第十二話 樹海からの使者 ☆
伝令の言葉を聞いた瞬間、その場にいた全員が一斉に窓に向かって駆けた。
危機に際して、誰一人気を抜いていない。再び戦闘態勢に入る。一度出来た事は、二度出来る。そう信じているから。
しかし、窓に張り付き、天を仰いだカリンは絶句した。
「何だ、あれは?!」
御苑の望楼、褐色の瓦を葺いたその上に、巨大な朱色の塊がのしかかっていた。保つ熱が尋常ではない。灼熱色に発光するあの姿は、月白種族ばかりでなく普通の人間たちにも見える。
無論、姶良の街からもこの光景が見えているだろう――御苑の望楼の頂上に朱色を呈する菌糸を灼熱色に染めた地獄の蟲が。
みしみしと軋む音が聞こえるのは、御苑の壁が耐えられなくなっているからか。あの大きさになるまで鋼鉄を吸った蝕蟲の重さは尋常ではない。
どうする? 再び水をかけて活動停止に持ち込むか?
しかし、もし水をかければその水を吸った菌糸の重さと鋼鉄の重みとで、おそらく『御苑が耐えきれない』。歯車を喰われる前に、御苑が重さで崩壊する。
それに、何よりあの場所まで水をあげる手段がない。あの場所は望楼の頂だ。水はもちろん、人が登る事さえも難しい場所なのだ。
思いつかない。あの蟲をどうにかする方法は、あたしにはとても作れない。
「だめだ……」
指先から冷えていく感覚がある。
知らず、窓枠を掴む手が震えた。
あたしには、誰も救えない。最初に樹海を越えたあの時、幼馴染の一人だって救う事など出来はしなかったのだから。
腹の底から渦を描きながらせり上がってくる無力感に吐き気がする。胸内に熱く灯っていた感情を喰って、全身が冷えるような感情が広がっていく。もう駄目だ、と足を止めそうになってしまう。まだ足を止めるなと理性が叫んでも、心がついてこない。灰色の景色を見て外の世界に絶望したあの日と同じ、空虚な感情がみるみる広がっていく。大きな空洞がぽっかりと開く。
光も熱も何もかも奪う闇。姶良の街に巣食う闇。カリンの中に沈み込む闇。
心が死んでいく。三年前に停止して、もう一度動き出そうとしていた心が、体の憶測に沈み込んでいく。
これは絶望だ。
吐き気を伴う波に呑み込まれそうになってしまう。
カリンは窓枠を握りしめていた手を解いて俯いた。
襲い来る虚脱感。
思考を手放してしまいたい。この絶望の感情さえ、投げ捨てることが出来るなら。
「カリン!」
それなのに、今のカリンにはそれを捨てる事さえ許されないのだ。
「行くぞ! 一刻も早く、だ!」
常闇に差し込む瑠璃の光がある。
足を止めるなと叱咤して、未来を見せてくれる人がいる。
伸ばされた手を迷いなく握り返した。
蔓延しそうになった絶望を心の奥底へ再び押し込める。こんな暗闇にかまけるのは後でいい。今は、負けている場合ではない。
「俺でも分かる。時間はほとんどないのだろう? それでもあの蟲を何とかする方法を考えよう」
大丈夫。瑠璃色の輝きが未来を見据えている限り、あたしは何度も立ち上がろう。
もしその先に、希望なんてないって分かっていても。
「朔」
カリンは足を止めた。
窓から飛び出そうとしていた朔は、つられて立ち止まった。
「たぶん、あの蟲に水をかけたら、御苑そのものが重さに耐えられない。水を吸った菌糸の重さで、白灰煉瓦の壁は崩壊するだろう。でも、まだ上に残っている人いると思うんだ。おそらく――」
そこでいったん、言葉をきった。その先を言うのが憚られたからだ。
でも言わないと。
「朔の母さんもまだ、逃げてない」
刹那、瑠璃の瞳が揺れた。
「蝕蟲退治が始まる前に、上に残っている人たちを全員、助けてあげてくれ。それは、あたしには出来ない。あたしは、ここであの蟲を倒すことを考えるから」
朔の背に回って、とん、と押した。
前へ、進めと。
逡巡があったのは確かだろう。それでも瑠璃色の瞳は、真っ直ぐ前を向いていた。
カリンは笑う。
「朔、行って来い。これから樹海を越えるんだから、後悔なんて、ぜんぶ御苑に置き去りにしていくんだぞ」
菌糸を伸ばして跳んでいく朔の背を見送って、カリンは振り向いた。
カリンが指示を出すまでもなく、皆は一斉に動き出していた。
揚水機を停止させたのか、水流は収まっている。弓弦は大きな声で指示を出し、地下水源の貯水量を確かめる伝令を放っている。放水用の管を望楼まで引き延ばそうと、奮闘している。おそらく避難した望も、この一報を聞いて動き出しているはずだ。
