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第十三話 姶良脱出


 『太陽』は落ちた。

 目の前で崩れゆく御苑の望楼を、全員が無言で見守った。否、あまりに衝撃的な出来事に、誰一人声を挙げることが出来なかったのだ。白色の欠片が降り注ぐ中、カリンと日輪も並んで事を見守った。

「……朔」

 カリンは無意識にその名を呼んだ。

 今も崩壊を続ける御苑の望楼、その中にまだ朔がいるとは思いたくなかった。大丈夫だ、と自分自身に言い聞かせても、握りしめた両手が震えた。

 夜光蟲に熱を吸いつくされ、完全に沈黙した蝕蟲の抜け殻が崩れ落ちた望楼の上に重くのしかかっている。

 あの下にいたら、絶対に助からない。

「朔っ!」

 御苑に向かって駆け出そうとしたカリンを、日輪が留める。

 壁の欠片だけでなく、瓦がそのまま落下し、凄まじい音を立てて地面に突き刺さっていた。直撃すれば、怪我をするだけでは済まない。

「大丈夫」

 日輪は優しく妹に囁く。自分にも言い聞かせるように。目の前の理解できない光景を無理に嚥下するように。

「……朔はこんな事で死んだりしないよ」

 そして彼は、日輪の言うとおり、期待通りに現れる。

 まるでお伽噺の主人公のように危機を脱して帰還し、皆を安心させてくれるのだ。

 下階の窓から身を投じた朔は、菌糸を上手く使って着地した。その両手には一人の女性を抱いている。

 女性を下ろしてすぐに膝をつき、荒い息を整えた。顔も服も煤だらけ、それでも再び立ち上がる。弱みを見せぬそれは、宗主一族の血が為すものなのか。

 真っ先に弓弦が駆け寄り、蒼白な顔で女性を抱き起こした。

「母上、しっかりしてください!」

「熱で参っておるだけだ。じきに気が付く」

 朔はそう告げると、すぐに辺りを見渡した。

 そして、カリンと日輪の姿を見つけて嬉しそうにかけてきた。なんて呑気なんだ。こちらの気も知らないで。死んでしまうかと心配した、こちらの焦燥も知らないで。

 カリンは急激に体の力が抜けるのを感じた。

「カリン! 日輪! 無事だったか。よかった!」

「朔、キミこそ死んだかと思ったよ」

 あからさまにほっとした表情の日輪。どうやら彼もかなり心配していたらしい。

 日輪が望楼を指し、朔はそちらに視線を移す。

「なっ、何だあれは?!」

 建物の中にいたせいで見えていなかったのだろう。

 絶句した朔の視線の先には、もはや朱色の菌糸が見えないほどに蝕蟲を取り囲んだ夜光蟲。自らの身を犠牲に、蝕蟲の働きを抑えたのだ。

 さらに、それ以上の数の夜光蟲が姶良の空を覆っていた。

「皆の働きで蝕蟲を退治し、望楼が崩れたのだと思っておった。あれはいったい何なのだ、カリン?」

「あたしにも分からない」

 カリンは首を振った。

「ただ、蝕蟲の餌は鋼鉄だから、あのまま育てば姶良の街を破壊し、その後は樹海に分け入って際限なく骨格を喰う化物が出来上がっていただろう。夜光蟲はそれを察して、樹海の均衡を守るために蝕蟲を止めに来たのかもしれない」

