第一話 姶良の街の家出息子 ☆
官営工房での勤めを終えたカリンは、姶良の町の大通りを高架下へ向かって歩いていた。
カリンの眼窩に納まる光彩は普通の人に比べて明らかに大きく、髪の隙間から覗く耳も大きく尖っている。暗闇に適応したその容姿から月白種族と呼ばれるカリンは、真白の肌に目立つ柘榴石の瞳を、隣を歩く幼馴染に向けた。
「何食べてるんだ?」
髪を纏める飾りに下がった鈴が、りん、と澄んだ音を立てた。
「さっき工房主さんに貰った桜小判だよ。カリンも食べる?」
隣を歩く幼馴染の夙夜は、齧っていたものを見せながら答えた。
夙夜が差し出したのは、何かと面倒見のいいハゲ頭の工房主がいつも給金と一緒に渡してくれる、火を通した桜色の蟲皮だった。通称『桜小判』、甘みの多いこの蟲皮は、帰り道齧るのに持ってこいの菓子だ。
一枚受け取って、カリンも齧り出した。
「カリン、今日は寄ってかないのか?」
街を歩くと顔馴染みが声をかけてくる。
兄が営む歯車工房の卸問屋だ。時折カリンは、ここで部品を買って帰る。
「明日来るよ。足りない部品があるか、兄さんに聞いてくる」
隣を歩く夙夜も反対側の店の売り子に声をかけられ、のらりくらりとかわしていた。
今年で十五になる二人は、官営工房でかなりの古株だった。勤め先が他にない訳でなく、腕のいい歯車職人であるカリンの兄の教えで、手に職も持っている。正直な事を言うと、カリンも夙夜も工房の単調作業で一日働くより、飛び入りの機械修理をしていた方が何倍も儲かるのだ。
それでも、今でも少なくとも週一度は行政区にある官営工房に出入りするのは、幼い二人を拾って何年も面倒を見てくれた工房主に元気な顔を見せる為だった。最近ではそうでもなくなったが、行政区では昔から月白種族が忌避されている。
こんな風に街の人が二人に声をかけてくれるようになったのは最近で、今から10年も前に月白種族である二人を雇ってくれた工房主のハゲ親父には、今でも頭が上がらない。
とはいえ、今もこの行政区の道を往くのは、瞳や耳に肥大化の傾向の見られない普通の人間たちがほとんどだった。
力強く回り続ける歯車の音と、客寄せの声、道行く人々の談笑。行政区の大通りを往くだけで、騒がしいとまではいかない、心地よい音の重なりに包みこまれる。歯車がからから廻る音と雑踏とに溢れた道を往けば、菌糸に覆われた石造りの建屋が左右から圧迫してくる。其処彼処に吊られた、淡く揺らめく雪洞の下を彩り鮮やかな衣を纏う男女が行き交っていた。
鮮やかな色のゆったりとした上着を羽織って、前身頃をかい合わせ、幅広の帯を締めるのが一般的な姶良の民族衣装は、総じて原色に近い。ある時期になると樹海から現れる大ぶりの蛾のように、ひらりひらりと華麗な着物を翻す。無論、皆が身に着ける派手な衣の所以は、此処が身を売る街だからというわけではない。そもそもそういう文化の根付いた場所なのだ。
しかし、ほんの少し裏路地の闇に目をやれば、極小の蟲群がヒトの視線から逃れるようにざわざわと散っていった。
この灯りはまやかしで、端々に揺蕩うあの暗闇こそが本当の姿なのだろう。
カリンは心の何処かから這い上がってくる感情を抑え込むように、闇から目を逸らした。
と、その時、雑踏の向こうから叫び声が上がった。
夙夜が、肥大化した耳を動かし声の方向を見る。昔は同じくらいの身長だったが、今では夙夜の方が頭一つ分大きい。彼は少し背伸びして雑踏の向こうの少し離れた場所の様子を確認した。
「夙夜、何か見える?」
「誰かが逃げてるみたいだなあ、たぶん。食い逃げでもしたのかもね。後ろからいっぱい追っかけてる人がいるよ。こっち来るかも……あっ!」
掌を額にかざし、しばらく様子を伺っていた夙夜が唐突に大きな声をあげた。『何であれが』『これはまずい』と口の中でぶつぶつ言いながら、つい今まで大事そうに少しずつ齧っていた桜小判をいっぺんに口の中へと放り込んだ。
そして気持ちを落ち着けるように思い切り噛んで、飲み込んだ。
「どうしたんだよ、夙夜。何が見えた?」
「うーん、説明すると長くなっちゃうんだけど……僕が前に遊びで作った空砲があったろう。圧縮機で水素をこう、砲身に集めて溜めてさ、一気に放出するやつ。そうそう、爆発のタイミングが難しくて随分苦労したんだよね。発火蟲を使ってからも、うまく狙った距離で爆発させるのに、何個も砲身を駄目にしてさ。一時期、火傷が絶えなかったもんなあ」