だからこそ言えなかった。
あれほど大きく成長した蝕蟲を止めるのは不可能だろう、と。
カリンは唇を噛みしめた。どうして、あたしには何も出来ないんだろう。
「カリン」
兄の日輪がカリンの隣に立った。
「御苑を出るタイミングをすっかり失っちゃったね。困ったな、そろそろ戻らないと困るお客さんがたくさんいるのに」
姶良が墜ちるか否か。それだけ切羽詰まった状況だというのに、日輪はいつもと同じように優しく笑っていた。
ただ一人の、優しい兄さん。
厨房の親父殿も、衣裳部屋の桃李婆様も、研究施設の蛟も、みな日輪を知っていた。月白種族でありながら宗主一族末弟の親友で、御苑を自由に出入りする稀有な存在。一度読んだ本の内容は決して忘れない記憶力の持ち主で、皆に一目置かれている。
それはきっと、妹として誇るべきことだ。大好きな兄さんが、皆に慕われて……いるかどうかは別にして、その能力を周囲に認められているのだから。
日輪は、ぽんとカリンの頭に手を置いた。
「そんな顔しないで。無理だっていうのは分かってる。あの蟲はもう――倒せないんでしょ?」
その言葉ではっと顔をあげると、緑簾石の瞳が優しく見下ろしていた。
どうして兄さんは、あたしの気持ちが分かるんだろう。3年前に樹海から帰った時も、何も聞かずに、おかえり、と迎えてくれたんだ。それがどれだけ嬉しかったのか、今なら痛いほどに分かる。
泣きそうな顔をしたカリンの頭を優しく撫でながら、日輪は笑う。
「全部置いて、今のうちに帰っちゃおうか、カリン?」
「ううん、まだ、いい。朔を待ちたいから」
そう言って窓の外を見ると、日輪は眉を下げた。
困ったような顔だった。
「……カリンは朔と一緒に天の上を目指したいの?」
真っ直ぐに問われ、カリンは詰まった。天の上を目指す、という言葉とは少し違うと思ったからだ。
「たぶん、天の上に行きたい訳じゃないんだ、あたしは」
うまく説明できるだろうか。
この胸の内を。
「見た事のない景色が、見たいんだ」
◇◆◇◆◇
日輪は柘榴石の瞳の奥に光を取り戻した妹を、心裂かれる思いで見ていた。妹の声は、薄い壁を挟んだ向こう側から聞こえて来るかのようだった。
騒がしく駆け回る御苑の人々を酷く遠くに感じた。
こうしてあの蝕蟲を先ほどと同じ方法で退治しようとするのは無駄だと分かっている。あの蟲が止まる前に、重みで御苑が崩壊するだろう。そうすれば、退治に参加していた前線の人々は間違いなく命を落としてしまう。
日輪には、それを弓弦に伝える事が出来なかった。口の悪い宗主一族の次女は、いつも一生懸命で、無理だと言っても聞き入れない、たとえ告げてもきっと、諦めようとしないから。それどころか、彼女自身が前線に立つかもしれない。図らずもその気持ちの強さは、彼女自身が嫌う弟とそっくりなのだ。
宗主一族は皆、そうやって姶良の街を守ってきた。それらは日輪にとってはどうしようもなく憧れる対象であると共に、眩しすぎて目を背けたくなるものなのだった。
そしてその眩しさに惹かれた妹は、親友が飛び去って行った窓を見て、ぽつり、ぽつりと語り出した。
「あたしが前に樹海を越えた時は、目的が漠然としていたんだ。あの頃、兄さんは歯車技師をはじめたばかりで構ってもらえなくて、寂しかったのかもしれない。ただ毎日、官営工房に通うだけで何も変わらない日々がつまらなかったのかもしれない。だから、何かから逃げるようにして樹海の向こうを目指した」
幼い頃に誰もが持つような退屈心だ。特別なものではなかった。ただ、妹には樹海を踏破できるほどの特別な能力があっただけで。
しかしその結果、幼馴染を一人、失った。
生き延びたカリンは心を閉ざし、ずっと内に巣食う空虚な絶望と共に生きてきた。
その痛々しい様子を、誰より近くで見守っていたのが日輪だ。少しずつその傷を癒すように、ただそっと寄り添って、穏やかに日々を重ねていた。
朔と、出会うまでは。
「でも、今度は違うんだ。朔に天蓋の上の話を聞いた。星空の話も聞いた。姶良がどうやって出来たのか、あたしも考えた。その上で、思ったんだ。もう一度、天蓋の上に行って確かめたいって。この世界が姶良だけじゃないって信じたいんだ」
痛いほどに苦しい心が、日輪を苦しめた。
