がとれてしまったウサギのぬいぐるに対しても、「可愛そう」だとか、「直してあげようよ」などと訴えてくることもなかったし、小学三年生の秋、つい先日のことだ、父親から「誕生日にはなにが欲しい?」と問われても、悩みもせずに「ううん。なにも」と返事をしていたくらいだった。
だから毎年、さくらの誕生日にはプレゼントが無いぶん豪華なケーキが用意されるのだが、両親はちょっとだけ寂しそうだった。
なにもいらない。
欲しがらない。
よって――、
さくらには個室としてフローリングの六畳間が与えられているのだが、その中身はスカスカの独房のようになってしまっている。
存在する『物』と言えば、勉強机に、ベッドに、目覚まし時計に、空っぽになったままの本棚。
以上である。
……しいて他にあげるとするならば、床にしかれた丸型のカーペットとか、窓についているレースのカーテンだとか、学校で使う教科書や文房具。
その程度なのだ。
ひょっとするとさくらの頭の中には「欲は罪なり」などとぬかしている仏が住み着いてしまっているせいで、お菓子を食べることもお人形で遊ぶことも許してはもらえずに、ひたすら禁欲生活をすることが人生の美徳なのだと洗脳されてしまっているのではないだろうか。食事は必要最低限のみをとりなさい。贅沢は罪なのです。お金もいりません。人はお金ではなくて愛で動くのです。他者にたいする無償の愛こそが美しく、自分を甘やかせる自己愛は醜いのです。さあ、煩悩を捨てるために座禅を組みましょう。
ふざけるな。
父親はそんなことを考え、
だから翌日、夕食を食べたすこし後に、
「あくりょうたいさあああああああああああああん!」
などと言いながらさくらの部屋の中に突撃してしまった。
あまりに唐突だった。
お風呂からあがったばかりのパジャマ姿のさくらは、ベッドの縁に座りながらタオルを髪にあてていたところで、まず「きゃあああああああああ」と悲鳴があがり、「あくりょうはどこだあああ」と声をはりあげる父親の右手には藁人形、左手には五寸釘があった。彼の背中にいきなり蹴りが入り、「あんたが悪霊だバカ」と母親が現れ、小学六年生の真緒までもが「あくりょうはどこだあああ」と右手にラバーカップ――トイレで使うスッポン――を持って乱入してめちゃくちゃになり、最終的には藁人形とラバーカップが戦いはじめる嫌なチャンバラ騒ぎにまでなった。
「俺はさくらになにかをプレゼントしたかっただけなんだよ。だって、さくらの誕生日が近いのに、なんにも欲しがらないから、一体なにが欲しいのかを訊きにこようと思ってさ」
とは父親の言い訳だった。
いったいなにをどうしたら『それ』が、ものを訊ねるときの態度になるのだろうかは誰にも分からなかったが、彼女は真面目に答えた。
「なんでもいい」
無垢な瞳だった。
だから父親は、ためしに、『右手』と『左手』を差し出してみた。
「これ、いる?」
さくらはやっぱり無垢な瞳で答えた。
「くれるの? ……くれるんだったら、それがプレゼントでいい」
「……」
父親は、そのとき久しぶりに頭痛をおぼえた。
「ねえ、なにが珍しいの?」
そんな娘の問いかけに、父親は我にかえった。