第十一話 蟲退治
「朔、見えてるか?」
「さすがにな。しかしこれは……凄まじいな」
一足先に吹き抜けの天井までたどり着いた朔とカリンは、目の前にぼんやりと浮かび上がる朱色の蟲を前に絶句していた。じくじくと熱を発するソレは、御苑の動力伝達路を形成する歯車を徐々に溶かしていった。口元が管のようになっており、身体の熱で溶かした鋼鉄を吸って食べ、成長していく。
階下から見ていた時は一抱えほどかと思っていた蝕蟲が、既にカリンと変わらぬ大きさまで成長していた。
顔の皮膚が焼けそうに熱く、長い間直視していられない。
思った以上に時間がない。
「揚水機の稼働が先だ。行こう」
二人は最上階の湯殿へ向かう。
宗主一族が使用する湯殿に水を引き上げる為の揚水機があるはずだ。厨房裏から引いた管で、風呂用の水を汲み上げているソレはかなりの出力があるという。
並んで歩く上階廊下の突き当たり、湯殿の模様が入った暖簾の向こう。厨房に駆け込んだ時と同じ、弾くようにして飛び込んだ。
中は暗闇。
当たり前だ。灯りはすべて落ちている。
「カリン、灯りを頼む」
「何言ってんだ、さっき凪のところに全部置いてきたよ。」
「何?! そうすると、今から暗闇の中で作業するのか?!」
「あっ」
カリンはしまった、という顔をした。隣の朔が、じとりとした目でこちらを見ている。
もちろん、視線が向けられているだけで朔にカリンの顔は見えない。
カリンは目を逸らし、幾度かの瞬き分、逡巡。
「……ごめん、朔が見えないの忘れてた」
そして素直に折れた。
「仕方あるまい。ここなら研究施設が近いから、そこで蓄熱の瓦燈を借りよう」
いったん湯殿を離れ、一つ下の階の研究施設へ向かった。階段を下りると、目の前の引き戸の隙間から灯りが漏れていた。ここが研究施設で間違いない。
引き戸を開け放つと、輝光蟲と同じだけの灯りが漏れた。
「蛟殿、いるか?」
研究施設の中は、書物に溢れていた。
まるで日輪の偽斯堂のようだが、こちらは整然と棚に納められている。すっきりとしていて胞子の気配もない。文机の上にも物はなく、棚にすべておさめられているようだった。
素晴らしい。店もこんな風に片付けたいものだ。
カリンがその整頓術を学ぼう、ときょろきょろしていると、奥から一人の男性が現れた。
撫でつけたように真っ直ぐ整えられた淡茶の髪、一点の曇りもない眼鏡のレンズ。一点のシミもない白衣――間違いない、この人がこの部屋の主だ。瞬間的に確信した。
その男性は、寝不足なのかクマの浮いた目を細めながら頭を振った。
「誰ですか? 朔さん? 朔さんですね。何をしに来たのですか。研究の邪魔ですから用事が済んだらすぐ帰ってくださいよ。それと、うちの篝利を窓の外に吊るしたのも朔さんでしょう? 日輪か朔さんのどちらかしかありえません」
一気にまくしたてた男性は、眼鏡の奥の小さな目を細める。
非常に不機嫌そうな視線が朔をとらえ、やはり、とため息を漏らす。
「で、何の用ですか、朔さん?」
「蛟殿は気づいておらんかも知れんが、今、御苑全体の灯りが落ちている。一つでいいのだが、瓦燈を貸してくれんか?」
「御苑の灯りが落ちている?」
蛟と呼ばれた男は、首を傾げると整然と並んだ本棚の間を颯爽と歩いて窓へ向かった。そして、外開きの窓を一気に全開にする。
「……本当ですね。外灯がすべて消えている。永久機関に何かあったのですか?」
「いや、違う。鋼鉄を喰う虫が出てな。吹き抜けの動力伝達路が喰われたのだ」
朔は天井近くに吊り下げられた瓦燈を背伸びして外した。
「では、借りるぞ。邪魔をしたな、蛟殿」
「待ってください、自分も行きます。鋼鉄を喰う蟲はさておき、どうせ修理するのは自分ですから。今のうちに状況を確認します」
