第十五話 尊き兄姉にサヨナラを ☆
慎重に歩きはじめてすぐに、遠くからくしゃみの音が聞こえた。胞子のせいでくしゃみが止まらないのだろう。立て続けに何度も響き渡る。
「やっぱり兄さんだ」
カリンは耳を動かし、声の方向へ足を向けた。
籠灯りは少しずつ増えていき、まるで樹海の一角を彩るかのように括りつけられていた。白鬼の森ほどではないにせよ、月白種族ではない朔でも困らない程度に明るくなっていた。二人は、手にしていた籠灯りから輝光蟲を開放した。
少し先の茸の影から、言い争うような声がする。言い争う、と言うよりは一方が突っかかるだけでもう一方は呆れ気味に受け流している形だったが。
「……朔は本当にこの場所を通るんだろうな」
「本当に信用ないなあ。オレは一度読んだ本は忘れないし、一度聞いた話は忘れないよ。それが特に、カリンの言葉だったらなおさらね。道はここであってるし、足跡もなさそうだからそのうち来るよ」
「第一、これほど寒いのであれば相応の準備をしてきたものを……そういう事は、早く言え。貴様はいつも言葉が足りん」
「弓弦さんに言われたくないよ……はい、これ着てて」
どことなく、ものすごく、仲がよさそうに聞こえるのだが、確かに知った声だ。カリンと朔は顔を見合わせた。
しかしすぐ、二人の足音に気付いたのだろう。茸の影から聞こえていた話し声は不意に止んだ。
朔はカリンを庇うように前に進み出た。
「日輪! 弓弦姉さま! いるのだろう?」
朔の声で、茸から二人が顔を出す。
弓弦に渡していたであろう上着を畳みながら、日輪が肩を竦めた。
「朔、遅かったね。お陰で弓弦さんが機嫌悪くて大変だったんだから」
「黙れ、月白種族」
少し見ないうちに仲良くなってるよなあ、とカリンが見ていると、その視線に気づいたのか弓弦は思い切り眉間に皺を寄せた。朔とよく似た面立ちだが、表情が全く違う。
「日輪と弓弦姉さまは、俺たちを止めに来たのか?」
「ああ、そうだ」
間髪いれず弓弦が返答する。
「今度は、母上の命令ではなく私の意志で止めに来たのだ。朔、お前はきっとこのまま――戻ってこないだろうからな」
彼女は、腰に差していた旋棍を抜き放った。
朔は迷いながらも、歯車棒を数本取出し、即座に棍の形に組み替える。カリンを背後に庇い、身の丈ほどもある棍を水平に構えた。
「勝ち逃げは許さん。最後くらい、本気を出せ」
弓弦はふっと口元に笑みを湛える。その瞳に灯る輝きが、以前と少し変化している事に気付いた。何かが晴れたような吹っ切れたような表情は、強気な彼女によく似合っていた。
もしかすると、抑圧されていたのは朔ばかりではなかったのかもしれない。
月白種族でさえなければ、宗主一族でなければ――いや、朔とカリンのことを考えれば、それは何の障害でもないのだろう。互いに手を取り合うことだってできるのだ。
「本気を出しておらん事に気づかぬとでも思ったか? あまり人を馬鹿にするものではない。それが、私に気を使った結果だという事も、もちろん知っているさ。無論、それに発奮して努力を重ねたのも事実だが」
それを聞いて、朔は目を丸くした。彼にしては珍しく、かなり動揺しているようだ。
優しさで塗り固めた上辺など、宗主一族の次女は簡単に看破していた。それが、弟なりに姉の矜持を守ろうとした結果だという事も、重々承知していた。
そんな弟から目に見えて距離をおくようになったのは、ある意味必然だったのかもしれない。しかしながら、その怒りを糧に、矜持を盾に、弓弦は只ならぬ努力を続け、今の場所にいる。女性であることを侮られず、護衛部隊の頂点に君臨し続ける。
だからこの口上は、弓弦にとっても大切な事だった。
これからも努力を続けるため。弟がこれ以上、自分に同情していらぬ手抜きをさせぬため。
『お前はもっと、自由に生きていけ』
それが弓弦から朔に送る、餞の言葉だった。
最も、不器用な弓弦は言葉で伝える事など出来はしない。だから、決闘することを選んだ。
「構えろ、朔。完膚なきまでに叩きのめして、天蓋の上など目指せぬように考えを変えてやろう」