夙夜がのんびりとした口調でもたもた説明しているうち、周囲の人々が逃げ出してしまった。大通りの向こうから、何か面倒なものがやってくるらしい。
しかし、夙夜は気づいていないかのように身振り手振り交えて話を続ける。
「んで、その空砲が完成したからさ、いい使い道がないかって日輪兄ちゃんに相談したんだ。そしたら今のお客さんにちょうどいいからって」
順を追って説明しようとしているのだろうが、今はそんな場合ではない。結論を先に言いなさい、と兄の日輪ならそう言ったはずだ。
そうこうしているうち、騒ぎの元が近づいてきた。十名ほどの追手から逃れようとしているのが、一人の若い男性である事が分かる程度には。一本だけ細く編んだ明るい色の髪を靡かせている。
「つまりどういう事?」
最終的に、静かになった大通りの真ん中に、ぽつんと取り残されたカリンと夙夜。
とうとうカリン達の目の前まで逃げてきたその男は、二人の目の前でくるりと追手の方を振り向いた。
そして男は、追手に向かって大きく左手を翳した――まるで追手に対して攻撃を仕掛けるかのように。
「たぶん、避けた方がいいって事」
夙夜はカリンの手を取ると強く引いて裏路地に飛び込んだ。
次の瞬間、凄まじい爆発音がした。夙夜の琥珀色の瞳に爆発の光が映り込み、一瞬明るむ。着物の袖がバタバタとはためき、熱風が肩越しに入り込んだ。カリンは思わず目を閉じた。
壁に張り付いていた蟲たちは爆発と共に路地の奥へと一斉に退いて行く。
一体何が起きたか分からぬまま夙夜の背に張り付いていると、二度目の爆発音。
そして、爆発と同時に、路地裏に男が転がり込んできた。
後転しながら勢いよく飛び込んできたその男は声を上げながら何度か地面を転がった後、石積の壁に盛大に背中を打ち付けて、止まった。
挿絵:himmelさま(http://1432.mitemin.net/)
カリンと夙夜は、何も出来ずにその光景を呆然と眺めていた。
壁に突っ込んだ男はしばらく硬直した。意識が飛んでいたのかもしれない。
やがて男は跳び上がるようにして軽く起き上がると、首を鳴らした。
「……痛たた……ヒノワの奴め、何が護身用だ。とんでもない威力ではないか」
先程、追手から逃げていた男だった。
一目見ただけで分かる上質な菌糸を織った藍色の衣装を身に着けている。カリン達よりいくらか年上だろう。夙夜よりさらに背が高く、カリンの身長では見上げないと顔が確認できなかった。白目の多い眼球と、肥大化していない外耳。肌の色はカリンたちより黄土に近い。月白種族でない事だけは確かだ。
好奇心の強そうな瑠璃の瞳に、クセのある方解石の髪が方々に跳ねていた。
すると、カリン達の姿を見た男は嬉しそうに笑った。
「月白種族の者だな。よかった! 御苑を抜け出したはよいが、月白種族はあまり街に出てきておらんと聞いていたから、会えねば困ると思っていたところだ」
そして、何の前触れもなく近くにいたカリンの耳に手を伸ばした。まるで月白種族である事を確かめるかのように、細い指で撫でまわす。確かに肥大化した耳は月白種族の特徴だ。
しかし。
この男の住む場所には、初対面の女の子の耳を許可なく触り出すのが当たり前と言う習慣でもあるのだろうか。少なくとも、カリンたちの住む場所に、そんな習わしはない。特別に不快でもないがくすぐったい。カリンは、ほんの少しだけ目を細めた。
その様子を見た夙夜が、やんわりと忠告する。
「カリン、耳を触られるのが嫌だったら、たぶんもう少し分かりやすく嫌がってあげた方がいいよ。その顔じゃ伝わらないと思う」
夙夜は納得していなさそうなカリンを見て苦笑し、今度は男の方に視線を向けた。
「たぶん君は朔さんだよね? 日輪兄ちゃんのお客さん。兄ちゃんから聞いてるよ。その左手、日輪兄ちゃんが作ったヤツでしょ、たぶん」
そう言われて耳を澄ますと、耳に触れている左手からはキリキリ、キシキシと歯車の擦れる音がした。どうやら生身ではないらしい。
のんびり屋で、歯車にしか興味がない夙夜は、その義手が気になるようで、琥珀色の瞳を輝かせている。
カリンは少しだけ納得した。
兄の日輪は歯車技師だ。高架下貧民街の一角で義手・義足専門の店を営み、義手の作成から保守までを専門に行っている。動力の伝達が鋼鉄の歯車によって行われているこの街で、大型の歯車に挟まれて四肢を欠損する者たちは少なくないため、仕事に困る事もない。