蛟は最奥の文机を照らしていた瓦燈を両手に持った。
3人で連れ立って研究施設を出た。
「研究施設は歯車機械の研究施設なのか? 蟲が全然いなかったけど」
「蟲は胞子を出すから、別途、地下に施設があるのですよ。あの場所は、書き物や調べ物をする場所です。歯車機械も同様です。ところで――」
白衣の蛟はそこでようやくカリンを視界に入れた。
「これは誰ですか? 月白種族のようですが、なぜ御苑に月白種族が入り込んでいるのです。例外は、日輪と天路さんくらいだと思っていましたが」
「日輪の妹のカリンだ。日輪が弓弦姉さまに捕まってしまってな。助けるために俺と一緒に御苑に忍び込んだのだ」
朔が答えると、蛟は再び目を細めた。
「そうですか。月白種族が御苑に入り込むのはそれほど簡単ではないのですが……彼の記憶力は尋常ではないですからね。血縁者ならばそれなりの能力の持ち主なのでしょう」
「きみは兄さんを知ってるのか?」
「御苑にいる者なら、皆知っていますよ。月白種族でありながら宗主一族の末弟の親友であり、御苑内を自由に闊歩する稀有な存在ですから」
でも、あたしはそんな兄さんを知らないんだ。
カリンはそんな言葉を喉の奥で飲み込んだ。
瓦燈を持って湯殿に到着すると、湯船に湯がはってあるのだろう、蝕蟲のものと違う熱が出迎えてくれた。もうもうと立ち昇る水蒸気の中、人影が散逸される。入ってきた灯りが助けだと思ったのだろう、わらわらと人が寄ってきた。
その姿を見て舌打ちした蛟は、持っていた瓦燈を一つ、その場に置いた。
怯えていた人々はそちらに集まっていった為、蛟を筆頭にカリンと朔はすんなりと通り過ぎる。
「何か言いたげですね、朔さん。でも、今は吹き抜けまで水を引くのが先なのでしょう?」
蛟は慣れた手つきで壁の一角を押し上げた。
押し上げた壁の中には、黒々とした歯車機械が埋め込まれている。
「いったん機械を止めますから、出水管を吹き抜けまで伸ばしてください。こちらは自分が引き受けますから、揚水機を稼働させる場合は連絡してください」
「頼んだぞ、蛟殿」
「出力は最大でいいですね?」
「もちろんだ」
揚水機を研究施設担当の蛟に任せ、朔とカリンは再び吹き抜けへと向かった。
周囲はにわかに騒がしくなっている。御苑全体が、蝕蟲を止めるという共通の目的を持って動き出しているせいだ。役に立たない者は望と共に階下へ避難し、動ける者はそれぞれ作業を始めている。
カリンたちが出水管を引いて吹き抜けに戻った時には、もげ落ちそうなほどたわわに育った蝕蟲を前に、弓弦と日輪が並んで立っていた。
日輪は弓弦に捕まって御苑に来たはずだが、仲が悪い訳ではないのだろうか。
カリンは一瞬、首を傾げたが、兄がいつものように優しく振り向いたのでその疑問は霧散してしまった。
「お帰り、カリン。籠灯りの設置は終わってるよ」
「ありがとう、兄さん。凪は?」
「籠灯りを作った後は、天路さんの元へ向かうと言っていたよ。『約束』があるんだって言ってたけど、何か知ってる?」
それを聞いて、カリンはすぐに気づいた。
天路は御苑を出るつもりだと言っていた。そして、夙夜と凪がそれに加担した事も――きっと、水源を繋ぎ終えたら、蝕蟲を退治した後の騒ぎに紛れて二人で逃げるつもりだ。
黙り込んだカリンに何かを察したのか、日輪はそれ以上問い詰めなかった。
「地下の水源が繋がれば護衛部隊が伝令を出す事になっている。しばし待て」
弓弦はそう言って、眉間に深く皺を刻んで蝕蟲を見た。
本当に、水をかけるだけで停止させられるだろうか。そう不安になるほど育ってしまった蝕蟲はほぼすべての鋼鉄を喰い荒らし、次の獲物を狙っている。もし万一、永久機関から姶良の街へ繋がる導線がやられたら、姶良の街は終わりだ。
