第二話 高架下貧民街の歯車技師
まさか宗主一族の手を引いて高架下へ帰る日が来るなど思いもしなかった。
歯車オタクでのんびり屋の幼馴染は役に立ちそうもない。日輪が宗主一族の為に作ったという朔の左手に興味津々、勝手に撫でまわし、中の構造を何とか確認しようと必死だ。
相手が宗主一族であろうと関係ないらしい。
「夙夜の歯車オタクー……」
カリンは小さくため息をついた。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
高架下貧民街。
それは、姶良の街を取り巻く環状の高架鉄道の下に広がる住居群の事を指している。無論、旧時代の産物である高架上の線路は長い間使われておらず、風化を待つばかり。しかしその高架によって風を避けられる空間は、カリンたち月白種族が塒にしている場所だった。
橋桁が一定間隔で並び、その合間は黒灰を塗り固めた壁が埋めている。壁には埋め込まれるように小さな扉が造り付けられ、低い天井ぎりぎりに二階の窓。二階の窓を左右繋ぐようにして菌糸を編んだ縄が貼られていた。縄だけでなくあちらこちらから鉄棒が食み出し、洗濯物が吊るされている。煤けた煉瓦積みの天井は低く、幅も両手を広げれば届いてしまうほどの狭い場所だった。
高架下は肌寒さもなく、人の熱と生活の排気で蒸し暑くさえある。狭い住居の何処からか食べ物の匂いと、黴臭く埃っぽい匂いが混じっていた。
行政区のように光溢れる事はないが、其処彼処に夜光蟲や輝光蟲を飼う籠を吊るしてある。ぼんやりと浮かび上がる高架下はまるで秘密裏に集う人々の隠れ家のようだった。
ともすれば一つ一つに興味を持って立ち止まりそうな様子の朔の手を引いたまま、カリンは高架下を真っ直ぐ、日輪が経営する『偽斯堂』まで歩いて行った。
『偽斯堂』と書かれた小さな看板が扉の隣に下がっているだけの高架下の一角。
胞子で薄汚れた硝子戸を引くと、大きな音を立てて何かが崩れる音がした。いつも積み上げている書物か、それとも歯車機械の修理用具か、それとも修理の後に放置している歯車の欠片やシャフト用の金属棒か。どれであろうといつもの事なので気にしない。細くしか開かない店の硝子戸にも何か引っかかっているに違いない。
頑なに動かない戸を無理やり押し広げ、僅かに開いた隙間にカリンはするりと入り込んだ。
10畳ほどしかない空間に所狭しと荷物が積み上げられている。一階は店舗、二階に居住空間のある店舗形式の2階建てなので、面積的には高架下にある住居の中ではかなり広いのだが、とにかく物が多い。中央にカウンターを備えているはずだが、それすら何処にあるのか分からぬほどだった。
天井も低く、背の高い朔など少し背伸びすると天井に頭を打ち付けそうだ。
「兄さん、ただいま。お客さん連れてきたよ」
カリンが声をかけると、店の最奥の梯子階段あたりに積み上げられた書物の山から声がした。
「お帰り、カリン。遅かったね。夙夜は?」
「一度、帰るって言ってた。かなり疲れてたみたいだから、そのまま寝てるかもしれない」
「ああ、いいよ。急ぎの仕事はないから。で、お客さんって誰だい?」
がさがさと何かを掻き分ける音がして、緑の房混じりの黒髪を揺らしながら兄の日輪が顔を出した。ちょうど仕事中だったのか、眼鏡をかけたままだ。レンズの奥に優しげな緑簾石の瞳が覗いている。周囲を舞う胞子を払うように、ひらひらと手を振っていた。
朔がその姿を見て嬉しそうに手を振り返す。
別に、朔に対して手を振ったわけではないと思うのだが。
「ヒノワ! 約束通り、御苑を抜け出してきたぞ!」
「朔?! 待て、お前どうやって……弓弦さんは?!」
その姿を見た日輪は大きく目を見開いた。口を開けて、完全に固まっている。
朔はカリンの両肩を軽く叩いた。
「カリンのお陰で弓弦姉さまを出し抜いてきたのだ。すごいな、カリンは」
