第七話 悪意なき束縛
豪奢な藍色の重ね袿。美しい白髪を結い上げ、簪を下げた様子は、仕事をする女性のものではない。年の頃は40を過ぎた辺りだろうか、皺を隠すかのように顔に白鉛鉱を塗りこめている。
面差しが弓弦とよく似ている。必然的に、どことなく朔も面影がある。遺伝的に近しい事が直感的に分かる程度には。
その女性は弓なりの眉を吊り上げ、険しい顔をしたまま部屋に歩み入ると、床に伏した弓弦を一瞥した。
「朔。それ以上、弓弦を困らせるのはおやめなさい。弓弦は昨日も怪我をして帰ってきたのですよ」
ため息をつかんばかりの様子でそう言った女性は、まるで日輪とカリンなどこの場にいないかのように振る舞っていた。
汚らわしいと言わんばかりのその視線には、覚えがある。
月白種族を忌避する視線だ。
カリンは再び日輪の後ろに隠れた。日輪はそんなカリンを庇ったまま、壁際へ移動する。こっそりと盗み見た兄の横顔は、嫌悪を示していたような気がした。穏やかな日輪がこれだけ不快そうな表情を顕わにするのは非常に珍しい。
簡単な骨組みだけになってしまった朔の左手を見て、女性はさらに溜息を深めた。
「左手もそんな風になって……貴方もまた、怪我をしますよ。姉弟喧嘩はそこまでです。これ以上は私が赦しませんよ」
「母上、喧嘩ではないのだ」
「いつもの喧嘩でしょう。貴方たちは幾つになっても喧嘩ばかり。望を見習いなさい。あの子はいつも静かに勉強をして、今では立派に宗主としてお勤めしています。恥ずかしいと思わないのですか」
凛と通る声が極寒の空気を震わす。
有無を言わさぬ響きを含んだそれに、朔は口を噤んだ。
「護衛部隊まで巻き込んで、そろそろ気が済みましたか? 余計な事を考えるのはやめなさい。もう子供ではないのですから、貴方は宗主一族の事だけを考えていればよいのです」
「だが母上、俺は御苑を出――」
「朔」
震える声で朔がそう言った瞬間、部屋が極寒の空気に充たされた。
ほとんど表情を変えず、静かに部屋の戸を閉めた彼女がそうさせていた。
姶良朧――前宗主、姶良蒼炎の妻にして、現宗主望の母親。そして、弓弦と朔の母親でもある。もしかすると、現在の御苑で最も力を持つ存在なのかもしれない。
「やめなさい。そのような妄想ばかりを口にしていると、今度は本当に怒りますよ?」
呆れた口調。
しかし、その裏に在るのは有無を言わせぬ絶対的な支配だった。
朔の右手が震えているのが見えた。カリンは目を見開いた。あの朔が、脅えている?
この人がそうさせているというのだろうか。
圧倒的な存在感を持つ、朔の母親。彼女はこの空気を緩める気はないようだ。
「もういいですね。二人とももう成人なのだから、子供の頃のように私が一緒に謝る事はしません。今回、弓弦も含めて幾人が怪我をしたと思うのです。下層の者たちも迷惑しているのですよ。弓弦をきちんと介抱して、起きたら一緒に謝っておいでなさい」
まるで子供に言い聞かすように告げた言葉。
優しいようでいて、強制されているかのような物言いはどこかがおかしい。まるで、その言葉にきりきりと締め上げられていくような感覚を覚えた。
カリンはその声音に不安を覚えた。
朔が動けないでいる。星を見たいと語った瞳の力強さが失われている。瑠璃の瞳が光を失っていく。
「俺の話を聞いてくれ、母上」
「いいえ、もう聞きません。もう何度も聞きました。天路に吹き込まれた妄言はすべて忘れなさい。朔、貴方は紛れもなく姶良の胤裔。ただ一人選ばれた宗胤なのですよ。それを誇りに思いなさい」
どこが、聞いているのだろう。カリンは首を傾げた。この女の人は少し、変だ。目の前にいるのに、会話をしているはずなのに、何処か決定的にズレた場所にいる。朔の言葉に答えていない。朔の言葉を聞いていない。
まるで、自分の中に朔の姿を作り上げていて、理想化して、その朔と話しているような。
「宗胤の座は伊万里に譲った」
「私は承諾していませんよ。勝手に話を作ってはいけません」
「母上にも言った。伊万里と共に承諾した旨を伝えている。伊万里に確認してもらってもいい」
「いいえ、聞いていません。聞いていたとしても覚えていません。そのような戯言、大概にしなさい。宗主一族として恥ずべき行為です。そのような礼節もわきまえぬ行為を赦すと思うのですか」
「母上っ……!」
目の前の不毛なやり取りは、この場所で当たり前の事なんだろうか?