カリンは、湯殿の揚水機から伸ばしてきた出水管を吹き抜けの欄干に固定した。
欄干の向こうから灼熱の風が吹き来る。凪が編み、弓弦と日輪が設置した籠灯りは吹き抜けの欄干に吊るされ、全体をぼんやりと浮かび上がらせていた。吹き抜け中央を鋼鉄の歯車塔が貫いていた筈が、今では融解した鋼鉄がぽたぽたと雫落ち、黒灰の床を赤く染めている。
籠灯りの光の中、燃え上がるような朱色と鋼鉄の溶ける灼熱色が、轟々と燃え上がる炎のように、この世の終わりの景色かの如くに浮かび上がっていた。
あの朱色の蟲は、地獄からの使者だ。
「伝令が来た! 地下の水源の準備が整ったぞ!」
弓弦の鋭い声が飛んだ。
その声で駆け出した伝令が、揚水機の元を守っていた蛟に伝える。
幾許もしないうちに、唸るような音と共に管の中をくみ上げられた蒸留水が走ってきた。
「全員伏せろ!」
カリンの鋭い声で全員が身を守る体勢に入った。
朔も、用意しておいた分厚い断熱布にカリンと共にくるまった。
欄干に固定した管の先が震え、そして次の瞬間。
凄まじい爆発音と共に、蒸留水が一瞬で蒸発した。
その場にいた全員を凄まじい熱風が襲う。何人かは耐えられず、勢いよく廊下を転がった。
欄干に固定された出水管がガタガタと揺れ、それでも水を吐き出し続けた。湯殿から伸ばされた管が暴れ、壁と廊下を叩いた。閉じられていた窓が残らず開き、外へ空気を逃がしていく。
朔もカリンを庇うようにして耐えた。
カリンは朔の腕の中から蝕蟲の様子を確認する。もうもうと立ち込める水蒸気の向こう、朱色の菌糸を纏う蝕蟲に向かって勢いよく水が吐きかけられている。
どうやらうまくいっているようだ。
が、欄干に視線を移したカリンは、爆風で出水管が外れそうになっているのを見た。
轟音の中で朔に向かって叫ぶ。
「管が外れる! いま、水をかけ続けないと意味がない……あの場所まで、行けないか?!」
凄まじい熱風と轟音。
しかし、朔の目にも出水管の様子が映ったのだろう。
カリンを抱く手に力を込めると、朔は熱風の中を少しずつ歩き出した。
あの蝕蟲の活動を停止させるためには、多くの水が必要だ。今、出水管が外れて狙いがそれてしまえば蝕蟲はまた動き出してしまう。完全に、停止させねば意味がないのだ。
弓弦と日輪が吹き抜けに籠灯りを設置して作業環境を整え、永久機関の元で天路が揚水機に水源を繋ぎ、朔とカリンは揚水機でくみ上げられた水を蝕蟲にかける。避難を望が請負い、騒ぎを抑える。
全員が出来る事を見つけ、それぞれが目的を持って動いたのだ。蝕蟲を止められない筈はない。
気化熱によって発生した水蒸気が叩きつけるように全身を打つ。かなり丈夫な断熱布で熱だけは浴びないように身を守っているが、全身に力を込めていないと吹き飛ばされてしまうほどの圧力がかかる。
その熱風の中、ガタガタと揺れる出水管に手を伸ばそうとしたカリンの手を朔が止めた。
「カリン、駄目だ! 火傷をするぞ!」
「でも」
「大丈夫だ」
朔は熱風から身を守っていた断熱布をカリンに手渡し、歯車造りの左手を伸ばした。
しかし、凄まじい圧力が腕にかかり、うまく手を伸ばせない。
カリンは抱き着くようにしてその腕を支えた。
その間に、左手はしっかりと欄干の出水管を抑え込んだ。
朔の左手で欄干に押さえつけられた出水管は、今も大量の水を蝕蟲に向かって吐き出し続けている。
それでも、少しずつ弱まる熱風は、蝕蟲が弱っている事を伝えた。
水蒸気が晴れ、少しずつ蝕蟲の全体が見えてくる。まだ水蒸気は上がっているが、噴き出すような圧力はない。窓から吹き出していた風が、冷えるにしたがって再び逆に御苑内に吹き込んでくる。
朔は荒い息を整えながら断熱布を取り払った。
