第六話 兄妹と姉弟の不協和音
カリンは、目の前に広がる姶良の街の灯りを見た。連なり眠る夜光蟲が瞬くように美しい光の粒が眼下に広がっていた。
歓声を上げようとしたが、急激に上昇する圧迫感に胸を押され、うまく声が出ない。うまく息が吸えない。代わりに、朔の首元に強く抱きついて、空を駆ける強い風に目を細めながらこの美しい光景を目に焼き付けた。
いつだったか、兄の日輪から聞いたことがある。
今からずっと昔、夜光蟲の群れが姶良の街を覆った事がある、と。何がきっかけだったのかは全く分からない。樹海に住む幾千、幾万の夜光蟲が、普段使わない羽根を広げ、姶良の街の上空を埋め尽くした。そして、ほんの数刻ほど留まった夜光蟲の群れはやがて、帯のように群れを成して、再び樹海へと飛び去って行ったという。
朔から星空の話を聞いた時、カリンの脳裏に浮かんだのは日輪が語ったその光景だった。
カリンは再び、その光景を瞼の裏にくっきりと思い描いてた。
菌糸を使う巧みさで言えば、朔は護衛部隊と比べ物にならなかった。戦闘などには門外漢のカリンが見ても分かるくらいだ。実力差は相当なものだろう。そもそも、ほとんど凹凸のない御苑の外壁を菌糸だけで登る事が出来る方がおかしい。普通なら、壁に激突してそれで終わりだ。
外壁激突すれすれの空中散歩で追手を撒き、二人は御苑上階の窓から中へ転がり込んだ。部屋の中に積んであった書物の山が着地の衝撃で崩れ落ちる。
朔の細く編んだ髪の先につけた鈴がりん、と澄んだ音を鳴らした。
抱え上げていたカリンを降ろし、朔はその場に座り込んだ。荒い息を整えながら、胸元をパタパタとはたく。
「さすがに疲れた。カリン、少し休んでいいか?」
そんな朔の喉元には、黒の襟巻が巻かれたままだった。明らかに暑そうだが、外さないのだろうか?
カリンは自分の喉元をとんとん、と指しながら言う。
「暑かったらそれ、外せばいいだろ?」
「……これは、よいのだ」
首を傾げたカリンだったが、それ以上は追及せず部屋を見渡した。
開け放たれた窓の外を見れば、先ほど見た姶良の街が燦然と煌めく。もしかすると、朔の想像する星空というのはこんな光景なのかもしれない。
部屋は、高架下の店の数倍の広さはあるだろうが、所狭しと書物が積まれていた。一冊手に取ってみると、表紙には褪せた文字で『星の使者』と記してある。次の本は『生命の樹』。
どれもこれも、最初に朔に見せてもらった『天動説の絵本』とよく似た装丁だった。
「もしかしてここ、朔の部屋なのか?」
「ああ、そうだ。まさかこれほどすぐにこの部屋へ戻る事になるとは思わなかったが」
昨日、家出したばかりだというのに、結局自分の部屋へと逆戻り。
どうやら朔の家出はそう簡単に叶いそうもないな。カリンはくすりと笑う。
『星の使者』という本を開いた。中に描かれているのは、大きな絵と、ほんの少しの文字。これも子供向けに描かれたお話なのだろう。
異端の説を唱えたある一人の男がどのように生き、どのように波乱の生涯を終えたのかというお話が美しい絵と共に記されていた。
彼の唱えた説――大地は丸い。そして、人には分からないほどにゆっくりと回転している。
朔に見せてもらった絵本と同じだった。
地動説、と言う名で呼ばれるそれは、カリンにとってほとんどお伽噺だった。しかし、その存在を信じるに足るだけのお伽噺。
そうか、彼はこの本に囲まれて育ったのか。カリンは三冊目の本を手に取る。積んである本は様々で、先ほどから手に取った子供向けの絵本から研究者が読みそうな分厚い専門書まで様々だった。
何故、短絡思考の朔が勉強熱心な日輪と気が合うのだろうと不思議に思っていたが、何のことはない。朔自身も本来は勉強家なのだろう。
そうでなければ、姶良の街がどうやって出来たのか、など考察することは出来なかっただろうから。
きっと、この部屋から見える景色と、この本の山が朔を育てたんだろう。
「この本は全部、朔の師匠だって人に貰ったのか?」
「全てというわけではないが、ほとんどはそうだな。師匠も、もともとは街の歯車技師だったのだ。しかし、その才能を買われて永久機関の専属技師に就任した。俺と日輪はその頃からずっと永久機関の作業室に籠っていた師匠の元に出入りしておってな。俺が10になる歳に、専属教員にしてくれるよう、母さまにお願いしたのだ」
