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第五話 御苑と地下の永久機関 ☆

 『姶良の街』と呼ぶ時、それは大方の場合において行政区内の事を指す。

 街の中央に宗主一族の住まう御苑があり、その地下に永久機関がある。永久機関とは、文字通り永久に動力を生み出し続ける歯車機関のことだ。動力は、壁や地面に埋め込まれた鋼鉄の歯車を伝って行政区内に供給されている。永久機関を宗主一族が管理する事で、宗主一族は姶良の街における絶対的な地位を誇っているのだった。

 しかし、その動力が供給されるのは行政区内のみ。カリン達が住む高架下までは届かない。本来なら、高架下貧民街に住むカリンが宗主一族と関わる事などない筈だった。

 それなのに今、カリンは宗主一族の放蕩息子のせいで捕まった兄の日輪を助けるため、御苑への道を歩いているのだった。

 宗主一族を崇める心など持ち合わせていないが、敢えて喧嘩を売りたい訳ではない。下手をすれば、命を落としかねないのだ。

 御苑の断崖は大型の歯車に埋め尽くされ、壁面を見ることは出来ない。何処よりも明るい光を放つ望楼は、手の届かないほど遠くに在るように思われた。

 燦然と輝く宗主一族の住まう御苑を見上げ、カリンは一つため息。

 無事、日輪の元へ辿り着けることが出来ればよいのだけれど。

「朔、喋るなよ」

 分かってる、という風に朔は口を一文字に閉じて頷いた。

 顔が知られているとは思わないが、先日ここで護衛部隊と鬼ごっこをしたばかりだ。朔は目立たないように、目と耳を隠すように頭から布をかぶせ、落ちないように鉢巻で留めた。多少妖しいが、月白種族と普通の人間が一緒にいる方が目についてしまう。そもそも朔は背が高いので何をしなくても目立つというのに。

 必要最低限の視界を確保するため、布の下ぎりぎりから瑠璃色の瞳が見えているが、許容範囲だ。

 カリンの緊張を他所に、夙夜はのんびり言う。

「ねえねえ、御苑に行くなら、僕、折角なら地下の永久機関が見てみたいんだ。あれがどうやって動力を生み出してるか知りたい。たぶん、見たら分かると思うから見るだけでいいよ」

「ああ、永久機関くらいなら案内するぞ」

 姶良を統べる宗主一族の住む御苑に乗り込もうというのにこの幼馴染は、そして喋るなと言った傍から話し出す、人の話を聞かないこの放蕩息子はいったい何を言っているのだろう。

 見るだけでいいよ、と言うのが本当だから困りものだ。歯車オタクの夙夜は、本当に見ただけで、その機械の構造を理解してしまうのだから。

 袂に大量に仕込んできた仕置き蟲を二匹取り出して、それぞれに投げつけた。

 完全に無防備だった二人は、衝撃を受けて仰け反った。

 周囲の通行人が、何が起きたかと凝視していたが、気にしない。

「朔、喋るなって言っただろ。夙夜も何言ってんだ。そんな余裕ないよ。兄さんを助けたらすぐ逃げるんだ」

 赤くなった鼻の頭を抑え、涙目の夙夜と朔。

 駄目だ。考えなしの二人を並べて放っておいたら、何を始めるか分からない。

 カリンは、自分の髪飾りについていた鈴を二つ、外した。一つを朔の細く編んだ朔の髪の先に、もう一つを夙夜の耳飾りに結びつけた。

 二人が動く度、その鈴はちりんと澄んだ音を立てる。

 これで居場所もすぐ分かる。

 カリンは満足だった――御苑へ忍び込もうとしているこの時に、敵にも見つかりやすいという事には全く気付いていなかったが。


挿絵(By みてみん)

挿絵:himmelさま(http://1432.mitemin.net/)