その言葉を聞いて、日輪はカリンを凝視した。表情が語っている。なんてことをしてくれたんだ、と。
……もしかすると、たった二つの選択肢を誤ったのかもしれない。
兄の様子から察するに、朔を捕えて引き渡すのが正解だったようだ。少なくとも日輪には、朔が追手から逃れ得るはずがないという確信があったのだろう。
「ごめんなさい、兄さん。大事なお客さまだと思って助けてしまったんだ……追手から、逃げていたものだから」
カリンが眉尻を下げてしおらしい態度を見せると、日輪は機械いじりをしていたままの汚れた手で顔を覆った。
「うん、大丈夫。カリンは悪くない。ただ、オレが読み違えただけ」
日輪は、物が散乱する中、店の奥からずるずると這い出してきた。そのせいで山積みにされた大量の本が雪崩を起こしているが、それもいつもの事なので気にしない。
「何を言っているのだ、ヒノワ。『そんなに星が見たいのならば御苑から出ればいい』と言ったのはお前だろう?」
「煩いし邪魔だからちょっと黙って、朔」
日輪の言葉で、朔はちゃんと口を閉じた。
どうやら朔は、日輪によく躾けられているようだ。
自分もこれからきちんと躾る事にしよう。少なくとも、目を閉じろと言ったら閉じる程度には――カリンはこっそりそう思う。
「話を聞いてこれからの事も考えたいんだけど……今の仕事、もう少しでキリがつきそうなんだ。終わったら行くよ。悪いんだけどカリン、朔と一緒に上で少し待っててくれるかな?」
「分かったよ、兄さん」
カリンは朔を促して、店の奥へと入った。
書物や道具を踏まぬよう慎重に、梯子階段に手をかける。
この店に本が多いのは日輪のせいだ。
一度読んだ本の内容を、日輪は絶対に忘れない。どうせこの辺りに積んである本だって、何年も読んでいないに違いない。本当に日輪の記憶力には舌を巻く。
しかしお陰で、店には本が溢れて雪崩を起こしている。
偽斯堂を経営しているのは主に日輪と夙夜だが、この二人を放っておくとどうにも店の中が散らかって仕方ない。
一度、男二人を追い出して、掃除しよう。そうしよう。梯子階段を登りながら、カリンはそう心に誓った。
店の二階は、カリンと日輪が寝起きする場所だ。薄汚れた畳の上に、綿蟲の胞子嚢をいっぱいに詰めた布団が二組、並んでいるだけ。一階に入りきらなかった本が壁際にずらりと積んであった。
梯子階段の降り口近くに半畳ほどだけある板間に履物を置き、部屋に上り込む。
体の大きい朔にしてみれば随分窮屈だろうに、彼は文句ひとつ言わなかった――部屋に関しては。
「ヒノワが冷たい。俺の話を聞いてくれん。店にも興味深そうな物がいろいろあったから、それについても聞きたかったというのに」
壁から飛び出た橋桁に背を預け、子供のように口を尖らせて拗ねる朔。
自由だなあ、とカリンは思う。この性格は、街を統べる宗主一族であるからなのか、それとも朔自身のものか。
軽くため息をついて袂から夜光蟲を一匹取り出した。爪の先ほどの大きさしかない夜光蟲は、キシキシと駆動音を響かせながら、短い6本の足でカリンの指の上を滑るように進んだ。
「その蟲はカリンが飼っているのか? 先程、弓弦姉さまを足止めした時も蟲を出していたな」
額がぶつかるほど至近距離で夜光蟲を観察する朔の瑠璃の瞳を見上げた。
「そうだよ。少しずつ樹海から集めたんだ」
カリンは、蟲に興味を持ってくれたことで朔に対する警戒をかなり解いた。
蟲に興味を持つ人に悪い人はいない――それはカリンの持論であり、人を見分ける唯一の手段でもあった。
その点において、朔は難なく警戒網を突破した。
気をよくしたカリンが袂から取り出した蟲を一匹ずつ指の上に並べながら、朔の質問に一つ一つ丁寧に答えているうちに梯子階段がきしんで日輪が登ってきた。遅くなってごめんと謝り、額突き合わせて蟲の観察をする二人を見て、笑顔のまま二人の間に割り込んだ。
そのまま両手で二人を引き剥がす。
そして日輪は朔に背を向け、心配そうな顔で妹の頭を撫でた。
