プロローグ ☆
表紙イラスト:himmelさま(http://1432.mitemin.net/)
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朔は、街を一望できる自室の窓を開け放った。
見下ろすと、常闇の中に艶やかな姶良の街が燦然と浮かび上がる。輝光蟲と夜光蟲を樹海から集めて散りばめたかのような灯火の連なりが眼下に横たわっている。揺らめく街の灯りは、人々が活動している証だ。
未だ見ぬ星空は、もしかするとこんな景色なのかもしれない、と朔は思う。
眼下に広がる箱庭を見下ろし、朔は瑠璃の目を細める。崖下から吹き来る温い風が、細長く編んだ方解石色の髪を煽った。
姶良の街の中央にそそり立つ断崖の上に、『御苑』と呼ばれる建物がある。白亜の煉瓦を積み上げ、褐色の瓦を葺いた望楼が印象的なその城は、街を治める宗主一族のもの。宗主一族の末弟である朔の部屋はその御苑上階の一角にあった。
最後に一度だけ自室を振り返る。世俗的な感覚を持っていたならば、こんな時は部屋を片付けてから旅立つのだろうか。
そうは言っても、いつも通り雑然と本が散らかった部屋に未練はなかった。お気に入りの一篇は既に羽織の懐に仕舞い込んであるし、親友の歯車技師に頼んで左手も逃走用に改造済みだ。
残す心がないと言えば嘘になるかもしれないが、それ以上に高揚していた。
師匠から貰った絵本を読んでから、朔の心の中にはいつも満天の星空が広がっていた。星空への思いは日に日に強くなり、気付けば御苑を飛び出すほどにその気持ちが膨らんでいる。
何より、馴染みの歯車技師の話から、樹海の外へ行く事が出来ると知ってしまった。
彼を此処へ留める理由はもはや何もない。
「さよならだ、姉上、母上――俺は樹海を越えて、外の世界へ『星』を探しに行く」
最後に一つだけ悲痛な笑みを零した朔は、思い切り窓枠を蹴り窓の外へと飛び出した。
重力に引かれた体は、一瞬の浮遊感の後にそのまま落下していった。
全身が風を切る。耳元で風が呻きをあげる。着物の袖がばたばたと翻り、風圧で持っていかれそうだ。御苑の壁ぎりぎりを落下しているが、このままでは断崖に届かず、城の基礎に打ち付けられて脳漿散らすことになるだろう。
朔は、風に乗せて左手を大きく上に掲げた。
手首に嵌めた鋼鉄の腕輪から黄白色の菌糸が吐き出される。
左手首から飛んだ菌糸は、それ自身の粘着力でレンガの壁に接着し、ほどなく、朔の身体は落下を止めた。
ぴいんと張った弾力のある糸は弾み、振り子のように大きく揺れて朔の身体を城の外へと放り投げた。
勢いをつけて、空中を歩くように城壁を飛び越えていく。
風を切る感覚が心地よい。浮遊感と疾走感を余すところなく全身に充たし、朔は思わず歓声を上げた。
と、不意に足元の地面が途切れた。代わりに、御苑の建つ岩壁を覆う黒々とした鋼鉄の歯車群が迫ってきた。
大小様々な歯車が蠢き、ごうんごうん、と唸るような音がする。歯幅が朔の背丈ほどもあるあれに挟まれれば、左手をもがれるだけではすまない。
不意に朔の脳裏を、重い歯車が我が身に迫る恐怖が掠めた。ゆっくりと腕が呑みこまれていく恐怖と、爆発するように弾ける痛み――
胸を抉るように過去から染み出してきたその感情を押し込め、朔は菌糸を歯車に向かって伸ばした。
そうしてうまく方向と速度を変えながら、飛ぶようにして軽々と断崖を降りていった。
しかし、地面に近づき、御苑の中央門が目視できるようになってくると、そこに隊列を組む者たちの姿が目に入った。隠密独特の特徴のある黒衣は、宗主直属の護衛部隊のものだ。
見つかるのが早すぎる。
もしかすると、朔の家出計画など二人の姉にはお見通しだったのかもしれない。
その証拠に、護衛部隊を率いていたのは朔の実姉であり、現宗主の妹である弓弦だった。隠密部隊の黒衣とは異なる、宗主一族を示す藍色の衣を纏った弓弦は、上から降りてくる朔の姿を見とめ、目を細めた。
「母上直々のご命令だ。あやつを逃がすな!」
強い口調で命令した弓弦。
それを契機に、護衛部隊の精鋭たちが落下してくる朔に向かって各々武器を構えた。
その姿を見た朔は、唇の端に笑みを乗せる。
地上まではあと少し。
朔は、岩壁の歯車群から、なるべく小さなものを選んで菌糸を投じた。歯車は、大きいほど回転が遅く小さいければ回転が速い。小型の歯車は、張り付いた菌糸をあっという間に巻き込んだ。巻き込まれる勢いで、身体が引っ張られていく。
その勢いを助走に、朔は糸を切った瞬間に飛び出した。そのまま、護衛部隊の隊列を軽々と飛び越していく。
さすがに着地は難しく、思い切り地面を転がったが、大した怪我はない。
弓弦の声が追ってくる前に、朔は大通りに向かって駆け出していた。
「朔の奴、生意気なっ……逃がすな、追え!」
御苑の中央門から連なる大通りに駆け込むと、左右から押し迫るような黒石積の建物がずらりと並んだ。石造りの壁から武骨な歯車が顔を出し、ぎしぎしと音を立てながらゆっくりと巡っている。噛み合わされた大小様々な歯車を伝って、生活に必要な動力が街の心臓部から送られてきていた。
歯車の巡る音が満たす大通りを、朔は只管に駆けていった。
やがて繁華街に差し掛かり、人通りが増えてくる。鮮やかな着物を翻す人々を縫うように駆けながら、朔はちらりと背後を伺った。
弓弦を筆頭に、護衛部隊はまだ追ってきているようだ。
幸いにも、追手の声で周囲の街人は皆、逃げ始めている。
「姉さまはしつこいな……ここで弓弦姉さまに捕まる訳にはいかん。折角だ、使ってみるとするか」
そう呟いて、馴染みの歯車技師に改造して貰った左手を撫でた。
イラストは、himmelさま(http://1432.mitemin.net/)よりいただきました。