 周囲に怪しまれることなく、または、多少怪しまれていたかもしれないが本人たちはそれに気づくことなく、大通りを真っ直ぐに歩いて御苑の下まで辿り着いた。

 御苑の入り口に当たる中央門へと差しかかると、門の両脇に門番の護衛部隊が立っているのが目に入った。

 さて、まずはあの門番をどうやって突破するかを考えないと。

 カリンが頭を捻っていると、夙夜と朔が顔を見合わせて楽しそうに笑った。

「俺に任せろ、カリン。先ほどちょうど、夙夜に改造して貰ったところだ」

 うんうん、と頷く夙夜。

 この二人が絡むと、ロクな事にならない。

 カリンは咄嗟にそう思った。

 が、止める間もなく朔は顔を隠していた布を取り払い、門番の方へとすたすた歩いて行ってしまった。

 やめろ、こんなところで見つかったら侵入どころではなくなる――という言葉は届かず。

 護衛部隊の門番たちは、探していた相手が向こうからのこのことやって来た事に驚いた。一人が上階への連絡をしようと慌てて蟲笛を取り出した。

 が、朔は慌てずに門番を手招きで呼び寄せた。

 首を傾げながらも朔の元へ寄ってきた二人の門番。

 そして一言二言話しているうちに、何故か門番たちはふらふらとよろめき、地面に倒れ伏してしまった。

 ぽかんとするカリンを尻目に、戻ってきた朔が夙夜とハイタッチ。

「何だ、今のは?!」

「へへへ、朔さんの義手に、試作品を朔の義手に取り付けたんだよ! 人差し指が眠り薬、中指が痺れ薬、薬指が惚れ――」

「……もういい」

 本当に、ロクな事をしないな、この二人は。

 しかし。

 地面に倒れ込んだ二人の門番を見て思う。

 簡単に御苑へ入り込める事は、喜ぶべきかもしれない、と。

 カリンとてそれなりに準備はしてきたものの、御苑に乗り込むにはそれなりの勇気が必要だった。捕まったのが兄の日輪でなければ、宗主一族に楯突くなど絶対に御免被る。

 でも、多少無茶苦茶ではあるが、この二人と一緒なら大丈夫かもしれない。

 カリンは少しだけ気持ちが楽になったのを感じた。



 門番を下して御苑の中央門を通り過ぎると、目の前に巨大な歯車群が迫ってきた。

「どうやって御苑に入るんだ?」

「崖の内部に階段があるのだ」

「階段?! 登るのか?!」

 カリンは思わず断崖を見上げた。御苑の位置が霞むほど遠い。これを階段で登ろうなど、正気の沙汰ではない。もしかすると、元気の有り余っている朔なら登ってしまうのかもしれないが。

 中央門からすぐの場所にある歯車の隙間にある入り口を抜けると、朔の言うとおり、見上げる果てまで階段が続いていた。

 冗談じゃない。登れるはずがない。掴まった兄さんには悪いけど、帰らせてもらおう。

 カリンが帰る、と言い出しそうになった時。

「大丈夫だよ、カリン。昇降機を持ってきたから」

 夙夜がのんびり言って、背負っていた頭陀袋から鋼鉄の輪を取り出した。

 昇降機、と呼んだその輪自体は掌に乗るほどの大きさだが、かなり厚みがある。そして中からは、きりきりキシキシと蟲の(コエ)がした。

 この聲には聞き覚えがある。

「もしかして中に蛛網蟲(ちゅもうむし)が入ってるのか?」

「そうだよ。さすがカリン。よく分かったね」

 夙夜がへらへらと笑う。

 蛛網蟲(ちゅもうむし)は粘着力のある丈夫な菌糸を生産する蟲で、医療分野から建築他、様々な分野で使われている蟲だ。飼育は非常に簡単で、エサさえ絶やさなければ大体の環境で飼うことが出来る。確かに、この厚さがあれば蛛網蟲(ちゅもうむし)を飼う事は可能だ――理論上は。

