エピローグ ☆
姶良という小さな街の中で、人々の間に、さまざまに張り巡らされた鎖があった。
カリンは幼い頃から突出した能力で日輪を縛った。日輪は優しさでカリンを縛り、事故によって朔に獲らわれた。凪の死はカリンの奥に絶望を植え付け、夙夜もまた凪に囚われた。朔はその優しさ故に弓弦を拘束し、弓弦と母はまた、その優しさに付け入って朔を鎖で絡め取った。
その鎖を一つ一つ、破壊しなくてもいいから、解いていこう。
そうすれば、別の未来が見えて来るはずだから。
カリンと朔は樹海の果てに立っていた。
すでに吐く息は白くなるほどに寒い。いかに姶良の街が暖かいのかということが知れる。
目の前に聳え立つのは巨大な茸だ。凪が旧時代の書物から『世界樹』と名付けたその茸は、カリンの月白種族としても視力を以てしても傘まで見ることは出来ない。朔の視力ではほとんど見えはしないだろう。世界樹の柄は平滑で、のっぺりとした肌が頭上、果てる先まで続いていた。
そして、何より特徴的なのがその柄の所々に穴が開いていること。その穴に大きな水滴が嵌まり込み、そのまま凍って結晶となっている事だ。
もしこれを照らし出すことが出来れば、宝石のような氷の結晶が埋め込まれた巨大な柱が堂々と聳え立っていた事だろう。
カリンはその結晶のうち、柱の中央、一番大きなものへと歩み寄った。
朔もそれに続き、結晶の前に立つ。そして、輝光蟲に照らし出された結晶の中を覗きこんで、息を止めた。
「これが、凪だよ」
氷の結晶の中央に、目を閉じた幼い少女が浮いていた――いや、結晶自体が少女を中心に形作っているように見えた。
「菌床を抜けるのに失敗したんだ。凪は世界樹に取り込まれて、帰って来なかった。結晶になって、凪は樹海に迎え入れられたんだ」
凍える寒さの中、カリンはその結晶に手を伸ばした。冷たさにみるみる赤くなっていく指先。
結晶に触れる指先を、朔の手が包んだ。
自らを傷つけるようなカリンの行動を見ていることは出来なかった。
カリンはそれでも、しばらく凪の姿をじっと見つめていた。
今度こそ本当に、怖れを断ち切るかのように。
「あたしは行くよ、凪。でも、また帰ってくる。天蓋の上に何があったか、最初に聞かせてあげるから」
寒さに頬を赤くしたカリンが朔に向かって笑う。
「行こう、朔。天蓋の上はもうすぐだ」
世界樹の菌床を、手を取り合って抜けた。小さい頃のようには通れない場所、小さい頃は届かなかった場所。そのすべてが3年間という月日を示していた。そして、共に歩む存在の事も。
向かう先に、明るい光が漏れていた。
ああ、思い出した。
前回来た時も、こうして光の方向へ這い出したんだった――
朔が先に登り、カリンを菌床から引き揚げた。
其処には、灰色の世界が広がっていた。荒涼と吹き荒ぶ石英色の風と、黒雲母の粉塵渦巻く空。大地に降り積もる白と黒、陰陽混沌の世界。
3年前と全く同じ景色だった。
しかし、今度は灰色の景色が『見えている』事に気付けた。地平の果てまで見渡せる光に溢れている事に、どうして気づかなかったのだろうか。
風に乗るその欠片を手にしてルーペで見てみると、確かにそれは灰と同じものだった。
隣を見ると、瑠璃の瞳は地平を見つめている。灰色しかない景色の向こうに、何が見えるのか。
カリンの視線に気づき、朔は手を伸ばす。
凪が用意してくれていた断熱布に二人一緒に身をくるんで歩き出した。きっと、この灰色の嵐を越えた先に、星空が待っている。
しかし、聡いカリンは、気づいていた。太陽と言う存在が本当に存在したとすると、闇に適応したカリンはその光の強さに耐えられないだろう事に。暗闇でものを見られるようになった目も、全く光に耐性のない肌も、太陽にはそぐわないものだ。
でも。
見上げれば、そこには瑠璃の瞳がある。
大丈夫。きみと一緒にいる時だけは、別の未来を信じる事が出来るから。
例えば、あたしが太陽の下では生きられない体だったとしても――
灰の上に、二つの足跡が並んで地平まで残されていた。
歩いて行こう。
星の見える大地まで。
挿絵:himmelさま(http://1432.mitemin.net/)
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