懐かしそうに本を開き、瑠璃の瞳を細めて眺める朔。その表情は、星空を見たいと語った時と同じだった。
「朔のお師匠さんってどんな人なんだ?」
「師匠か、師匠はな、本当にすごい人だ!」
朔はぱっと顔を輝かせた。
「どんな人かと言うと、怒りっぽいところは厨房の親父殿に似ている。目つきが悪くて口が悪いのは桃李婆様にそっくりだ。あとはそうだな、師匠は何でも知っている。何を聞いても答えてくれた。蟲の種類でも、歯車の機構でも、機械の作り方から修理の仕方まで、何でもだ」
「もしかして、兄さんも歯車機械の扱い方を朔のお師匠さんに教わったのか?」
「そうだな。日輪も記憶力がいいから、俺と違って随分と覚えていたぞ。俺はこうして部屋に持ち帰って、何度も何度も同じ個所を読まないと覚えられんと言うのにな」
「……そうか」
不意に胸の内で、ちりりと焦がす感情が蠢く。靄のように漠たる感情が腹の中に渦巻いた。
この感情を何と呼ぶのか、カリンは知らなかった。何となく、気に入らない。朔が悪い訳ではないのに、何故か苛立つ。そもそもこの感情を向けるべき相手が朔で正解なのかもわからない。
にっと笑った朔。
「何しろ師匠は、一度読んだ本の内容は絶対に忘れないと言っておった。だから、読み終わった本を俺と日輪に与えてくれたのだ」
その言葉に、カリンは目を見開いた。
一度読んだ本の内容は絶対に忘れないという特異な能力を持つ人を、カリン自身も知っていたから。
何となく本を見ている気持ちになれず、カリンが手にした本をぱたん、と閉じたところで、部屋の外がにわかに騒がしくなった。
どうやら、朔を探す声らしい。
じきに大声はカリンたちのいる部屋の前に集まり、鋼鉄の鍵とつっかえ棒で閉じた部屋の戸を無理に開こうとし始めた。
この場所で休むのも、そろそろ限界だろう。
「朔、きみは随分と敵が多いんだな」
「すまないな。昔から日輪と二人で、随分あちらこちらを悪戯して回っていたものだから。厨房の親父殿もそうだし、衣裳部屋の桃李婆さまもそうだ。そうそう助けてはもらえんのだよ」
朔の言葉に、カリンは驚いて目を見開く。
「兄さんが悪戯? 朔に巻き込まれただけじゃないのか」
「どちらかと言うと、深刻な悪戯は日輪の方が得意だぞ」
日輪が悪戯をするところを思い浮かべたが、うまく想像できなかった。
「兄さんでも悪戯するんだ」
日輪が知らないところで宗主一族の朔と知り合いだったり、御苑に出入りしていたり。そして歯車機械の修理も、全く知らない場所で学んだ事だったとは。
カリンは優しくて穏やかな兄の姿しか知らない。
胸が疼く感じがする。
その感情を言葉にできず、カリンは眉を寄せた。言葉にしてしまうと、無為に朔を傷つけてしまうような気がした。
困惑。そう、カリンの知る中では困惑と言う言葉が最もこの感情に近い。親友という漠然とした言葉で括られた二人が、どれだけの時を重ねていたか、知らなかった。
その感情を嫉妬と呼ぶという事を、カリンはまだ知らない。
カリンが知るのは、偽斯堂の奥で歯車いじりをして、官営工房の勤めから帰ったカリンをおかえり、と笑顔で迎えてくれる、優しい日輪だけだ。
「あたしの知らない兄さんもいるのか」
ぽつり、と呟くカリン。
その言葉だけでは、重くなった心を軽くすることは出来なかった。
「見つかる前に行こう、カリン。おそらく日輪は弓弦姉さまの部屋だ。もう一度、外へ回るぞ」
朔は有無を言わせずカリンを抱き上げ、再び窓の外へ身を投じた。
弓弦の部屋は朔の部屋のほんの隣だ。外を警備している護衛部隊がこちらに向かっているのが見えたが、まだまだこの高さには辿り着きそうもない。
朔は固く閉じられた弓弦の部屋の窓を蹴破って、中へと飛び込んだ。
「日輪! 無事か!」
凄まじい音と共に転がり込むと、目の前に立っていたのは朔の姉、弓弦だった。
藍色の着物を襷がけ、朔と同じ方解石色の髪を高い位置に括っている。切りそろえた前髪の下、気の強そうな目が印象的だった。
「出ていく時も帰ってくるときもお前は騒々しいな、朔。少しは静かに出来んのか」