挿絵:himmelさま(http://1432.mitemin.net/)
次の瞬間、襲い来る疾風の如き初撃。
動揺から抜けられず、朔はその軌道からぎりぎり体を逸らすようにしてかわそうとした。
が、弓弦はそれが見えているかのように体を回転し、追いこむ。二撃目が朔の喉元を煽った。
朔がずっと首元に巻いていた黒の襟巻がぱぁん、と弾けた。避け切れずに皮一枚の傷を残す。血が散るほどではないが、ジワリと滲みだした。
「朔!」
駆け寄ろうとしたカリンを朔が制する。
留めた足元にぱさりと落ちる黒の織物。朔の襟巻の下に隠されていたものが顕わになった。
それは、大きな傷痕だった。当時は致命傷だったであろう深い傷が、朔の喉元を横断するように走っていた。引き千切られたようなその痕は、姶良ではよく見る破砕性の圧挫傷だった。
痛々しい傷を見て、日輪の緑簾石の瞳が揺らぐ。
「落ち着いてくれ、弓弦姉さま!」
悲鳴のような声を上げた朔は弓弦の攻撃から逃れるかのように、昇降機の菌糸を伸ばして跳び上がった。
無論、弓弦がそれを逃すはずもない。
同じように菌糸を伸ばして朔を追っていった。
彼らには翅があるのだろうか――そう思わせるような軽快な動きで、茸の合間を飛び回って行く。輝光蟲の灯りを頼りに、時折武器を合わせながら。残されたカリンたちの元には、金属音だけが響いていた。
「……嫌な事、思い出しちゃったな」
ぽつりと呟く日輪。
失くした左手と、首の大きな傷痕は、幼い日輪の心に大きな傷をつけたものだ。
「あの傷は、オレがつけたんだ。朔と二人で遊んでる時に事故に遭ってね。すごい血が出て、もう死ぬかと思ったんだよ?」
日輪がこうして話すのは初めてだった。
幼い日輪は、御苑に出入り出来るようになったのを誇りに思っていた。才能ある妹や、その幼馴染に対して小さな秘密を持つ事に優越感を抱いていた。隠れて通ったのも、その小さな優越感を守るためだった。
しかし、事故が起きた。
「朔は一命を取り留めたよ。でも、首に大きな傷が残って、左手は戻ってこなかった。天路師匠はその事故の責任を負わされて、オレたちの前から姿を消した……だから、せめてオレは朔の隣で、歯車技師になる道を選んだんだ。怪我をしてしまった朔に少しでも償いが出来るように」
弓弦と朔の攻防を見上げながら、日輪は静かにそう言った。
「きっと朔は今でも、オレが御苑にいるのは自分の事故に対する呵責の所為だと思っているだろうね。自分のせいで歯車技師になったと思っているんだ。馬鹿だよね。本当に馬鹿」
兄の日輪がこれだけ口汚く言う相手は、朔しかいない。それだけ相手の事を信頼しているのだろう。
「今はもうそんな事、全然関係ないんだけどね」
初めて心の中を吐露した日輪は、そう言って肩を竦めた。
カリンはようやく、胸の中にもやもやと渦巻く環状の正体を知った。
それだけ信頼する相手がいるなんて。
それがあたしでは駄目なんだろうかって、考えてしまうから。
二人の関係に嫉妬したのだ。
「兄さんが羨ましいな」
ぽつり、とカリンは呟いた。
どうして、と尋ねる日輪はいつもと同じ笑顔だったけれど。
「……なあ、兄さん。あたしはいい妹だったのか?」
「そうだね。少し無鉄砲だけど、我儘は絶対に言わない、とてもいい子だったよ」
「じゃあ、最後に一つだけ欲しいものがあるんだ」
普段、兄を困らせないよう聞き分けよく、素直な妹。
カリンは、綻ぶように笑った。
「朔を、ちょうだい」
凪は言っていた。
日輪兄さんがカリンを引き留めるのは、寂しいからだ、と。きっとそれは、カリンだけでなく、朔にも同じように向けられているはずだ。
カリンは二人の重ねた時間を伺い知ることは出来ない。それでも、幼い少年たちが育んできた友情を推察することは出来る。それは、カリンと夙夜や凪の間にも存在する感情だから。例えば、もし日輪が凪だけを連れてどこかへ行く、と言ったら、カリンは、夙夜はきっと反対するだろう。失いたくない相手が日輪であり、凪であるからだ。
きっと、日輪が持て余しているのはそんな感情だ。カリンのことも朔の事も大事だから、反対しているんだろう。
そう理解した時、カリンの中でようやく答えが出た。