大事な妹。誰より、何より大事な妹。
昔から、無鉄砲なのに能力だけは高く、傍で見ていてもハラハラするような活発な少女だった。没頭すると周りが見えなくなり、目的に向かって真っすぐに突き進む。
その結果傷つくのは、紛れもなく彼女自身であるというのに。
きっと、今回だって。
もしあの蝕蟲を落とせなければ、心優しい妹は、自分のせいだと病むだろう。必要以上に自分を責め、そして無力を嘆くだろう。
カリンのせいじゃないと、何度言い聞かせてもきっと聞かない。
「……樹海を越えるのは、きっとすごく危ないよ? また、怪我をするかもしれない。また、すごくすごく傷つくかも」
3年かけてようやく回復したカリンが再び樹海へ向かい、また同じ目に遭ったら、今度は立ち直れないかもしれない。
「それでも――あたしは、新しい世界が見てみたい」
強いな、と日輪は思う。
困ったように笑い返す事しか出来ない。
日輪の内に渦巻くのは、酷く身勝手な感情だ。
心配と言う名をつけられたソレは、妹を縛るだろう。危ないから絶対に行くな、と言えば妹は困るだろう。何しろ優しい兄さんが大好きな妹だから。
簡単に突っぱねたりは出来ないだろう。
「心配なんだ、カリン。悲しい思いはして欲しくない」
違うな。これは『心配』じゃない。
これはただの嫉妬だ。大事な妹が、あの能天気な親友に獲られそうで、不安なだけ。悲しい思いをするのは、きっとカリンではなく日輪自身だ。
『優しい兄さん』の仮面を被ってまで引き留めるとは、なんて自分勝手な主張なんだろう。
「オレはカリンが悲しそうにするところは見たくないし、無茶もしてほしくないんだ。樹海は危ないよ。前は凪だったけど、今度はカリン自身がそうなるかもしれない。それか、もしかすると一緒に行った朔がそうなるかもしれない」
そう告げると、妹は全身を強張らせた。
凪、という名がそうさせていた。
「行かないで、カリン」
柘榴石の瞳を大きく見開いて硬直した妹の額に、こつりと額を当てた。幼い頃に、よくそうしていたように。
そうすると、妹は体の力を抜いた。
3年前のカリンの心的外傷。それは、灰色の景色などではない。幼い日の無謀な冒険に巻き込んで、幼馴染を失ってしまった事だ。そして、その上に灰色の景色で蓋をした。
知っていてそれを抉り出した。
こうまでして引き留めたいのかと日輪は自分自身に問い、表情に出さず自分自身を嘲笑した。優しい妹を姶良に縛り付ける。自分勝手な我儘で。寂しいからという、酷くくだらない理由で。カリンの瞳の力を奪うのが自分の言葉だとうすうす感づいていながら。
静かに口を噤んだ妹を見て、日輪はほっとした。
素直な妹は、きっとこれ以上我儘を通さない。いつものように、「はい、兄さん」と頷くのだ。
と、ところがカリンは、一度力の抜けた体に再び意志を巡らせた。
「兄さんだって、あたしと一緒じゃないか」
震える声で告げる。小さな唇を、拗ねたように尖らせて。
「あたしは兄さんが御苑にいるなんて知らなかった。朔と一緒にいた事も、永久機関を知っていた事も、朔の師匠が兄さんに歯車機械の使い方を教えたのだって、御苑にある本を読み漁ってたことだって知らなかったよ」
「カリン?」
「子供の時、御苑に忍び込んだって聞いたよ。死ぬかもしれなかったんだろ。兄さんだってあたしよりずっと危険な事、いっぱいしてるじゃないか!」
日輪の着物の裾を掴んで駄々をこねるように、カリンは声を震わせた。
そんな事、知らなくてよかったのに、と日輪は思う。
御苑へ忍び込んだのは、カリンと同じ理由だった。
齢5つほどの頃、月白種族でありながら、官営工房で勤めを始めたカリンと夙夜。幼い頃から働き始めた二人に置いて行かれないように、自分も何か行動を起こしたかった。
その時にふと、あの明るい御苑の光を高架下まで伸ばせたら――幼い心にそんな夢を抱いただけ。淡い幻想を現実のものとする為、御苑に忍び込むという無謀を犯したのだ。どこをどう間違ったのか、朔の親友と認定され、当たり前のように御苑に出入りするようになってしまっていたが。
カリンが日輪に何も言わず、夙夜と凪を連れて樹海へ向かったように、日輪もカリンに知られず新しい世界を求めたのだ。その方向は内と外、正反対へ向いていただけ。
「あたしは、朔と行く。樹海の外に何があるか、知りたい」