護衛部隊の隊士とは比較にならない戦闘力を持つ弓弦を相手に、さしもの朔もカリンを抱えたまま一歩、退く。
「まあ、自発的に帰ってきただけで良しとしよう。最も、貴様の言うとおりだったのはあまり納得いかんがな」
腕を組み、仁王立ちで待ち構えていた彼女は、忌々しげに後ろを振り向いた。
その後ろから現れたのは、縛られていた手首を撫でながら困ったように笑う日輪だった。
「でも、弓弦さんだって人質の価値があると思ってオレを連れてきたんでしょ」
弓弦の沈黙は、肯定。
それを見た日輪は苦笑した。
元気そうな日輪の様子に、カリンはほっとして笑みを見せる。
「よかった、兄さん」
一瞬、日輪が驚いた顔を見せたのは、普段あまり感情を表に出さないカリンが分かりやすく笑ったからだ。
それだけ日輪の事を心配していた、とも取れるが、おそらく違う。
カリンの隣に立っている日輪の友人。感情を思いのままに外に出し、思い立ったが吉日と行動を起こす自由人である彼の影響が大きいのだろう。
たった一日。たった数刻。
三年間隣にいた日輪がほとんど出来なかった事を、友人は簡単に成し遂げていく。
それを難しいと思わずに、それを目的とも思わずに。
「だから苦手なんだよなあ」
日輪は誰にも聞こえない声でそう呟いた。
カリンと違い、日輪はこれが嫉妬という感情だという事を知っている。だから、朔を厭う弓弦の気持ちは痛いほどに分かるのだ。
これ以上かき乱されないうちに帰ろう。
日輪はカリンに向かって手を差し出した。
「一緒に帰ろう、カリン。どうせ夙夜も来てるんだろう。探して、一緒に連れて帰るよ」
「はい、兄さん」
カリンは素直に頷いて朔の腕から降り、日輪の元へ向かった。
「朔は置いていくよ。弓弦さんとの約束だからね」
「はい、兄さん」
従順な妹の頭を撫でてやると、彼女は唇の端をあげた。
その姿を見て朔が慌てる。
「待て、日輪! カリンもだ! 二人とも、俺に冷たすぎやしないか?!」
「だってあたしは兄さんを助けに来たんだよ? 朔を置いていけば兄さんが戻ってくるなら、朔を置いていくよ」
淡々と答えるカリン。
鼻で笑った弓弦は高い位置に括った方解石の髪を翻してその間に立ち塞がり、帯に挟んでいた旋棍を構えた。
「往生しろ、朔。お前は縛り付けてでも母上の元へ連れて行く」
朔が一瞬、眉を顰めた。
これまでほとんど不快な感情を見せなかった朔の表情が曇った事に、カリンは違和感を覚えた。母、という単語がそうさせたのか。
月白種族であるカリンには、『親』という存在が今一つ理解できない。
親は子の面倒を見ないのが普通で、兄弟や幼馴染や、近くにいた子供同士が手を取り合って生活するのが普通だからだ。
でも、行政区の人間たちは違うと聞いた。親は子を手厚く保護し、教育し、20歳近くになるまで手元に置くのだという。おそらく朔もそうなのだろう。宗主一族が行政区の民と同じ習慣を持つかは知らないが、日輪と同じくらいの年齢と思われる朔は、まだ親の庇護下にあるはずだ。
旋棍を手にした弓弦が本気だという事に気付いたのだろう。
朔は、数本の歯車棒を一瞬にしてくみ上げた棍を一振りした。
次の瞬間、凄まじい勢いで回転する旋棍が朔を襲う。
一撃目をうまく受け止めた朔だったが、小回りの利く旋棍相手では分が悪い。数合打ち合い、棍を回転させる間に懐へ入り込まれてしまった。
顎を狙って打ち上げられる旋棍をギリギリのところで体を逸らせて避ける。
が、追撃は止まない。
一気に決めるつもりだろう。
弓弦は軸足と反対の足で朔の肘を蹴り上げた。
この近距離で蹴りを受けると思わなかったのだろう。武器から完全に手が離れ、上体が浮いてしまう。
それでも、朔は追撃をすんでのところでかわし、宙返りをするように大きく後ろへと跳んだ。
一度距離を置く両者。
宗主一族の次女は凛々しい横顔で、唇の端に笑みをのせた。額にうっすらと汗をかいているものの、疲労の気配は全くない。
「相変わらず、避ける事に関してだけは小賢しいほどだな。しかし――」
休息は一瞬。再度、旋棍が鋭く回転し朔を襲う。
息つく間もない連続攻撃。
完全に防御に回った朔に向け、弓弦は両手を思い切りクロスさせた強烈な打撃を叩き込んだ。