 生態系の不思議だ。

 カリンの考察に納得したのか、朔は感嘆のため息を漏らした。

 日輪は、思い出したようにくしゃみを零す。

「それにしても、胞子をまき散らし過ぎだよ」

 肩を竦めた日輪に、カリンと朔は笑う。

 そのまま並んで、夜光蟲の帯が描く景色を見つめ続けた。


 それからどれだけの時が経っただろう。

 蝕蟲に群がり、その熱を吸っていた夜光蟲は少しずつ、少しずつ望楼から距離をとりはじめた。帯のうねりは小さくなり、一つに纏まって天蓋を形作っていく。

 灯りの落ちた御苑が、夜光蟲に照らされて常闇に浮かび上がる。

「……夜光蟲が帰って行く」

 蝕蟲の活動停止を見届けたせいだろうか。姶良の街を覆う天蓋を作っていた夜光蟲が一斉に蠢き、帯のような形を成した。

「美しいな。『天の川』のようだ」

 朔はぽつりとそう言うと、不意にカリンに向かって笑った。

「御苑を出るタイミングは、俺が決めてよいのだったな?」

「え?」

 そのまま、カリンを抱き上げた朔は、日輪が制止する前に御苑城壁の上に跳び乗った。

 避難していた全員の視線がこちらに向けられている。

 急に注目され、カリンはかぁっと頬を赤く染めた。先ほどまでは蝕蟲を退治するために必死で考えていなかったが、無意味に目立ってしまった。御苑で注目されるのは、カリンの望むところではない。

「やめろ、朔。恥ずかしいから降ろしてくれ!」

 暴れたが、朔は微動だにしなかった。

 それどころか、挑発するように、日輪に向かってぼろぼろの左手を突きつけたのだ。

「日輪! もう俺は容赦せんぞ。カリンは貰っていく!」

「なっ……!」

 絶句した日輪。

 カリンも、注目された事と朔の発言で狼狽える。

 これではただの見世物だ。

「今度こそ、さらばだ。日輪、世話になったな」

 日輪の返答を聞く前に、朔は城壁を蹴りだし、鋼鉄の歯車に覆われた断崖へ身を投じた。



 残された日輪は勝手な友人の行動に肩を震わせた。

「まったくアイツときたら……そう簡単に、赦すと思ってるの?」

 ああもう、馬鹿馬鹿しい。樹海が危険だからとか、何とか縛り付けようとか、これまでの確執も全部、くだらない。そんな小さな考えの自分が嫌になる。

 一瞬で全部、吹き飛んでしまった。

「だから、嫌いなんだよ……!」

 朔の後ろ姿を見送った日輪は、踵を返した。

 すぐに追うつもりだった。

 行先は分かっている。そのまま樹海へ向かうなら、おそらく前回と同じ経路をたどるはずだ。カリンから樹海の話を聞いていた日輪には当てがあった。

 その姿を見付け、弓弦が駆け寄ってきた。

「待て、月白種族」

 弓弦の声で不機嫌そうな顔の日輪が振り向く。

「何、弓弦さん。オレ、急いでるから要件なら早くしてくれない?」

「貴様、そのような顔も出来たのだな」

 普段と異なるその様子に、弓弦は居をつかれて目を丸くした。

「月白種族、お前は朔を追う気だろう? 私も連れて行け。残念だが、私は樹海に詳しくない。無暗に分け入れば今回のような事になりかねない」

 苦々しい顔でそう言った弓弦。弓弦も、このように他人に、それも月白種族に助力を請うなど、ありえない事だった。

 が、先ほどの攻防で様々な力を合わせれば出来ない事はない、と知ってしまった。

 頑なに周囲を拒んでいた弓弦が変わろうとしている。朔に、カリンに引きずられて。

 日輪はこっそりとため息をついた。

 カリンはともかく、あいつは自分の影響力を分かっているのだろうか。分かっていて、こんな行動をとっているんじゃないかと時折、恐ろしくなることがある。

「……いいの? これから御苑を立て直すんでしょう、弓弦さんがいないと困るんじゃない?」

(のぞむ)姉さま一人で十分だ。それに、あやつに会うのにそれほど時間はかからんだろう」

 藍色の衣を翻し、弓弦は日輪の隣に立った。

「それとも何か、貴様は私が相方では不足か?」

 日輪の台詞をそっくり返し、弓弦が不機嫌そうな視線を向ける。

 目をぱちくりさせた日輪は、肩を竦めた。

「不足はないよ、弓弦さん」

「では文句を言うな」

 はいはい、わかりましたよー、と気のない返事をしながら、日輪は弓弦の後を追った。



◇◆◇◆◇



 昨日家出した時と同じように、朔は鋼鉄の歯車が犇めく断崖を菌糸で下って行った。

 周囲を渦巻くように飛ぶのは夜光蟲。まるで朔とカリンを樹海へと導くかのように、帯を為して中空を漂う。

 朔のよく通る声が耳元に響いた。

「すごいな、まるで星空の中にいるようだ、カリン」

「星なんて、見たことないのに?」

 そう言ってカリンは笑う。

 つられて朔も笑ったようだった。

 風を切る心地よさ、夜光蟲の煌めき、蝕蟲の脅威を退けた開放感。

 その中にカリンは、一筋の痛みを残していた。御苑に残してきた日輪の事が気になって。兄を悲しませてばかりの自分が嫌になる。

 すぐそこにある朔の横顔を見る。真っ直ぐな目をした宗主一族の彼も、母親や姉に対してこんな感情を抱いているのだろうか。心の奥底が裂けそうなこの後悔と自責の念を溜めこんでいるのだろうか。