「朔は兄さんの親友だけど、あたしは朔と一緒に行きたい。だから、あたしに朔をちょうだい」
日輪は大きく目を見開いた。
思わぬ言葉に、日輪は柄にもなく泣きそうになった。それはカリンが日輪の心の機微を射抜いたせいなのか、誠実に突きつけられた『我儘』のせいなのか、それとも別の感情か、自分自身でさえ伺い知ることは出来ない。
「普通は逆だろ、カリン。こういう時は、朔がオレに、『妹さんをください』って言うべきなんだよ」
いつものように常識を窘めて。
その時、目の前に藍色の衣が翻った。
日輪の目の前に、弓弦。
カリンの前には、朔。
上空を飛び回っていた二人が、同地に着地した。凄まじい戦闘を経てきたのだろう。御苑では息も切らさなかった二人が、肩で息をしている。
「訓練を怠慢したツケが出ているのではないか、朔。読書ばかりにかまけているからだ」
「俺は日輪のような能力を持たぬ。だから何度も何度も読み返さねば書物の内容を覚えられんのだ! いいだろう、興味のある本を何度読み返しても!」
まるで程度の低い姉弟喧嘩だ。
降りてきた朔の首元に傷痕を見つけて、日輪は目を伏せた。
それに気づいた朔が、悲しそうに笑う。
「日輪……まだ、これを気にしておったのか」
くるくるりと、器用に棍を納めた朔は、首の傷をするりと撫でた。
「俺は誰より、お前を解放したいのだ、日輪。俺に構うな。自分の進む道を行け。日輪なら何でもできる。俺のためでなく、皆の為に生きてくれ」
瑠璃の瞳は誠実に、真っ直ぐ、日輪だけを見ていた。ああ、この真っ直ぐな意思は、高架下の月白種族である自分でさえ、宗主一族を崇めてしまうような、酷く眩い光なのだ。
――知っていたよ。
日輪とて気づいていた。姉に遠慮し、母を悲しませないようにと、自分を殺している親友に。
それでも、妙な道化の仮面を被ろうと、傍若無人を演じようと、心の根までは変えられない。真っ直ぐなヤツを演じているわけでもない。
朔自身が、真っ直ぐなのだ。本来からそれが『朔』なのだ。
「オレはキミの事故で縛られていたわけじゃないよ」
それは、日輪がずっと憧れてやまなかった姿。朔の隣にいたのは、日輪自身の意志だ。事故の負い目でいると思わせてもいい。ただ、朔自身の光を追うのが心地よかっただけだ。
カリンと、朔。二人は、日輪にとって闇夜の道標だったから。その二人が手を取り合って行くのは、ある意味必然なのかもしれない。
「オレがキミと『友人』だったのは、キミの怪我に縛られたからじゃない。キミと一緒にいるのが楽しかったからだよ。それだけは、間違ってない」
素直な言葉を告げた日輪に、朔は驚いた顔をしている。
「何て顔、してるんだよ。小さい頃からあれだけ一緒に怒られてやったのに、キミは自分の友人一人、信じられないの?」
どこか悪戯っぽく、それでもとても楽しげに笑う日輪。
「日輪ああ!」
感極まった朔が日輪に駆け寄って行く。
が、すぐにさっと飛び退いた。
「でも、それとこれとは話が別」
きん、と軽い金属音。
日輪が朔に突き付けたのは、分解修理用の工具だった。しかし、前回のように簡単に分解することは出来なかった。夙夜が、ありったけの金属板で分解できるポイントを覆ってしまったから。
「あれ、夙夜に会ったの? 被膜の代わりに金属板で覆うなんて、完全にオレ対策だよね。夙夜と凪は、どこにいるの?」
「夙夜は――」
カリンは口を噤んだ。
下手な事を話せば、天路が御苑を逃げてきたことがばれてしまう。
しかし、それは無駄だった。長い間、カリンの兄をやってきた日輪にはだいたい察しがついた。
「やっぱり、二人は天路さんと一緒に樹海の中にいるんだね。まったく、キミたちは……天路さんは永久機関の専属技師なのに。この事が望さんに知られたらどうなるか、分かってるの?」
「師匠があの場所に籠ったのは、俺の事故のせいなのだ。ならば、もう解放してもよかろう?」
弓弦はそれを聞いて、大きなため息をついた。
「……望姉さまには黙っておいてやる。樹海ならばそう簡単には見つからんだろう。どうせそろそろ世代交代の時期だった。蛟辺りが何とかするだろう」