慣れた掌の優しい感触にカリンの表情が心なしか、綻ぶ。
「カリン、朔に近寄っちゃ駄目だよ」
「どうして? 蟲の話を聞いてくれたから、朔は悪い人じゃないよ。蟲の話を聞いてくれたし。それに兄さんの親友なんだろう?」
面倒ではあるが、悪い人ではない。それがカリンの認識だ。
しかし、親友と言う言葉を聞いて、日輪は微妙な表情を浮かべた。いつも優しい笑顔の兄日輪がこれほど感情を顕わにするのはとても珍しい。
朔が日輪の着物の裾をついついと引っ張りながら唇を尖らせている。
「ヒノワ、さっきから俺に冷たすぎやしないか」
「その仕草はお前がやっても可愛くないんだよ、やめろ」
日輪は冷たく朔の手を払いのけた。
朔にだけはことさら冷たい様子は、余計に二人を親密そうに見せているのだが、間違いだろうか。
「あと、弓弦さんに刃向ったりとかさ、あんまり無茶しちゃだめだよ、カリン。特にこんなヤツの為に」
「分かったよ、兄さん。次からは、たとえ朔が誰かに追いかけられてても逃げる事にする」
「よし、いい子だ」
日輪は最後にぽんぽん、とカリンの頭に手を置いた。
その間、朔は何度も何か言いたげにしたが、唇を尖らせたまま日輪の言いつけどおりにじっと待っていた。
まるでよく躾けられた愛玩動物だ。大きな体に似合わず、静かに素直に待っている。
日輪はそこでようやく腰を落ち着けた。
「さて、まず詳しい話を聞かせてもらおうか。いったい何があった?」
「詳しいも何も」
言いかけた朔に指を突きつけ、日輪は緑簾石の目を細める。
「発言がある者は挙手」
朔は目をぱちくりとさせたが、すぐにぱっと手を挙げた。
「はい、朔」
「昨日、カリンが天蓋の上まで言った事があるとヒノワから聞いたのでな。カリンに会って、一緒に天の上を目指そうと思って、御苑を出てきたのだ」
「あたしは天の上なんて目指さないよ」
横から口を出すと、日輪に制された。発言権は与えていない、という事らしい。
朔はそのまま続けた。
「御苑から出たはいいがしかし、すぐに弓弦姉さまと護衛部隊に見つかってしまった。何とか撒こうと思ったのだが、姉さまがしつこくてな。大通りにまで追ってきた。仕方がないので、先日装備してもらったこれを使ったのだ。護身用と聞いていたしな」
朔はそう言って左手を見せた。
動かすたびにきしきしと音の鳴るそれは、歯車づくりの義手だ。表面を人間の皮膚のような被膜で覆っているために一見それとは分からないが、よく見ると掌の中央が破れ、鋼鉄の内部が覗いていた。
「空砲か? 街の中で?」
「大丈夫だ、周りに人はいない事を確認した」
朔は自信満々だが、それは嘘だ。あの場にはまだ夙夜とカリンがいた。全く目に入っていなかったのだろうか。
カリンは発言権を求めて挙手した。
「どうぞ、カリン」
「朔はうそつきだ。あの時はあたしも夙夜もいたよ。危なかったんだぞ」
そう言うと、朔は首を傾げた。どうやら本当に気づいていなかったらしい。
「夙夜が気づかなかったら、巻き込まれて怪我してたよ」
「そうか、そうだ、その直後にカリンを見つけたな!」
嬉しそうな朔に、やれやれ、とため息をついた日輪は、再び手を挙げたカリンを促した。
「じゃあカリン、その後は?」
「はい、兄さん。官営工房の帰りに、御苑から逃げてきた朔と会った。夙夜が朔の事を知ってたから、兄さんのお客さんだって教えてもらったんだ。宗主一族の大切なお客さんだと思ったから、追手を足止めしたんだ。攻撃される前に閃光蟲と接着蟲で足止めしておいた。向こうも誰も怪我してないと思う――無理に動こうとしない限りは」
もし接着蟲をはがそうと躍起になって動けば、無事では済まないだろう。
先ほど見た弓弦という女性の性格を思い出し、無理に動きそうだな、と不安になった。足止めをしたいだけで、怪我をさせるつもりはなかった。傷を広げてなければいいのだけれど。