「兄さん」
カリンは、兄の袖を軽く引いた。日輪は少し振り向いたが、その表情は硬かった。
「朔の母さんはいつもああなのか? ちょっと変じゃないか?」
「そうだね。でもあの人は朔の事が嫌いなわけじゃない。むしろ、大好きだからああいう風に言ってしまうんだ。朔が手元を離れるのが嫌なだけなんだよ」
悪気はないんだ、と苦々しく言葉を吐く日輪。
親という概念をあまり理解していないカリンにさえ分かる。この庇護は少しおかしい。
会話も空気も、言っている事もすべておかしい。
朔は泣き笑いのような顔で肩を落とした。
「……一度でいいから、俺の話を聞いてくれ」
まるで、母親に対する何かを諦めているように見えた。何度も何度も告げてきた言葉なのだろう。しかし、一度も届かなかったに違いない。たったこれだけのやりとりで諦めてしまうほどに抑圧されているのだ。何度も何度も繰り返し、その度に届かない絶望を背負ってきたのだろう。
もしかすると、日輪も暗示にかかっているのかもしれない。朔の言葉を信じるなら、日輪も小さいころからこの御苑に出入りしていたのだ。この女性の言葉をずっと聞いていたに違いない。
母の言葉に絡め取られ、動けなくなっていく友人と共に、日輪自身も縛られていっているのではないだろうか。日輪だけではない。朔の周囲にいる人々が皆、その暗示に絡め取られていたら?
こんなおかしな光景を目にして、止めない方がおかしいだろう。
朔に対するこの母親の態度が当たり前だという空気が御苑の中に出来上がってしまっていたとしたら。
カリンがこの光景に違和感を覚えるのは、外から来たから?
「おかしいだろ」
昨日、朔と出会ってから、少しずつ動き始めていた感情が、3年前に凍りつかせたままだった感情が、カリンの中で力強く動き出す。
カリンは日輪の背から抜け出した。
「悪気がないからって人を縛っていい理由にはならないよな、兄さん」
一見、冷めた印象のカリンは周囲からは冷静な性格だと思われている。が、本来は単純で熱しやすく冷めやすい性格だった。3年前から、その感情を意図せず押し込めていただけだ。
奔放な性格の朔と一日行動を共にしたことで、枷が外れかけている。カリンは、朔の話を聞こうともしていない彼女に腹を立てていた。ちりちりと燻る胸底の感情が少しずつ心の端を焦がす。
日輪の制止は間に合わず、カリンは朔と母の間に滑り込んだ。真っ直ぐに朔の母親を見据えると、彼女は、カリンの容姿を見て眉を顰めた。
感情の迸るまま、カリンは指を突きつけた。
「きみは朔の母さんだったな。本当に朔の話を聞いたのか? 何度も聞いた、と言ったが、きみは姶良の成り立ちについて朔が立てた仮説をきちんと説明できるのか?」
俯いていた朔が蒼白な顔をあげた。酷い顔だ。そんな顔するなよ、きみは嬉々として天蓋の上の話をしているくらいがちょうどいいんだから。
対照的に、母の朧は不機嫌そうに片眉を跳ね上げる。
「何ですか、貴方は。宗主一族に話しかけるなど言語道断。口を慎みなさい。そもそも、御苑の敷居を跨ぐ許可は与えていませんよ」
「そうやって話をはぐらかして、どうせ分からないんだろ。聞いてないんだろ。朔の話を聞いてたら、あんな事は絶対に言わない筈だ。分からないのは、分かろうとしていないからだ。きみは朔の事を馬鹿にしてる」
本当に大切なら、話を聞いてくれるはずだ。話を聞かないのは、相手の事を蔑み、話を聞くまでもないと馬鹿にしている行為に他ならない。
例え、その相手が親だったとしても、その相手が子だったとしても。