腕がいいと評判の日輪が左手を失った宗主一族の子のため、御苑に呼ばれる事があってもおかしくはないかもしれない。
朔と呼ばれたその人は、夙夜の話を聞いていないのか、カリンの方をじぃっと見た。
「カリン? 今、カリンと言ったか? もしかしてお前はカリンなのか? ヒノワの妹の!」
この朔と言う人物、どうやら話は聞かない性質らしい。
困った、きっとちょっと面倒な人だ――カリンは警戒する。
「……そうだよ。歯車技師の日輪はあたしの兄さんで、あたしは妹のカリン」
「何と言う事だ。明星のお導きだ、ありがとう!」
朔は大きく天に祈る動作をすると、カリンを躊躇なく抱きしめた。どうして知っているのか問う暇も、抵抗する間もなく、カリンの足は地面から離れてふわりと浮いた。
ちなみにカリンは、初対面の女の子をいきなり抱きしめるような風習も知らない。
抱き上げられ、見下ろす位置にある瑠璃の瞳からは、嬉しくて仕方がないと言う感情が容易に読み取れる。面倒ではあるが、悪い人ではないと思う。それに、表情の豊かな人だ。それは、眼球に白目が多いせいで見ている方向が分かりやすく、表情がはっきりしているだけかもしれないけれど。
「会えてよかった。俺はお前に会うために来たのだ」
きらきらと輝く瑠璃の瞳――図らずもカリンは、その色に魅入ってしまった。
「どうして、あたしに?」
「カリン、俺と一緒に天蓋の上へ行こう!」
◇◆◇◆◇
この街に生まれたなら、誰でも一度は知りたいと思ったことがあるはずだ。
――この街を覆う天蓋の上に何があるのか。
普通は思うだけに留まって、実際に何か行動を起こすことはないのだけれど、あたしはよくも悪くも、普通とは違っていたらしい。
ただ生きる事にも必死だったはずのあの頃、仲の良かった幼馴染二人を巻き込んで、あたしは天蓋より上の世界を見に行った事がある。
天蓋の上を目指すことで何を求めていたのか、今となってはあたし自身にもよく分からない。そうする事で、何か現状を打破できるのではという淡い期待を持っていた事は否めない。しかし、もしただそれだけの為に幼い身であの原始菌の樹海を攻略したのだとすれば、若かったな、と当時十二歳の自分に言ってやりたい。
無論、官営工房の勤めを十日にわたって怠り、苦労して辿りついた天蓋の上に何ら面白い景色は存在しなかった。
荒涼と吹き荒ぶ石英色の風と、黒雲母の粉塵渦巻く空。大地は降り積もった灰の色に覆われていた。白と黒、陰陽の混沌が支配するあの世界に色彩は存在せず、あたしと幼馴染が纏った衣の色だけがその世界に存在する彩色であるかのようだった。
永久に続く、彩度のない景色。
子供の日の冒険の最後に見たあの景色があたしの根源に纏わりつき、今も心の奥で荒んでいる。
◇◆◇◆◇
夙夜はふっと目を逸らした。何かを思い出さないようにするために。
カリンも柘榴石の瞳をすぅっと細めた。胸の内を空虚な感情が埋め、子供の頃に見た灰色の景色がみるみる心の熱を奪っていく。
「……きみは、朔って言ったよね。天蓋の上に行くって、本気? やめた方がいいよ。何も面白いものなんてないから」
「それはカリンが実際に見てきたからか?」
朔の言葉に、カリンは息を呑んだ。
「何故それを」
何故それを知っているんだ、と聞こうとした時、裏路地の入口に漆黒の衣を纏った数名の男たちが駆けこんできた。朔を追ってきた護衛部隊だ。彼らが手にしているのは、捕獲用の衣笠と一目で武器と分かる棍や釵。どう見ても、穏便に済ませられる雰囲気ではない。
物騒な空気に、夙夜が息を呑んで一歩退いた。
対して、護衛部隊の隊士は息を切らしながらも包囲の体勢をとる。菌糸の空中散歩で御苑から逃げられ、大通りで追い詰めれば空砲を使って脱出。すでに行政区の住人達に避難勧告を通達する事態にまで発展しているのだ。彼らとしても、これ以上の無茶を通すわけにはいかないようだった。
じりり、と距離を詰める両者。
「天の上を目指すなどと言う戯言が通ると思うのか、朔。お前は母上の元へ戻るんだ」
凛とした声が響き渡り、包囲する隊士の中から藍色の衣装を纏った女性が進み出た。
「……その月白種族が何者か知らんが、まさか、朔を唆したのはその女ではあるまいな。日輪といい天路といい、お前は月白種族どもに影響され過ぎている事を自覚しろ。母上も至極お怒りだ。今すぐ、御苑へ戻れ」