 不意に泣きそうになって堪えるように朔に抱きついた。

 そんなカリンを強く抱き返し、朔は呟いた。

「……すまないな」

「え?」

 思わず聞き返す。

「日輪と決別するような真似をさせてしまった。カリンは日輪の事がとても好きだろう?」

 そう言われてカリンは目を伏せた。

 兄さんの事はとても好きだ。でも、ついさっき、反抗するようなことを言ってしまった。そして、逃げるように御苑を出てしまった。いつだってあたしは、兄さんのいう事に従ってきたのに――

 と、不意にそこでカリンは気づいた。

 もしかして。

 もしかすると。

「朔、わざと」

 彼は、日輪を挑発するような態度をとって、無理やりカリンを連れ出した。それはまるで、カリンが朔の母親を前にした時のように――その事実に到達し、カリンは大きく目を見開いた。

 嘘だろう? だって、いつも奔放で、短絡的に行動して、あたしの言う事なんて何一つ聞きはしない、一緒にいると調子ばかり狂わされるこの人が?

 細く編んだ髪の先の鈴が、答えるようにリンと鳴った。

「気づかなくてよいのだ」

 朔はぽつりとそう言った。

 小さな声は空を切る風に消えて行ったけれど。

 駄目だよ。

 あたしは気づいてしまった。もしかすると、あたしは兄さんに縛られていたのかもしれないって事に。朔が母によって抑圧されていたように、兄さんを口実に、あたしは樹海の先を目指す事をただ畏れていただけなのかもしれない事にだって。

 悪気がないからって人を縛っていい理由にはならないよな。そう言ったのは紛れもない、カリン自身だ。

 なあ、朔。あの場であたしを連れて行ったのは、兄さんの呪縛から解くためだったんだろう?

 その言葉は喉の奥に呑み込んだ。

 自由奔放に見えるこの人が、本当はとても思慮深いのだという事を理解したから。思うほど単純でない。それどころか――

「……朔」

 意味もなく、名を呼んだ。

 どうした、という声には返答しなかった。出来なかった。代わりに、もう一度名を呼んだ。鼻の奥がツンとして目頭が熱くなる。ほんの少しこぼれそうになった雫は、風が攫って行ったけれど。

 小さく名を呼ぶ声と、宥めるように返事をする声。風の音と蟲の羽音だけが響いていた。



 姶良の街を抜け、地面に着地した。そうすると、ずっと二人を取り巻いていた夜光蟲はふわりと浮かび上がって樹海の方へと消えて行く。数匹、周囲を飛び回っていたが、それもやがて帰って行った。棚引く光の帯が樹海に消えるのを見送り、朔とカリンは手を取って歩き出す。

 カリンはどうしても、朔の顔が見られなかった。

 少し前を歩く彼は、その事が分かっているのか振り向くことはしなかった。ただ、少し熱を持った手が導いていた。

「このまま樹海を抜けよう。弓弦姉さまが追ってくるとしても、御苑があの状態ではすぐに追ってはこられんだろう」

 手を引かれて、後を追いながら、胸が熱くなるような感情に襲われる。

 この人はいったい、心の奥底に何を隠してきたのだろう。奔放に振る舞わねば、自分を殺さねばならないほど、周囲に抑圧されてきたのだろうか。本当は、とてもとても優しい人なのに。その優しさが、容赦なく彼自身を傷つけるほどに。カリンが足を止めそうになっても、気が付かぬほど自然に手を引いてくれるくらいに。