朧はそれ以上答えなかった。あきれた表情でカリンを見ただけだ。怒りにも値しない、本当に歯牙にもかけていない対応だった。
「ほら、今もあたしの話を聞いてない。あたしの事を馬鹿にしてるからだ。朔にも同じ事をしてるって、どうして分からないんだ? 人を馬鹿にするのも大概にしろ」
カリンの言葉を無視した朧を、カリンも無視した。
踵を翻し、真っ直ぐに朔の元へと歩いていく。
そして袂から取り出した仕置き蟲を思い切り朔の顔面に叩きつけた。
ぱぁん、と甲高い破裂音。日輪が息を呑み、朧が小さく悲鳴を上げた。
「……人を巻き込んでおいて、一緒に行くって言って、勝手に振り回して、それはないよな」
鼻の頭を抑えた朔は、目に涙を滲ませている。
腰に手を当て偉そうに笑ったカリンは、朔に向かって小さな手を差し出した。姶良の街の大通りで、最初に会った時に朔が言った言葉を今度はカリンが告げる。
「あたしと一緒に天蓋の上へ行こう、朔。あたしも天の上に何があるのかもう一度確かめたいんだ。あの場所で見た景色が絶望なんかじゃないって信じたい」
その言葉に、朔は驚いて目を丸くした――もしかすると、最初のカリンもこんな顔をしていたのかもしれない。
カリンとてこの行動が自分らしくない事は自覚している。それでも、誰にらしくないと思われても、守りたかった。この母が耳を貸さない朔の仮説がどれほど素晴らしいもので、どれほどの希望に満ちているものなのか、カリンが信じたそれだけは守りたかった。それはカリンを灰色の景色から救い上げてくれたものなのだ。
それだけは絶対に、否定させない。
「朔、きみは、きみの仮説が正しいって証明してくれるんだろ?」
カリンは灰色の景色に囚われて。
朔は御苑に囚われて。
動けなくなってしまいそうになる。
それでも、一人では無理なら二人で、お互いに、お互いを連れていけばいい。
カリンの強い意志を込めた言葉で、光を失っていた瑠璃色の瞳に再び力が籠った。
「ああ、そうだな」
母のせいか仕置き蟲のせいか、滲んだ涙を振り払うように頭を振り、骨組みだけになってしまった左手でカリンの手を握り返した。きりきり、キシキシと歯車の音がする。髪に下げた鈴がりん、と鳴る。
そして。
「すまなかったな。行こう、カリン」
朔はカリンの手を取るとそのまま抱え上げ、開きっぱなしだった窓へ向かう。
窓枠に足をかけ、最後に部屋の中を振り返る。床に伏した弓弦。二人を止めようと手を伸ばした日輪。呆然とした表情の朧。
「さよならだ、姉上、母上――俺は樹海を越えて、外の世界へ『星』を探しに行く」
そのすべてに背を向けて、朔は再び窓の外へと身を投げ出した。
落ちないようにと首に手を回して抱き着いたカリンに、朔の表情は見えなかった。
耳元でよく通る芯のある声が響く。
「護衛部隊がすぐ下まで来ている。とりあえず、上まで上るぞ」
カリンのを支えている右手に力が入った。
骨組みだけになってしまった左手は、昇降機の圧力をぎりぎりで支えている。金属同士がこすれ合う甲高い悲鳴が鳴り、細いシャフトが大きく歪んだ。このままでは義手が崩壊するのも時間の問題だ。
御苑の壁を跳ぶように登り、とうとう最上の屋根まで来てしまった。屋根の中央に鐘楼が立っている。あの場所なら少し落ち着けそうだ。
朔は鐘楼の屋根の下に飛び込んだ。
姶良の街に、一日の始まりと終わりを告げる鐘。人が鳴らさずとも、歯車機械が撞木の綱を引き、打ち鳴らすように設計されている。鐘楼の屋根裏はみっしりと歯車に覆われていた。大小様々な歯車がかみ合い、きちきちと音を立てながらその時刻を待っている。
