6 重荷
フードも無く、コートも無い。着ているのは、今はボロボロになってはいるが元は上等そうな、貴族が着るような衣服。フリルやらなにやらの装飾がされた黒いジャケットや、きっちりとのど元までボタンの留められた絹のシャツは、この荒野の気候にはまったくあっていない。
「おい」
側にしゃがんで肩を揺さぶってみたが、反応は無い。死んでいる。……いや、かすかにまぶたを振るわせた。しかし、目を開く様子は無い。
恐らく重度の熱射病だろう。この気候の中、こんな服で、フードもコートもなしに荒野を渡ろうとしたのか。まだ生きてはいるが、死にかけている。放っておけば確実に死ぬ。熱せられた地面に倒れていると言うのに、男の顔には汗の玉ひとつ無い。体中の水分が抜けている証拠だ。まだ辛うじて息はしているが、いつ止まるとも知れない。
オレは男を仰向けにし、とりあえずシャツのボタンを開けることにした。このままではまともに息も出来ないだろう。のど元のボタンに手をかけたそのとき、突然、男に強烈な力で腕を掴まれた。意識は無いはずだ。目だってまだ閉じている。オレはとっさに掴まれていない左手でナイフを抜いたが、男はそれ以上なにもしない。無意識の行動だろうか。そこまでしてボタンをはずされたくないのか?
「落ち着けよ。別に変なことはしない。ボタンをはずして、呼吸を楽にするだけだ」
おそらく聞こえてはいないだろうが、俺はできるだけ優しく聞こえるように男に声をかけた。
ナイフをしまい、万力のように腕を掴む手を、指を一本一本引き剥がすようにして解いていく。改めて、シャツのボタンをはずすと、首から下がるペンダントが見えた。
「……そりゃ必死にもなるか」
その先にあったのは、横に重なった二つの輪だった。
因果教は主に貧困層の中に信仰している者が見られる。貴族などの支配階級ならば、当然太陽教を信仰しているはずだ。目の前に倒れているこの男は、ボロボロとはいえ身なりは貴族のように見えるのだが。
「悪いが、これは預からせてもらうぞ」
このまま因果教の聖印を首から提げていては、誰も助けてくれる者はいない。首から外した聖印をオレの荷物袋の奥にある隠しポケットに突っ込む。オレ自身の聖印もここに入っていた。
水袋の水を顔と頭にかけてやる。男が大きく息を吐いた。上半身を起こし、水を飲ませる。水袋がひとつ、空になった。
「よし。行くぞ」
男の意識はまだ朦朧としている。残された時間は少ない。一刻も早く日陰に連れて行かなければ。
オレは男を背中に背負う。男は小柄なオレよりも頭半分ほど背が高い。体重もオレより重いだろう。
「くっそ。おい、背中で死ぬなよ!」
意識のない人間は、どうしてこんなに重く感じるのだろう。歯を食いしばって一歩を進める。影も重そうに身を屈めていた。
一歩、また一歩。足を踏み出すごとに背骨がきしみ、ももとふくらはぎが悲鳴を上げる。息が上がって、口からぜいぜいと息をする。真昼でなくてよかった。もしそうなら、肺を火傷してしまっていただろう。
歩みの途中、『もうダメだ。どうせこいつは助からない。道端にほっぽり出しても誰も何も言わないさ』と『いや、それはいけない。わずかでも助かる可能性があるなら、見捨てるわけにはいかない』という影との会話を何度か交わす。どっちが影の言葉で、どっちがオレの言葉か次第にわからなくなったが、よく考えればどちらもオレだった。
日干し煉瓦の壁と、そこに開く大門が近づく。壁の高さはオレの背丈の三倍ほどはある。壁の上は通路になっており、各所に黒字に黄色で染め抜かれた獅子の旗がかかっているが、風が無いのでだらしなく垂れ下がっている。大門の脇には槍を持った兵士が二人、左右に控えている。もちろん、壁の上にも見張りの兵士がいるし、裏の詰め所にはもっといるだろう。壁は、都の南側をぐるっと半円形に囲っていて、外に通じている門は南側にあるこの大門ひとつしか存在しない。そう聞くとひどく不便に思えるだろうが、それには理由があって……。
「ちょっとすみませんがねぇ、兵隊さん! 人が一人死に掛けてるもんで、よかったら手を貸してくれませんかねぇ?!」
今はそんなことを気にしている場合ではない。兵士たちの顔の見分けがつくほど門に近づいたとき、オレは大声でそう叫んだ。
門の脇にいた兵士たちは、胡乱げにお互いに顔を見合すばかり。
「助けてくれないと、オレもここで死にそうなんですけどねぇ?!」
「死にそうなヤツがそんな大声で叫ぶかよ」
門の右側にいた、無精ひげを生やした兵士が、めんどくさそうな顔でぶつぶつとそう言うと、ようやくこちらに近づいてきた。オレの経験上、死にそうなヤツほど大声で叫ぶのだが、反論はせずにおいた。
「なんだ、熱射病か?」
「たぶん、そうみたいです」
「……なるほど、こりゃひどい」
兵士はオレに背負われている、貴族風の男の真っ赤な顔を覗き込んだ後、そう言って大門を振り返った。
「熱射病! オリーブ亭!」
門に残っていた兵士にそう叫ぶと、言われた兵士は持ち場を離れ、都の中に入っていった。
「身なりからすると貴族様だな。盗賊にでも襲われたか? おつきも大変だな」
どうやらひげ兵士は、オレのことを貴族のおつきの者だと思っているらしい。
「いや、オレは街道の途中に倒れてたこいつを運んできただけで、おつきの者じゃない」
「はぁ? じゃあなんだ、赤の他人を助けてんのか? なんとまあ、よくやるぜ。最近じゃ、行き倒れの死体から金を抜き取るような輩も多いのによ。身分証だせ」
呆れたと言わんばかりの声色と、馬鹿を見る目つきで、ひげ兵士はオレの身分証を要求した。男を背負ったまま、苦労して荷物袋から身分証を取り出す。兵士はまったく手を貸してくれなかった。
「緑の鳥国、水晶の湖に浮かぶ都在住。材木商で、名はトレイヌ。ふん」
書かれていることは嘘で身分証自体も偽造の品だ。バレればタダではすまない。真剣な目で身分証を見つめるひげ兵士を、オレは若干緊張しつつ見守った。
「観光か?」
ひげ兵士は急にニヤっと笑ってそう言った。たぶん、ジョークのつもりだろう。ひとつも面白くない。オレが仏頂面で黙っていると、
「行ってよし。騒ぎは起こすなよ」
身分証を返し、兵士はそう言った。どうやら最後まで手助けはしてくれないらしい。オレは足を引きずり、ことさら重そうな演技をしながら、門へ向かって歩き出した。
「ちょっと待った」
すぐに後ろからひげ兵士の声がかかる。やっと助けてくれる気になったか。オレは期待して振り向いたが……。
「忘れてた。入市料、二人分な」
オレは死体から抜き取った金で入市料を支払った。