 なあ、朔。きみは、いったいどんな人なんだよ。今でも全然わからないよ。

 震えそうになる声を抑え、カリンは静かに問いかけた。

「朔は母さんと何か話したのか? さっき、一緒だっただろう」

「……あまり話せておらん。俺が母上を見つけた時には、既に熱にやられて朦朧としておったからな。ただ、俺が酷く傷つけた事だけは確かだ。恨み言は言っておったよ」

 振り返らず、静かに答える朔。

 カリンと同じ、肉親との決別からくる痛みを抱えているはずなのに、朔の声はいつもと同じだった。最初に会ったときから変わらない。よく通る声。

「だが、もうよいのだ。俺はもう御苑には戻らん。たとえ、天蓋の上の景色を確かめた後でも」

「じゃあ、もし姶良に帰ったらどうするんだよ」

「そうだな、星空を見た後なら俺の仮説は証明されているはずだ。そうしたら、行政区と高架下で、皆に教える活動をしよう。この世界の成り立ちと、旧時代の話と、外の世界の話だ。きっと皆、興味深く聞いてくれるはずだ」

「そのためには、まず識字率をあげた方がいいよ。月白種族はほとんど字が読めないから」

「そうか、では読み書きを教えるのが先か。道のりは長いな」

「壮大な計画だな」

 カリンはくすりと笑った。

 先の事は何一つ分からないのに、朔と居る限り不安にはならないだろうと思った。

 だからきっと大丈夫だ。感情を喰う絶望を口にしても、きっと朔が引き上げてくれる。

「なあ、朔。あたし、兄さんと喧嘩したの、初めてなんだ。今までずっと兄さんの言う事は絶対で、間違うはずなくて、従うのが当たり前だったから。当たり前すぎて、分からなかった」

 少しずつお互いを縛っていた事に。カリンは日輪を拘束し、日輪がカリンを拘束した。互いにかけてしまった枷に気付かぬまま。

 御苑の皆が朔を抑圧する母に気付かなかったように。

「朔には分かってたんだろう? だから、あたしをここまで連れてきたんだろう?」

「そんな事はない。俺がカリンを連れ出したのは、俺の意志だからな」

「嘘だ」

 間髪入れず、カリンは返した。

 こうやって奔放さで自分の優しさを隠そうとしている事に、カリンはもう気づいてしまった。朔は、気づかなくていいと言ったけれど。

「朔はうそつきだ」

「ひどいな、カリン」

 苦笑する朔。

 それでも、もうカリンは気づいてしまったから。一度気づいてしまうと、もう気づかなかった頃には戻れない。

 いつしか樹海が目の前に迫り、いつもと変わらない夜光蟲の明滅が見えていた。川を渡り、柔らかな菌糸の絨毯を踏み締める。

 朔はそこで足を止め、ゆっくりと振り向いた。

 一度だけ見た事のある寂しげな笑みにどきりとする。瑠璃(ラピスラズリ)の瞳に遣る瀬無さが垣間見えた――ああ、この表情が朔の本当の心なんだ。

「……演じているうちに、どれが本当の自分なのか分からなくなるのだ」

 たった一言だけ、彼は心の内を零した。

 それで十分だった。

 どうしようもない感情が全身を駆け巡った。

 思い切り、後ろから抱きついた。朔は背が高いから、腰の辺りにぶつかるだけになってしまったけれど。

 額を強く押し当てて、迸りそうな思いを留めた。

 彼はきっと、人の心の機微にとても聡いのだろう。だからこそ、カリンの言いたい事も分かってしまうのだ。今、何を思っているのか。何を言いたいのか。何を言えないでいるのか。とても聡明な人だから。とても優しい人だから。

「なあ、朔」

 とうとう声が震えた。ずっと、我慢していたのに。

「会った時から、もしかして、御苑を家出した時も、星を見たいって言うのも、何もかも、きみは外側を固めて作っていたのか?」

 優しさを奥に押し込めて、奔放な振りをして。

 その優しさは、いったい誰に、何処まで向けられていたのだろう。誰が気づいていたのだろう。日輪は? 天路は? 朔の母や、姉は? 皆を騙してまで、守らなければいけなかったものは、いったい何だったのだろう。