 彼が以前、蛛網蟲(ちゅもうむし)を最小限の空間で飼いたい、とカリンに尋ねてきた事があったのを思い出す。これを作る為だったのか。

 夙夜が鋼鉄の輪を手首に嵌め、思い切り上に向かって振り上げると、その勢いで黄白色の菌糸が飛び出した。

 昇降機から伸びたその菌糸はかなり上空の階段の裏に張り付いた。

 夙夜は、伸縮性のあるその糸をぐっと引っ張り、その反動で思いきり飛び上がった。

「!」

 瞬きをするほどの間に、まるでバネを得た蟲のように、はるか上空まで上っていた。

 夙夜はうまく勢いを殺して階段の途中に着地した。

「さあ、俺たちも行くぞ、カリン」

 朔も同じ昇降機を左手首に嵌めていた。

 そして、右腕一本でカリンを抱え上げると、一気に跳んだ。

 上から押さえつけられるような感覚の後、浮遊感。

 空中で菌糸を切り離した朔は、着地することなく再び菌糸を高い場所へと飛ばし、勢いづけてさらに高く跳んだ。

 気が付けば、のんびりと昇降機の糸を回収しながら地道に上る夙夜はあっという間に追い越され、みるみる足元へと遠ざかって行った。

「うわあ……!」

 空を飛ぶという初めての感覚に、珍しくカリンが高揚していると、風の音にかき消えぬよく通る声が耳元に響いた。

「このまま上まで行くぞ。落ちないように掴まっていろ」

「分かった」

 カリンは素直に頷いて、朔の首元あたりに手を回す。

 こんな光景を日輪が見たら慌てて引き剥がしただろうが。

 カリンを抱えた朔は、勢いをつけて最上階まで一気に登り着いた。

 階段の最上階は、四方を柵で囲まれた小さな足場があるだけだ。数歩で端に届くような狭い空間。壁には鮮やかな藍色の扉が一つ、造り付けられていた。

 朔はそこへカリンを降ろすと、再び菌糸を伸ばして下へと降りて行った。

 しばらくして戻ってきた朔は、夙夜を背に負っていた。

 礼を言って朔の背から降りた夙夜は、感心したように言った。

「朔は昇降機を使い慣れてるんだね。僕がこれを作って日輪兄ちゃんに渡したのは、ほんの1年くらい前なのに」

「弓弦姉さまがすぐに使いこなして、護衛部隊の全員に使い方を教えたのだ。俺もその時に教わった。今ではもうこれがないと移動しづらい。もちろん、家出する時もこれを使って岩壁を下ったのだ。お陰で、簡単だったぞ!」

 朔は簡単に言うが、御苑から逃げるのがそんなに簡単なわけがない。

 どうやら、夙夜の開発する歯車機械は朔と相性がいいらしい。

 昇降機、空砲、それに指に仕込んだ薬砲。

 これまで夙夜の作る機械は何の役にも立たないと思っていが、使う側の問題だったようだ。パートナーを得た夙夜がこの先何を作るつもりなのか……二人が組むと、本当にロクな事にならない気がする。

 カリンはすっかり癖になってしまったため息を零した。

「それより、こんな場所に立ってて大丈夫なのか? 誰か来て見つかったりしたら面倒だろ」

「大丈夫だ。今、この階段を使って御苑へ通う物好きはいない。普通に上ったら半日近くかかるからな。皆、奥にある輸送機を使うのだ」

「輸送機?」

「ああ。この昇降機を大きくしたようなもので、人の乗る籠ごと上へ吊り上げる仕組みを作成してある。夙夜の昇降機のように動きの自由はきかないが、上るだけなら十分だ。以前は皆、階段を使っていたのだが、街から通う使用人たちから不満が出てな。俺の師匠が作ったのだ。すごいだろう?」

 それを聞いて、夙夜が顔を輝かせた。

「朔さんのお師匠さんに会ってみたいなあ。その人も御苑にいるの?」

「今はいない。何年か前の事故の責任を負わされて……俺の指導教員を止めされられてしまったのだ。今は、何処にいるのか分からん」

 朔に『天動説の絵本』を渡したというその師匠。きっとその人も、朔と同じようにこの姶良の成り立ちについて仮説を持っているに違いない。

 一体どんな人なんだろう?

 機会があれば自分も会ってみたいとカリンは思う。

「さて、そろそろ行こう。弓弦姉さまも日輪と面識がない訳ではないから殺すような事はしないと思うが、手荒い真似をされないか心配だ」

「じゃあ僕は永久機関を見に行くよ。朔さん、場所を教えて」

 夙夜は昇降機を頭陀袋に改修しながら言った。

「夙夜は一緒に兄さんを助けに来てくれないのか?」

「日輪兄ちゃんは、僕よりよっぽど強いから大丈夫だよ。それより僕は永久機関が見たいんだ。きっと今後の開発に役立つよ」

「何だよ、それ!」

 弓弦に連れ去られた日輪を助けに来たはずなのに、この歯車オタクの幼馴染はもうすっかり永久機関に夢中だ。

 朔は、夙夜の差し出した帳面に簡単な地図を描いて渡した。

 そして、朔がここへ来るまで被っていた布を夙夜の頭に巻き付け、月白種族の特徴である大きな耳と光彩を隠してやっていた。余計に怪しいから全く誤魔化せないだろうが、気休めだ。