勢いづいた攻撃を受け止め、朔の持つ棍がみしみしと悲鳴を上げる。
そのまま鍔迫り合いに持ち込まれた。
女性とは思えぬ力強さで押す弓弦はまだまだ余力を残しているように見えた。対する朔は、かなり苦しげな様子だ。
弓弦の肩越しに、朔と目が合う――瑠璃の瞳がカリンに何か訴えかけていた。
カリンの方へ気を逸らした朔が、徐々に押されていく。
「ここまでだ、朔」
そこからの彼女の動きは完璧だった。何度も何度も訓練を繰り返し、鍛錬を繰り返したものだけに許された最小限の動きで、弓弦は旋棍をうまく回転させ、朔の首根を抑え込んだ。手にしていた棍をそのまま踏みつけて両手の動きを封じ、膝で腹に乗り上げるようにして地面に縫い付ける。
「朔!」
思わず、カリンは叫んだ。
無意識だった。
飛び出しかねない様子を見て、日輪がカリンの手を取る。引き留められ、はっとするカリン。
見上げると、少し怒っているかのような緑簾石の瞳が見下ろしていた。見た事のないその色に、カリンは息を止めた。
知らない兄の姿を知ってしまったからか。それとも、地動説を知り、朔の話を聞いたことで天蓋の上の世界に少しだけでも希望を見出してしまったからか。
カリンは自分自身が動揺した事にはっきりと気づいてしまった。そして何より、その動揺を兄に知られた事にさらに焦りを覚えた。
何をしているんだ、あたしは、兄さんを助けに来たんだろう?
喉が張り付いて声が出ない。
足も手も、鉛を下げたように動かない。
そこへ、静かに通る声が響いた。
「カリン」
床に縫い付けられた朔が、視線をこちらに向ける。髪の先に下げた鈴が、リン、と鳴った。
「一緒に天蓋の上へ行くと言っただろう?」
天蓋の上。
その言葉に、カリンの柘榴石の瞳が揺れる。天蓋の上。天動説。地動説。星空。樹海を越えて――様々な感情がカリンの中を駆け廻る。
指の先が、動いた。何かを求めるように開いて、再び強く拳を握りしめる。
刹那、弓弦が踏みつけていた朔の棍が、一瞬にして分解した。
バランスを崩した弓弦に、朔は左手の中指を突きつける。人差し指は眠り薬。中指は――
仰け反るように硬直した弓弦が、畳の床に倒れ込んでいった。横に倒れ込み、小刻みに震えながら目を見開いていた。何か言おうとしているが、声が出ないようだ。
中指は痺れ薬。確か、夙夜がそう言っていた。
その様子を見て、日輪がため息をついた。
「オレは義手にそんな機能を付けた覚えはないけど……さては、夙夜だね」
こちらに向かって歩いてくる朔からカリンを庇い、日輪は懐を探った。
「仕方ないな、キミたちは。いつだってオレは振り回されて、心配するばっかりだ。本当に仕方ないんだから。さ、左手を出して、朔」
「どうした、日輪。夙夜なら完璧に修理してくれたぞ?」
不思議そうにしながらも無防備に左手を差し出した朔。
日輪は懐から取り出したのは、分解修理用の工具だった。先の形が異なる鋼鉄の棒が何本も飛び出たそれは、日輪にしか使えない特注のものだ。
日輪が緑簾石の目を細める。そこからは一瞬だった。
工具を一閃させた日輪。
次の瞬間、朔の左手がパンと音を立てて弾けた。
「……え?」
呆けた顔の朔。
被膜が割れ、中の部品が空中に放り出され、ばらばらと畳に落ちていく。歯車と螺子が足元に転がり落ち、跳ねて広がった。
残ったのは、骨組みのようなシャフトだけ。
「キミがオレに反抗できるわけないだろ。その義手を作ったのは、オレなんだから」
カリンは息を止めた。
日輪の背に張り付いているカリンから、兄の表情は確認できない。しかし、その口元は笑っているように見えた。
朔は骨組みだけになってしまった左手を見、そして日輪の表情を見て酷く驚いた顔をした。
そしてその時。
ちょうど部屋の引き戸が開き、弓弦とよく似たよく通る凛とした声が部屋に響いた。
「朔」
日輪の肩越しに、その姿を見とめた朔は見る見る目を見開いた。
軽く開いた唇から、つぶやきが漏れる。
「……母上」
日輪と共にカリンが振り向くと、其処に立っていたのは弓弦とよく似た面差しの女性だった。
作中文献:
『星の使者―ガリレオ・ガリレイ』 ピーター・シス
『生命の樹 チャールズ・ダーウィンの生涯』 ピーター・シス