「ありがとう、姉さま!」
はじけるように笑った朔。
カリンは、朔の隣に立った。
「朔、一緒に行こう」
上を指差す。
それだけで理解したのか、朔はカリンを片腕で抱き上げた。
最初に出会った時からずっとそうしてきたように。
左手首の菌糸を伸ばし、朔は再び跳んだ。
あたしは、生まれた時からずっと暗闇が怖かった。高架下の黒灰の上を滑るように歩く蟲と、それらの犇めく闇溜りが。闇への恐れはは生命の根源に記された当たり前の恐怖なのだろう。蟲を調べ始めたのは、きっと怖かったからだ。自分の知らないモノに対する恐怖が、蟲への好奇心として具現化した。
何よりあたしは、この暗闇の中で生き、死んでいくのが怖かった。ただこの生に身を任せるのが怖かった。
けれども、同年代に比べて頭の回転が速かったあたしは、子供心にも姶良の街から出られない事が分かっていた。
でもすぐ傍にある、朔の顔を見る。灰色の世界に差し込んだ、瑠璃色の光。
――きみと一緒にいる時だけは、別の未来を信じる事が出来るから。
大好きな幼馴染と、大好きな兄さんを置いて、あたしは、きみの手をとるよ。
怖いものなんて、もう何もない。
昇降機で茸の森を跳びぬける。
まるで自分が憧れていた蟲に成ったかのようだった。
「籠灯りは、すべて潰しても大丈夫か?」
「うん。籠灯りに夜光蟲が集まってるから、あたしは見えるよ。きっと、兄さんも見えるだろうけど」
「日輪なら、くしゃみをするから俺でも場所がわかるぞ」
肩を竦める朔に、カリンは笑う。
「じゃあ、やるぞ」
カリンは袂に入れていた破裂蟲を何匹も取り出し、掌の上に乗せる。
そして、茸に張り付けられた籠灯りに向かって、破裂蟲を投げつけた。
ぱあん、と乾いた音がして籠が破壊される。その隣で、棍を伸ばした朔が籠を突き破っていた。破壊された籠から輝光蟲は逃げ出していく。
籠灯りの数は、ざっと数十。二人で破壊すれば、すぐにでも潰してしまえる数だ。
「あいつら……光を、視界を奪う気か!」
弓弦の声がして、背後から追ってくる気配があった。
しかし、そう簡単には追いつけない。
二人で手分けしながら順調に一つずつ灯りを潰していく。残る籠灯りは数個、弓弦の視力では、そろそろ飛び回るのは危険な筈だ。
背後から追ってきていた気配がなくなるのを感じた。諦めて地面に降りたのだろう。
「これで最後だ」
朔が菌糸を操ってうまく方向を変え、最後の籠灯りに手を伸ばした。
最後の灯りが墜ち、樹海が本来の色を取り戻した。静寂に落ちる。茸の柱が林立する中を、時折思い出したように明滅する夜光蟲が飛び交う。胞子の匂いが充満し、風もなく大気はただ溜まるだけ。
カリンは樹海の姿を見渡して、掌の上に一匹の夜光蟲を止まらせた。
「行けるよな、朔」
「ああ」
暗闇を跳ぶのは初めてではない。あの時の壁くだりほど難しい場所ではない。何しろここは樹海。誰よりもカリンに分があった。
月白種族なら見える暗さだという事は、日輪にも見えるという事だが、弓弦と日輪は離れすぎた。日輪が慌てて弓弦に戻るよう声をかけているが、もう遅い。カリン達の方が早い。
カリンの指にとまった夜光蟲が指し示す方向へ飛ぶ。
そこには何の迷いもない。
カリンは、破裂蟲を放り投げた。
予期せぬ破裂音に、弓弦はとっさに旋棍で頭を庇う。しかし、一瞬、音への反応は遅れた筈だ。耳元に風切り音が聞こえたところで何の反応も出来ない。
「目を閉じろ、朔」
初めて出会った時と同じように。
今度は、あたしの言う事を聞くはずだ。
朔がしっかりと目を閉じたのを見て、カリンは閃光蟲を放った。
暗闇の中に、破裂蟲の音と閃光蟲の光。
完全に弓弦の感覚を封じた。
カリンは袂の輝光蟲を弓弦と朔の間に放り投げる。
そこへ、着地した朔が棍をふるい、接着蟲の粘液を振りまいた地面に向かって弓弦の身体を押さえつけた。暗闇に足を止め、視覚聴覚を封じられた弓弦には、何をする事も出来なかった。
だだん、と大きな音がして、地面から大量の胞子が舞いあがる。
朔が息を整えながら弓弦を見下ろした。