 一人で永久機関を見に行って、見つかったり捕まったりしたらどうするのか。

 まあ、夙夜なら一人でも訳の分からない武器を使って逃げ出すことくらい簡単にできるだろうし、大丈夫だろう。

「じゃあ、行ってくるよ!」

 大きな頭陀袋を背負って藍色の扉を開き、嬉しそうに手を振りながら去っていく幼馴染を止める術は持たなかった。

 夙夜の背を見送った直後、城内警護をしていたと思われる護衛部隊の叫ぶ声が聞こえた気もするが、気のせいだという事にしよう。

 さあ、仕切り直しだ。

「兄さんを探そう。朔、どこにいるか見当はついてるのか?」

「少なくとも、下層ではないだろうな。政治関係の部屋があるばかりだ。いるとすれば上層だろう」

「上層には何があるんだ?」

「宗主一族の住む場所だ。俺や姉さまたちの部屋もそこだ」

「普通は、牢屋とかがあるんじゃないのか? その、弓弦って姉さまは兄さんを部屋に連れ込んだって事なのか?」

 カリンは肩を竦めた。

 それを聞いた朔は微妙な表情を浮かべた。

「連れ込むとは……少々言い方が悪いぞ、カリン。牢はあるのだが、ほとんど使っておらん。姶良の街で宗主一族に楯突くような輩は、数十年前に高架下の反乱軍を鎮圧してする時に駆逐されておるからな。日輪だけなら使っていない牢に放り込むより、縛って自分の部屋に転がしておいた方がよっぽど見張りやすいだろう?」

「それもそうだな」

 納得したカリンは、御苑に繋がる扉に手をかけた。

 なんとなく、外が騒がしいかな――と思いつつ。

 開けた先には、廊下に犇めく護衛部隊の面々。

 もしかすると、待ち伏せされていたのだろうか。

 もしかしなくとも、先ほど逃げ出していった夙夜のせいではないだろうか。

「朔様だ! 例の月白種族も一緒だぞ!」

「早く弓弦様にご連絡を!」

 朔とカリンは顔を見合わせた。

 気持ちは一つだ。

 逃げよう。

 次の瞬間、朔はカリンを軽々と抱え上げて跳んだ。

 昇降機の菌糸を天井へと伸ばし、勢いづけて護衛部隊の隊列を飛び越えていく。

 しかし、今度は家出した時のように上手くいかなかった。狭い廊下では飛ぶ距離も限られる。

「危ない、朔!」

 天井に大きくせり出した梁が行く手を阻む。

 避けようと糸を切断した朔は、護衛部隊のほぼ中心に着地してしまった。

 周囲に迫る黒衣の集団。

「何してんだよ、朔!」

「悪い、カリン。思ったよりも廊下が狭いので昇降機は使えん。一度、降りてくれるか?」

 カリンははっとして首に回していた手を解き、床に足を下ろす。

 どうするのかと放蕩息子を見上げると、彼は何処からか尺ほどの棒を数本、取り出した。よく見ると断面に歯車のかみ合わせが覗いている。

 朔は慣れた手つきでそれらを継ぎ合わせていった。

 現れたのは、長い(コン)