「もうそうだっていうなら、本当のきみはどこにいるんだ……?」

 朔は笑ったようだった。

 でも、その笑顔が悲しそうなものか、それともいつもの天真爛漫な作り笑顔なのか、見上げるのが怖かった。カリンはますます強く額を押し付けた。

 そんな彼女の頭にぽん、と手が置かれる。優しい手が髪を撫でていく。髪をまとめた飾りに一つ残った鈴がりん、と澄んだ音を鳴らす。朔と夙夜のに渡したものとお揃いだ。

「気づかせるつもりはなかった。そんな事を言わせるつもりもなかった。すまない、カリン」

 謝罪の言葉に、カリンは額を押し付けたまま首を横に振った。

 まるで駄々をこねる子供だ。

「……誤魔化しておくつもりだった。本気になると最初から分かっていたからな。何しろ、俺の大好きな日輪の大事な妹だ。だから、本気にならないように最初に距離を詰めたのだ」

 朔の言っている言葉の意味は、よく分からなかった。

 それでも、髪に触れる手は優しく、カリンは今度こそ本当に泣きたい気持ちを抑えられそうになかった。

「こちらから必要以上に近づいてしまえば、深みに嵌らずに済むと思っていたのだ。が、無駄だったな。俺は、出会う前からカリン、お前の事しか考えていない」

 少しずつ言葉を紡ぐ朔の声が、膜を一枚隔てた向こう側に聞こえた。

 もう随分、聞き慣れた筈なのに。

「カリン。俺はずっと焦がれていたよ。樹海を踏破する勇気をくれたお前に。それに、母上を叱り飛ばして俺の見えている世界を変えたのもお前だった。あの時、俺の持つすべてを捨ててもお前と行きたいと、星空を見ようと、決意させたのだ。カリン、お前の存在自体が俺の道標――導いてくれる『太陽』だ」

 朔の言葉が一つ一つ、身内にしみこんでいく。

 違う、と言いたい。

 それは朔の方だと。諦めそうになる時、絶望に囚われる時、深く沈み込むとき。掬い上げてくれるのは、いつも瑠璃(ラピスラズリ)の瞳なのだ。

 でもそれは、言葉にならなかった。

 代わりに嗚咽が漏れた。

 きっといま、ここにいるのは本当の朔だから。

 言葉にならない声しか上げられないカリンを、朔はいつまでも宥めるように撫でていた。とても、愛しいものに触れるように。



 泣き疲れて、いつしか眠っていたのだろう。

 暖かな心地に包まれながら目を開いた。

 カリンは朔の両腕にしっかりと包まれていた。

「朔」

 名を呼ぶと、瑠璃の瞳がうっすらとこちらを見た。

 そしてカリンの姿を見ると、嬉しそうに微笑んだ。

 暖かい感情が胸の内に残っている気がする。今まで知らなかった感情。しかしそれは不快ではなく、絶望によって欠けた部分を埋めるように広がっていた。

「少し、眠っていたようだな。随分と疲れていたようだ」

 それはそうだろう。

 家出してから、日輪が捕えられたために御苑に逆戻り。御苑の中で鬼ごっこをしたかと思えば、そのまま蝕蟲退治が始まり、ようやく樹海の端まで逃げてきた。

 その間、ほとんど睡眠をとっていなかったのだ。

 朔がカリンの目元を撫でた。

「もう、泣いておらんな」

「何言ってんだ。もう!」

 優しい指の感触で途端にカリンは、かぁっと頬を染めた。気恥ずかしくなって、朔の腕から逃れようとじたばたともがく。

 が、朔の方も放そうとしない。

 カリンは袂から仕置き蟲を取りだし、思い切り顔面に叩きつけた。

 さすがに緩んだ腕からカリンはさっと抜け出した。涙の痕が乾いて突っ張る頬を手で擦りながら、鼻の頭を押さえて呻く朔に向かって宣言する。

「さあ、行くぞ。夙夜のいる場所はだいたいわかる。その左手、修理して貰わなくちゃいけないだろう。それに、天蓋を越えた後は、あたしたちだけになるんだ。整備の仕方も聞いておかないと」

「カリン、急に冷たくないか……?」

 涙目の朔が訴えるが、頬の火照りがひくまでは無理だ。無暗に近寄られると、心臓が爆発してしまうかもしれない。

 牽制するように指を突きつけて、カリンは告げた。

「あたしはずっとこうだよ。兄さんが追いかけてくる前に、行こう。『白鬼(しろおに)の森』までは半日かかるんだから」


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