吸い込む空気が湿っぽい。肺の中まで熱で侵されるようだ。
「あとは仕上げだ。朔、出水管を貸してくれ」
カリンが手を差し出すと、朔は渾身で出水管の固定を引きちぎった。
またフレームが歪んでしまったようだが、気にしていなかった。視線はずっと蝕蟲の方を向いている。最大限の警戒を続けている。
受け取った出水管の先を、蝕蟲に向けた。
冷えていない部分にさらに水をかけ、活動能力を奪っていく。ずっしりと水を吸った菌糸からぽたりぽたりと雫が落ちている。
4匹の蝕蟲が、その動きを少しずつ止めていく。鋼鉄を食んでいた口元の動きが鈍くなり、手足が硬直した。さらにかけられる水に抵抗する様も見せずただただゆっくりと沈んでいく。
「これで……落ちろ」
鋼鉄に接着する手足に強い水流を当てると、引っかかっていた鉤爪が外れた。そうなれば後は簡単だ。
重く水を吸った蝕蟲は、一匹、また一匹と下に落ちていった。
何かが潰れるような、砕けるような音と共に一階の床に叩きつけられた蝕蟲は、完全にその活動を停止した。
静まり返る御苑に、ただ噴出される水音だけが響いていた。
呼吸が荒いのは、自分なのか、それとも隣に佇む朔のものなのか。
「やったのか……?」
ぽつり、と朔が呟く。
その言葉を皮切りに、熱風から身を守っていた人々がこぞって欄干へ駆け出した。
覗き込めば、籠灯りに照らされたその吹き抜けの真下、朱色の菌糸をまき散らして4匹の蝕蟲が完全に停止している。
御苑は水浸し、動力伝達路は喰われ、灯りも落ちたまま。
それでも、最大の危機は脱したと言っていいだろう。
カリンは肩の力を抜いた。
「大丈夫みたいだ。蝕蟲は活動を停止した」
その宣言で、御苑全体が歓喜に震えた。地下で、湯殿で、吹き抜けで、そして避難先で。皆の働きが一つに実を結んだのだ。
朔は思い切りカリンを抱きしめた。軽くて小さなカリンはそれだけで簡単に抱き上げられてしまう。
「よかった! どうなる事かと思ったが、カリンのお陰で皆、救われたのだ!」
「あたしは何もしてないよ」
それでも、カリンもほっとしていた。自分の指示で、御苑を落とす事態にならなくてよかった。心からそう思った。周囲の様子を見わたし、貴賤なく皆が一様に喜んでいるのを確認して、綻んだ。
朔の左頬は赤く腫れている。手を伸ばした時に、断熱布から外れて熱風を浴びたに違いない。
カリンは袂から冷却用の蟲を取りだし、頬に当てた。
「朔、ありがとう。あたしを信じてくれて。みんなを説得してくれて。全員がいなかったら、倒せなかった」
そう言うと、朔は瑠璃の目を細めた。
「カリンが先に俺の仮説を信じてくれたからな。何より――」
言いかけたところで、朔がうっ、と息を詰まらせた。
そのままげほげほ、とせき込みながらカリンを床に下ろす。
「な、なにをするのだ、日輪!」
「オレはカリンに触っていい許可は出してないよ、朔」
どうやら日輪が朔の背を蹴り飛ばしたようだ。にこにこと笑いながら、カリンと朔の間に滑り込んだ。
「一緒に行動していい許可も出してないし、ついでに言うと樹海を越えていいなんて一言も言ってない」
「日輪!」
悲鳴のような朔の声。
カリンは思わず微笑んだ。やっぱり二人は仲良しらしい。
そのやり取りを見ながら、窓から吹き込む風の心地よさに目を細めた。
しかし、そんな和やかな時間は長く続かなかった。
開け放たれた窓から、護衛部隊の一人が飛び込んでくる。
「弓弦様! ご報告です!」
「何だ?」
任務を遂行した者たちを労っていた弓弦が振り向く。
そして、息を切らした護衛部隊の隊士は絶望的な言葉を告げた。
「あの蟲が、まだ残っています! 外の歯車を伝って、頂上の鐘楼に到達。既に鐘楼より大きく成長した蟲は、断崖の歯車群を発見、そちらに向かっているようです!」