 背丈ほどの長さのある棍を手にした朔は一瞬、目を細めた。

 ずっと湛えていた笑顔を不意に隠し、いつもと少し異なる空気を纏う。

 次の瞬間、カリンの目の前から朔が消えた。

 同時に、隊列を組む最前列の数人が吹き飛んだ。

 目を大きく見開く間もなく、体勢を低くした朔が棍を器用にくるくると振り回すのが見えた。

「押し通る」

 静かな声が廊下に響く。

 護衛部隊の隊士達は、その声で一歩、退いた。

 追撃をかけるが如く、朔はさらに床を蹴った。

 カリンははっとして朔の後に続く。ついでに、袖からぽろぽろと接着蟲を床にふりまきながら。

 ぱちんぱちん、と弾けた蟲たちは後ろから追ってくる敵の足止めだ。少しでも踏んでしまえば、トリモチのようにくっついて、動けなくなるはずだ。

 瞬く間に手の届く場所にいた護衛部隊を残らず弾き飛ばした朔がカリンに向かって手を伸ばす。

「行くぞ、カリン!」

 カリンは迷わずその手を取った。



 追ってくる護衛部隊を撒くためだろう、朔はカリンの手を引いて脇の廊下へと飛び込んだ。

 細い廊下の先には揺れる暖簾(のれん)。藍色に染められたその暖簾には『(くりや)』の文字が大きく書かれていた。

 その暖簾をそのまま弾くように潜り抜ける。

 駆け込んだ先はどうやら厨房らしい。其処彼処から湯気が上がり、食べ物の匂いが充満している。出汁のきいたつゆの香りに思わず気を惹かれる。

 給仕らしい女性が怯えて声をあげようとしたが、悲鳴が上がるより先に朔は指を唇に押し当てた。

 見知った顔なのか、女性は肩を竦めて口を噤んだ。

 朔は女性ににこりと笑いかけると、一番奥まで駆け込んで、調理師らしい一人の男性の前に膝をついた。

親父(おやじ)殿、匿ってくれ! 弓弦姉さまに追われているんだ!」

「まあた何か悪さでもしたのか、朔坊ちゃん」

 白いひげ、白い髪。もうかなりの年齢と思われる男性は、皺の奥の目を光らせて朔を見下ろした。

「料理長、坊ちゃまは昨日から家出してたらしいですよ。だから今、弓弦様に追われてるんです」

 給仕の女性がそう告げた。

 それを聞いた料理長は、じぃっと朔の後ろに立つカリンを見据える。

 何を言いたいのだろうか。カリンが首を傾げてみせると、料理長はにこりと笑った。

「すまんな、嬢ちゃん。庇ってやりたいのはやまやまだが、朔様には小さいころから散々、つまみ食いされた恨みがあるんでな」

 しゃがれた声の料理長は、しみじみと告げた。

 そして。

「朔坊ちゃんは厨房にいるぞー!」

 老人と思えない声量。腹の底から張り上げられた声は、確実に護衛部隊にも届いただろう。

「ひどいぞ、親父殿!」

 悲鳴のような朔の声。

 料理長の叫び声を聞いた護衛部隊の隊士が、暖簾を裂いて、厨房入口から飛び込んできた。

 朔はカリンの手を引いて、慌てて反対の出口へと駆ける。


 料理を運んでいる途中の給仕の女性を跳ね除けるようにして細い廊下を駆け抜けた朔は、さらに奥の襖を開け放って部屋へ飛び込んだ。

 中にいた女性たちから悲鳴が上がる。

 部屋は上の階へ吹き抜けなのか天井高く、周囲の壁を埋めるようにぐるりと箪笥が積み重なっていた。天井近くから縄が張り巡らされており、そこには何枚もの着物が釣り下がっている。

 ここは、衣裳部屋だろうか。色とりどりの織布が翻り、視界を埋める。

「朔坊ちゃん?! いったい、何の騒ぎです!」

 ひときわ目立つ壮年女性の声。下街には見られない、足首まで丈のある地味な紺色の着物をきっちりと着付け、小さくすり足でこちらへ歩いてくる。皺が目立つがきりりと吊り上った目は、年をとっても衰えぬ体力を感じさせた。

桃李(とうり)婆さま、弓弦姉さまに追われているのだ。助けてくれないか?」

 その女性は、(まなじり)を吊り上げた。

「まあまあ、可愛らしい御嬢さんを連れて! どうせまた悪戯でもしたのでしょう?! いつもいつも、日輪殿と一緒にどこにでも潜りこんでは大人を困らせてばかり。そろそろ成人の歳なのですから、落ち着きと言うものを身に着けてはどうですか!」

「いや、違うんだ、桃李(とうり)婆さま。俺は――」

 慌てて言い訳をしようとした朔だったが、それより先に背後から護衛部隊が駆け込んでくる。

「いかん、逃げるぞカリン!」

 この部屋も駄目らしい。

 朔はカリンの手を取って駆け出した。

「……きみは御苑に敵しかいないのか?」

「すまない、カリン」

 護衛部隊から逃げながら、左右に迫る襖の間を駆け抜ける。

 ふと見ると、少し先に開けた窓があるようだ。

「外から登る。もう一度掴まっていろカリン」

 軽々とカリンを担ぎ上げた朔は、廊下の突き当たり、欄干から外へと身を投じた。


挿絵はhimmelさま(http://1432.mitemin.net/)にいただきました。

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