下を覗くと、護衛部隊の影は再び下方へと遠ざかっていた。しかし、追いつかれるのは時間の問題だ。
朔の義手ももう限界だった。手の甲部分はかなり歪んでいるし、手首の昇降機を支えていた親指も完全にひしゃげている。これ以上、戦う事も逃げる事もかなり難しい。御苑から逃げるのはともかく、とても樹海を越える事など出来はしないだろう。
朔は義手に視線を落とし、歪んだフレームの手をゆっくりと閉じたり、開いたりした。
「……まさか、日輪に破壊されるとはな」
カリンは答えられなかった。
あの瞬間の日輪は本気だった。母が現れなければ、朔はあのまま日輪によって拘束されていただろう。真意は聞いてみないと分からないので出来ればもう一度会いたいが、朔と共にあの部屋へ戻りたいとはとても思わなかった。
日輪は、朔が天蓋の上を目指す事に反対しているのだろうか。突然、御苑を出てきた朔に呆れてはいたが、怒ってはいなかったし反対するとも言っていなかったのに――窓の外へ跳び出る瞬間に見た、日輪の表情が焼き付いている。
あの時は朔を連れ出して、母親と引き離す事しか考えていなかったから。母親に抑圧された朔を見て、柄になく、本当に珍しい事に腹が立ってしまい、迸る感情そのままに動いてしまった。
本当に誰も気づかなかったんだろうか。誰にも助けてもらえなかったんだろうか。反論する事を忘れてしまうくらい長い間、あの人にあんな態度を赦してきたんだろうか。
家出するという選択肢しか残らないくらいに――もしかすると、朔はカリンが思うほど単純ではないのかもしれない。
「それはそうと、カリン」
朔は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「先ほど、俺を弓弦姉さまに売ろうとしただろう!」
「うん、そうだよ。言った通りだ、あたしは兄さんを助けに来たんだから」
そう。
兄さんを、助けに来たはずだったんだけどな。
カリンは大きくため息をついた。おかしい。何故こんな事になったんだろう。
「酷いな! 一緒に樹海を越えると言ってくれたというのに!」
「そんなこと言ったか?」
「カリン!」
悲鳴のような朔の声。
カリンはやれやれと肩を竦めたが、こんなやり取りを面白がる自分がいる事にも気づいていた。
朔は不思議だ。
朔と行動を共にするようになってから、ひどく感情が揺れ動くのを感じる。悪い気がしないのが不思議なくらいに自由な朔に振り回されている。
だから、母親の前で見せていたような諦めた表情はあまり見たくないのだ。今は――元気そうだけれど。
カリンが横顔をじっと見ている事に気付くと、朔は嬉しそうに笑ってカリンの頬を両手で包み込み、額をこつりと突き合わせた。
「しかし、助けてくれて嬉しかったぞ、カリン。俺はまたこの場所から動けなくなってしまうところだった」
だから、朔はいつも近いのだ。不快に思わないのが不思議なくらいに。
でもそれは今までと同じはずなのに。
微笑んだ表情がどこかとても寂しそうに見えたからだろうか。かぁっと頬が熱くなる。
それなのに、朔が手を離したときにはいつもの朔と同じ顔だった。今見た表情は見間違いだろうかと思うくらいに。
おかしい。とてもドキドキしている。
朔は気にもしていないように再び左手をぎしぎしと鳴らした。
カリンの気持ちも知らないで。本当にこの人は、変な人だ。
「……朔、きみといると調子が狂うよ」
「そうか?」
「そうだ」
カリンは何故だか火照る頬を抑え、顔をあげた。
「とりあえず、何とか夙夜を探そう。もし兄さんが味方じゃないとしたら、その左手を直せるのは夙夜だけだ」