護衛部隊のとりまとめだろうか。朔より少し年上であろうその女性は、帯の胸元に差し込んであった旋棍を構えると、朔を睨みつけた。
「すまない、弓弦姉さま。俺はもう御苑には戻らん。カリンと共に、外の世界を目指すと決めたのだ」
どうやら、カリンの返答を待たぬまま、朔の中では二人で天頂を目指すことに決定したらしい。
本当に人の話を聞かない性質だ――カリンは再びこっそりため息をついた。
藍色の衣を纏ったその女性は、吐き捨てるように言った。
「月白種族ども。貴様らも朔と共に居る以上、容赦はせんぞ」
夙夜は、彼女の言葉でぽかんと口を開けた。どうやら幼馴染は、役に立ちそうにないな、と瞬時に判断した。
頼れる者は、自分だけ。
「……おろして、朔。このままじゃ何もできない」
朔と、その追手の護衛部隊。その二択から、朔の味方をする方を選んだ。
この選択には自信があった。宗主一族で日輪の客であるというなら、こんな大手の上客を放っておくわけにはいかないだろう。選ぶなら朔が正解の筈だ。
地面に降りたカリンは、ごそごそと袂を探る。
「何をする気だ、月白種族。よもや、宗主一族である私に手を出そうというのではあるまいな?」
「残念だけど、そのまさかだよ」
袂から取り出したのは、一匹の蟲だった。
何か武器が出てくると構えていた女性は、眉根を寄せる。
「何だそれは」
「蟲」
指の上に蟲をのせ、歩かせる。きしきしと歯車同士が擦れる音がした。小さな駆動音と6本の脚。指をちくちくと刺す脚が、掌から手の甲、そこからまた指へと戻っていく。骨ばった部分に振れられ、くすぐったい感触にカリンは唇の端をあげた。
さらに袂から続々と蟲が這い出てくる。
桃、白、黄土。様々な色をした蟲は、隊列を組むようにカリンの掌に納まった。
その様子を見た夙夜は、自主的に路地の奥へ避難していった。
さすが夙夜、いい判断だ。これから何が起こるのか分かっているらしい。
カリンは桃色の蟲を宙に放った。これは、破裂蟲。少し衝撃を与えると爆発し、その風で胞子を周囲に飛散させるという特徴を持っている。
二匹目の閃光蟲を放ったところで、カリンは鋭く叫んだ。
「朔、目を閉じて!」
破裂蟲が甲高い音と共にはじけ飛んだ。
その爆発の勢いで、閃光蟲が護衛部隊の方向へ真っ直ぐに飛ぶ。
閃光蟲は、その名の通り、強い光を発する蟲だ。
次の瞬間、辺りは真っ白な閃光に包まれた。
光が引いた後には目のあたりを押さえた護衛部隊が苦しげに地面に蹲っていた。どれだけ戦闘能力が高かろうと、目の間で弾ける閃光蟲の光には耐えられない筈だ。強い光のダメージは脳まで達する。
カリンのいう事を聞かず、何が起こるのかと瑠璃の目をしっかり開いてこちらを見ていた朔も結果的に同じ目に遭っていたが、それは見なかった事にする。
かなりの痛みだろうに、護衛部隊は声を出さずに堪えている。
カリンは指に残っていた黄色の蟲を大量に振りまいた。背や肩に落ちた黄色の蟲は、ぱちんと弾けて同色の粘液をあたりにまき散らした。
これは接着蟲、家具の加工などにもよく使われる、非常に一般的な蟲だ。非常に粘りのある菌糸で身体が地面に張り付き、しばらくは動けなくなるはずだ。
無論、カリンのように袂からこの蟲を取り出すのは全く一般的ではないのだが。
「無理して立とうとすると、皮が剥がれるよ」
声を殺して悶えている護衛部隊にそう告げて、叫び声を上げながらじたばたと転げまわっている朔の方へ戻った。
注意したのにこの様だ。本当に人の話を聞かないな。
「朔」
呆れたカリンが声をかけると、息も絶え絶えに目を抑えたままこちらに顔を向けた。
「カリン、目が痛いぞ」
「あたしは目を閉じて、って言ったよ。聞かなかったのはきみが悪い。閃光蟲程度なら、少ししたら痛みが引くと思うから少しだけ我慢して。それより、この人達が動けないうちに、高架下まで行こう。兄さんの店まで戻りたいんだけど、立てる?」
大きくため息をついたカリンは、無言でこくこくと頷く朔の手を取った。
仕方ない、大事なお客様だもんな。
路地の奥に隠れていた夙夜を促し、蹲る護衛部隊の隣をすり抜けて、御苑から遠ざかるように駆け出した。
挿絵イラストは、himmelさま(http://1432.mitemin.net/)よりいただきました。