「弓弦姉さまはあのくらいでは諦めんだろうな。だから、追われる前に、今すぐにでも樹海を抜けたいのだ。出来るなら、ヒノワも一緒に――」
「とりあえず落ち着いて、朔。カリンの話をしたのは昨日なのに、今日にはもう家出してくるなんて。キミはいつだって考えなしに思いついたらすぐ行動しちゃうんだから……」
日輪は額に手をあてて眉間に皺を寄せた。
「それにどうせ、御苑に帰れって言っても帰らないだろ?」
「ああ、もちろんだ」
大きく頷いた朔に、大きくため息をついた日輪。これだけで普段の二人の関係が知れようというものだ。
うん、やっぱり、かなり仲良しだと思う。
カリンはそう結論付けた。
「状況はだいたいわかった、二人ともありがとう。追手は撒いてきたのなら、とりあえずは大丈夫だろう。朔は今日、ここに泊めるけどいいよね。狭いけど我慢しろよ」
はあい、と二人は素直に返事をした。
「あっ、そうだ。兄さん、その前に樹海に蟲獲りに行っていい? すぐ戻るから」
カリンが手を挙げながらそう言うと、日輪は優しく微笑んだ。もう手を挙げなくていいんだよ、と言いながらカリンの頭にぽん、と手を置く。
「蟲を取りに、樹海へ行くのか!」
「そうだよ」
「俺も行く!」
朔が大きく手を挙げた。
日輪はそれを見てやれやれ、と肩を竦めた。
「いいけど、二人とも気を付けてね。あと、自分の部屋がもういっぱいだからって、前みたいにこの部屋に持ち込んだらさすがに怒るからね」
胞子が多いとくしゃみが止まらなくなる日輪は、出来る限り蟲に近づかないようにしている。胞子を飛散する破裂蟲などもってのほかだ。
もう棚がいっぱいだからという理由で日輪の店に蟲を持ち込んでくしゃみを止まらなくさせ、叱られたのはつい先日の事だった。いかにカリンには甘い日輪と言えど、次はないだろう。
カリンは優しい日輪が大好きで、日輪もカリンにだけはことさら甘い。兄さんの怒るところなんて見た事もないけれど、こういう人に限って、怒らせるといったいどうなるか分からないから余計に怖い。
「分かったの、カリン?」
日輪の声が訝しげになったため、カリンは何度も頷いて反抗の意志がない事を示した。
偽斯堂を出たカリンは、朔を連れて隣の建物に入った。
隣接するこちらの建屋はカリンに当てられた住居だ。こちらも日輪の店と同じく、2階まである店舗型の建物だ。
硝子戸を開くと、カリンは慣れた手つきで入り口近くの天井から下がっている蟲籠の一つをとんとん、と軽く指で叩いた。すると、籠の中にいた輝光蟲が驚いて発光し、部屋の中が明るくなった。
「どうぞ。兄さんの店と一緒であまり居場所はないけれど」
カリンが迎え入れると、朔は中を覗いて驚きに目を見開いた。
店の中を占めるのは、大量の蟲籠と硝子ケージだった。壁にびっしりと造り付けられた棚に、所狭しと籠が並べられている。中には色とりどりの蟲、蟲、蟲。大きさも色も形も様々な蟲がきちんと分類され、飼育されていた。
カウンターには丸瓶に曇りない水が汲み置かれ、奥の方では餌用に菌の栽培をしている様子が伺える。
「これは希少種の緋蘭蟲か?! 緋色の染物に使うが、染織工房でも飼育が非常に難しいと聞いたが。それにこれも薬餌用の霊芝蟲ではないか」
朔は瑠璃の目を大きく見開いて一つ一つ、籠の中を確認している。
「御苑の研究施設と変わらない、いや、種類だけ見ればこの場所の方が多いかもしれない。すごいな」
「見てもいいけど、あまり近寄らないで。人の体温や呼吸だけで弱る蟲もいるから」
カリンが注意すると、朔ははっと自分の口を押えて籠から跳び退った。
籠やケージに触れぬよう、おそるおそる部屋の奥へ歩を進めた。
「この蟲はすべてカリンが?」
「そうだよ」
奥から、採集用の蟲籠を3つ取りだし、一つを朔に、残り二つを自分の肩にかけた。
「さあ、行こう。楽しい蟲捕りの時間だよ」
そうして籠を下げて、外に出ようとしたところで、誰かに声をかけられた。
「カリン!」