対する弓弦は、苦々しい表情でそれを見上げている。しばらく全霊で対抗していたようだったが、全く動かせないと知って、抵抗を止めた。
弓弦は朔に尋ねる。
「……お前が純粋な腕力で私に勝るようになったのはいつからだ?」
「いつだろう。随分、前の話だよ。姉さま」
いつまでも小さな弟ではない。気を使い始めたのは、10歳を超えたくらいだろうか。天路を師匠と呼び始めた頃のような気がする。
これほどまでに差をつけられていた事に、弓弦は臍を噛む。自分がどれだけの我慢を弟に強いてきたのかという事を。
「お前はいつから暗闇でも躊躇しなくなった?」
「カリンが導いてくれるから躊躇することはないが、今でも暗闇が好きなわけではないよ、姉さま」
「大きな歯車は?」
「……今でも少し苦手だが、大丈夫だ。日輪がいるからもう怖くない」
自分の力ではないと言う朔に、弓弦は唇の端に笑みを湛えた。そうすると、本当に朔とよく似た面立ちだと分かる。
ようやく追いついた日輪が、地面に縫い付けられた弓弦を見て肩を竦めた。
ついでにくしゃみを一つ。
「ごめんごめん、オレ、樹海の中じゃ全然役に立たないや。正直、ここにいるだけで辛い」
「その通りだ、月白種族。貴様、役に立つというから連れてきたのだぞ」
「違うよ、勝手について来たのは弓弦さんの方じゃないか……それにしても、やっぱり即席の相方じゃ無理だったかなあ」
続けてもうひとつくしゃみをした日輪。
無論、接着蟲の張り付いた弓弦は体を起こす事も出来なかった。体を樹海の黴の上に横たえたまま弓弦は軽く目を閉じた。
御苑で刃を交えた時も、手を抜いていたのか。これだけの膂力の差があれば、弓弦を地に伏せる事など簡単なはずだった。それをしなかったのは、姉に対する遠慮から。努力家の姉を打ち負かすことがどういう事か、朔が幼いなりに考えた結果だった。
幼い弟の出した結論は必要以上に姉を傷つけたが、この悔しさもまた弓弦の糧となる。
「……朔、また姶良に戻って来い」
その心の機微すべてを隠し、弓弦はそう言った。
「弓弦姉さま」
何か言おうとした朔を、弓弦は止める。
「いいから、帰ってこい。それまでには、母上が少しでもお前の事を受け入れるよう、私が少しずつ話をしておくから」
弓弦の言葉に、朔は深く頭を下げた。
それを見て、日輪もカリンに手を伸ばす。
「おいで、カリン」
おずおずと少し遠慮がちに寄ってきた妹を、日輪は思い切り引き寄せて抱きしめた。
「カリンに、朔をあげる。喧嘩しないでね。きっと朔が優しいから大丈夫だと思うけど。それから――」
抱きしめる手にますます力を込めて、日輪は消えそうな声で呟いた。
「元気でいて。どんな遠くにいても、元気で笑ってるって約束して」
カリンはそっと兄の背に手を回した。
そして、誰にも聞こえない声で返事をした。
はい、兄さん、と。
樹海の奥へ去っていく弟妹を見送って、日輪はもう一つくしゃみを零した。
「何故、手を出さなかった? 貴様ならあやつらを拘束するなど簡単だろう?」
地面に張り付いたままの弓弦が問う。
「オレ、樹海では全然だめなんだよ。くしゃみは出るし目はかゆいし。ホント、今すぐ姶良に帰りたい」
「白々しい」
鼻で笑い飛ばした弓弦。
が、そこで自分の身体が動かない事に気付いた。
「おい、月白種族。これを何とかしろ」
「接着蟲が張り付いたら、もう取れないよ。それは弓弦さんだって身を持って分かってるはずだけど?」
日輪は、未だ包帯巻きの膝を指す。
「その服を捨てるしかないね。何なら、脱がせてあげようか?」
「なっ……巫山戯るな!」
暴れる弓弦を見て日輪は笑う。
「弓弦さんこそ、本当に意地っ張りだし素直じゃないよね。オレはそう言うところ、嫌いじゃないけど」
分解用の修理工具で服を引き剥がしながら日輪は言う。
最初に感じていた時ほど、彼女に対する苛立ちはない。思ったよりも朔の事をよく見ているのだという事に気付いたから。自分も含めて、どうにも弟妹には甘いらしい。
だから――
日輪は二人が消えて行った樹海の奥に目をやり、心から無事を祈った。
挿絵はhimmelさま(http://1432.mitemin.net/)にいただきました。