初めての決別だった。
その時、周囲がにわかにざわめき出した。
誰かが叫び、その声に吊られるようにして働いていた人々が皆、窓に向かって駆けた。
「……何だ?」
カリンと日輪も窓辺に駆け寄った。
並んで外を見た二人の目に飛び込んできたのは、姶良の街が空に張り付いたような光景。
朔が夢見た満天の星空。
「……夜光蟲の群れだ」
呆然と呟いたカリンに、日輪ははっとした。いつだったか、この光景を師匠から話に聞いたことがあったから。
いつの間に、どこから現れたのか。何千何万の夜光蟲が姶良の街の上空を覆っていた。まるで光の帯を形成するかのようにうねり飛ぶ蟲たちが、御苑を包囲しようとしていた。美しい燈火の連なりが渦を巻きながらこちらへ迫ってくる。
旧時代の書物に残る紅気と呼ばれた光の帯のように、揺らめきながら姶良の街を覆い尽くした。
現実離れした光景に、誰一人、動けずにいた。
常闇の街に、樹海の夜光蟲が集結しつつある。普段は使わないはずの翅を広げ、唸るような羽音を立てながら御苑の天頂に陣取る蝕蟲の熱源へと近寄って行った。
「これは何が起こってるの?」
「あたしにも分からない」
誰より蟲の事をよく知るカリンに分からなければ、この場所にいる誰にも分からないだろう。
光の帯は、蛇行しながらも御苑の頂へ向かっている。
「……蝕蟲に引き寄せられてる?」
灼熱を放つ蝕蟲に夜光蟲が少しずつ群がっているように見える。
飛んで火にいる夏の虫、とは言わないが、まるで灼熱に身を捨てるように迷いなく朱色の菌糸に取りついていく。夜光蟲が蝕蟲に張り付く瞬間、その熱のためか閃光蟲のようにぴかりとまばゆい光を弾けさせる。
朱色だった蝕蟲は、青白い夜光蟲の光に押され、白色に近づいている。
まるで天より落つる火球のような蝕蟲と、瞬く小さな閃光と、天を覆う光の帯と。
世界の終わりを告げるかのような幻想的な光景を前に、御苑は、姶良の街は沈黙した。
その光景をじぃっと見つめていたカリンがぶつぶつと呟いた。
「夜光蟲の光が強くなるって事は、蝕蟲の熱を少しずつ吸ってるんだろうか。もしかして、蝕蟲は水に弱いんじゃなく、熱を奪われると停止するのか? 腹に溜めた鋼鉄が重くて動けなくなるのか? それとも――」
日輪は、自分の世界に入り込んだ妹の邪魔をするような事はしなかった。
こうしている時のカリンは何よりも楽しそうで、姶良のしがらみも樹海の事も、灰色の景色も幼馴染の事も、すべて忘れているからだ。
姶良に残って欲しいと思うのは日輪の我儘だ。
それでも、こんな風に興味のあるものを見ているだけで楽しそうなカリンを見ているとほっとするのも確かだった。
日輪が気づかれぬよう、そっとため息を零した時だった。
凄まじい揺れと轟音。
はっと見上げると、上階の壁はぱらぱらと窓の外に降り注いでいた。
「蝕蟲に夜光蟲が付着した所為で、重くなったのか。上階が崩れ始めてる……弓弦さん、作業をすぐに中止して! すぐにみんなを建物の外へ逃がすんだ!」
日輪は弓弦に向かって、叫ぶ。
彼女は悔しそうに唇を引き結び、すぐに判断した。
「総員、退避だ! 今すぐ御苑の建物内から避難しろ!」
弓弦の指示で、蝕蟲退治に関わっていた人々が順に外へ逃げていく。
既に上階が破壊され始めたようだ。さらに下階の壁もきしみ、揺れが酷くなっている。天井近くにはヒビが入り、手摺も揺れ、崩壊を待つばかりだ。
この極限状態の中で混乱なく避難が完了したのは、奇跡かもしれない。
全員が御苑を脱出し、城壁ぎりぎりに避難した時には、煌々と青白く光り輝く蝕蟲がすでに最上階をすべて押しつぶすところだった。
まるで、旧時代の書物に残された『太陽』のように、常闇の姶良に舞い降りた夜光蟲の塊。蝕蟲の熱を吸って、まるで閃光蟲のように輝く火球。それは、普段の御苑の灯りと比較できないほどに眩く、姶良の街を照らし出した。
巨大な閃光蟲が飛来したかのように街並みを照らし出し、建物の影を濃くする。
「御苑が、落ちる」
誰かが呟いた。
それが契機となったのだろうか。
凄まじい音を立てて、御苑の望楼は完全に押しつぶされた。
挿絵:himmelさま(http://1432.mitemin.net/)
挿絵はhimmelさま(http://1432.mitemin.net/)にいただきました。