琥珀色の瞳は夙夜かと思われたが、少しばかり雰囲気が違う。目が半分閉じているような、のんびりした空気はなくなっていた。先ほどまで流していた淡茶色の髪を後ろで高い位置に括っている。無秩序に伸ばしている長い髪を結いあげると中性的な顔立ちがよく分かった。
こうして見ると、すらりと背の高い女性のようだった。
「凪」
カリンは笑顔を見せて淡茶髪の幼馴染に駆け寄った。夙夜とそっくり同じ顔、そっくり同じ髪とそっくり同じ身長。
「カリン、夙夜から聞いたわよ。この男のせいで危ない目に遭ったって」
隣の朔に指を突きつけながら。
心配かけてごめん、と謝り、朔に紹介した。
「凪だよ。夙夜のお姉さん」
「はじめまして、宗主一族の坊ちゃん。カリンの幼馴染の凪です。よろしくね!」
「俺は姶良朔だ」
それを聞いて、幼馴染の凪は肩を竦めた。
「姶良……ホントに宗主一族なのね。面倒事にカリンを巻き込まないでよ?」
巻き込むな、なんていう凪の言葉を、朔は絶対に聞いてないだろうな。
案の定意味も考えず、分かった、などと返事をする朔に、カリンはもう一つため息。
しかし、その返事でひとまず満足したらしい凪は、はじけるような笑顔と共に、カリンの蟲籠を一つ問答無用で取り上げた。
「蟲捕りなら私も行くわ。いいでしょ?」
高架下からしばらく行くと、幅が狭く深い流れの川がある。美しい黒灰で河原を覆われたこの名もなき川は、高架下と樹海を隔てている。原始菌の樹海から流れ出て、樹海へと流れ去っていく水は、樹海を通る時に濾過されてくるのか、常に透き通っていた。そのため、高架下貧民街に住む者たちの生活基盤となっている。飲水はこの場所から汲まれ、洗濯炊事もすべてここの水を使用していた。
河原に沿って川を上流へ向かって行くと、人の背丈ほどもある苦鉄質の岩石がごろごろと転がっている場所がある。大きな石が川幅を狭め、水の流れを速めていた。飛び石のように川を渡れるのはこの場所だけだ。
カリンは慣れたように飛び石を渡って対岸へと到着した。朔も少しずつ目が慣れてきたのだろう。危なげなくそれに続いた。もともとの運動神経がいいのか、数歩で川を渡ってしまった。
凪がその様子を見て肩を竦めた。
「宗主一族は瞳が小さいから、暗いと何も見えないのかと思ってたわ」
「慣れてきただけだ。最初は暗くてほとんど見えなかったぞ」
カリンも適応力の高さに驚いた。もしかすると、夜光蟲も必要ないかもしれない。そっと袂を撫でた。
川を渡ると、独特の胞子の匂いが充満した。カリンにとっては慣れた匂い。いっぱいに吸い込むと、心が落ち着いていく。
ほんの数十歩も行けば、もうそこは樹海と呼ばれる土地だ。蟲が纏う菌糸とは比べ物にならない、両手で抱えても足りないような太さの茸が林立している。この大きさになるのは、細い骨格を芯にして菌糸をより集め、成長するからだ。
骨格を持つ菌類のうち、稼働性で小型のものは『蟲』、非稼働性で大型のものは『茸』と呼ばれている。また、骨格を持たないものは『黴』と呼ばれていた。それら分類に明確な定義はなく、境界は非常に曖昧だ。
樹海には見上げても笠の見えぬほど巨大な茸が並び、足元は柔らかな黴の菌糸で覆われている。そしてそこに住むのは多くの蟲たちだった。
「これを超えるのか……」
朔は、初めて見る樹海の姿に圧倒されていた。
闇に沈む樹海。時折、夜光蟲が明滅するが、それ以外は全く灯りのない世界だ。光溢れる御苑に住んでいた朔にとっては衝撃だろう。
いつもなら一人で出かける樹海に彼を連れてきたのは、ただの気まぐれだったが、これで樹海を踏破して天の上に行くなどと言う幻想を諦めてくれるのならば願ったり叶ったりだ。
「いいわよ、この男は私が見てるから。カリンは好きなところへ行ってらっしゃい」
「ありがとう、凪」
今日は朔の所為でいろいろな事があったから、大好きな蟲を捕まえて落ち着こう。
朔の事は凪に任せ、カリンは蟲探しに精を出す事にした。