3 アクシデント
翌日も前日と変わらず、雲ひとつない快晴だった。そもそもこのあたりは、一年の内でも雨が降るのは数日という少雨地帯。それも少し地面を湿らせる程度の量しか降らない。北・西・南を高い山脈に囲まれ、海からの湿った空気が入って来れないかららしい。
太陽が西に傾いたころ、オレは猫の木館の主人に別れを告げ、宿場を出て街道を北へと歩き出した。水代や宿賃はそれほど割高でもなかった。もしまたこの街道を通ることがあれば、また泊まってやってもいいかもしれない。
ここから街道の終点、三つの尖塔と日干し煉瓦の壁の都までは、宿場町二つ分の距離。アクシデントさえなければ、日が沈むまでに都に着けるだろう。
なければ、な。だが、あるよ。お前は運のない男だから。オレの右側に倒れる影がそう言った。
それは期待してるのか? それともあきらめてるのか?
オレは影に問いかけたが、昨日に比べ、ひしゃげて長く伸びたそいつは、機嫌を損ねたように何も言わなかった。
「影が喋るわけないか」
オレはひとりごち、影に落としていた視線をまっすぐ前方に向け直した。アクシデントがこちらに向かって走ってくるのが見えた。
遠目に見えたそれは、三人の人間だった。近づいてくる間に、その様子が、よく見えてくるようになる。どうやら先頭を走っているのは女で、あとの二人は男のようだ。女の後ろを背の高い男が、さらにその後ろを背の低い男が走っている。
女はたびたび後ろを振り返りながら走っている。そのせいで、日に焼けた長くて赤い髪が頭の周りでぶんぶんと振り回されている。男たちは二人とも、右手でサンコートの前を合わせ、左手はフードを押さえている。この場所での走り方を知っているようだ。
さらに近づく。女の服装は乱れている。というか、ほとんど半裸だ。サンコートの前は合わされず、フードも被っていない。しかも、乳房はむき出し。どうやら、着ていた服を無理やり引き裂かれたようで、垂れた切れ端が地面を摺っている。男たちは何事かを叫んでいるのか、時折大きな口を開けながら、憤怒の形相で走っている。どれだけ大きな声を出しても、周囲には何もない荒野だ。すべて、空に吸い込まれてしまうだろう。
また近づく。走っているうちに脱げたのか、女の左足は素足だった。胸元には何か飾りのついたペンダント。年は二十歳前ぐらいだろうか。オレとそう年は変わらないように見える。男たちの声がようやく聞こえてきた。「待て!」。
もうほとんど至近距離だ。女の顔がはっきり見える。肌の色はオレンジ。だがこれは西日に照らされているせいで、おそらく本当の色は白だろう。その目元と口元には青黒い痣が出来ている。目からは涙の筋が、鼻からは鼻血が、口の端からは血の筋が、それぞれ垂れている。
オレは両手を開き通せんぼの格好をする。女の神経は追っている男たちに向いていたのだろう。ようやくそのときになってオレに気づいたように、ぽかんとした顔をし、足を止める。荒い息を二度吐いたかと思うと、両手で顔を覆い、前に倒れるようにしゃがみこんだ。手の陰になったことで、その肌の色が白だと確信が持てた。
「よくやった!!」
男たちがようやく追いついて立ち止まった。後ろを走っていた背の低い男は走りが堪えたのか、両膝に手を置き、前かがみになってぜいぜいと息をしている。
えらく興奮しているらしい背の高い男は、腰に帯びていたナイフを装飾された鞘から引き抜いた。湾曲した刃がオレンジ色に輝く。
「物騒だな。いったい何が?」
努めて平たい声でオレが聞くと、背の高い男は女の背中を蹴り倒してうつ伏せにさせると、さらにわき腹を蹴り上げ仰向けにさせる。女は悲鳴も上げない。
土埃に汚れてはいたが、再び乳房があらわになる。目を見開いていたが、もはやその目は何も見ていないように見えた。
「この女は!」
ナイフを持っていない左手を女の胸に伸ばす。そして、そこにあるペンダントを鷲掴みにして引きちぎると、そのペンダントトップをオレの目の前に突きつけた。
「因果教徒だ!!」
ペンダントトップは横に重なった二つの輪。因果教の聖印だ。
「……なるほど」
鼻息の荒い男に静かにそういうと、オレは腰に帯びた剣の柄に手を置いた。
「それは許せないな」
「そうだろう! そうだろう!!」
背の高い男は両手を天に突き上げてそう叫んだ。
なので、オレは無造作に鞘から剣を引き抜くと、男の腹に刃を突き刺した。がら空きのボディは、やすやすと鍔まで剣を飲み込んだ。
「へ?」
背の低い男の間抜けな声が聞こえた。突然、仲間の背中から刃が生えるところを見せられては、一言そう呟くのが精一杯かもしれない。
オレは絶命した男の腹から剣を引き抜く。死体が街道に倒れるのには目を向けず、ゆっくりと背の低い男の元へと向かう。男は慌てて後ずさりしようとして、自分のサンコートの裾を踏んでしまう。転んだ。身の丈にあったコートを着ていればいいものを。
「ひ、ひぃっ!!」
来ないでくれと言うように、小男は仰向けに倒れたまま、手のひらをこちらに向け、震える両腕を突き出した。オレは鉈で下草を刈るように右から左へと剣を払う。聞き間違えでは無いと思うが、ポンと言う音ともに小男の手首から先が二つとも飛んだ。痛みと恐怖で弓のように背をそらせ、仰け反った小男の声にならない絶叫が街道を走ったが、誰に聞かれることも無く空へ吸い込まれる。
レディを裸で待たせるわけにはいかない。その後は手早く済ませた。剣を逆手に持ち替えると、心臓を一突きにし、息の根を止める。男のサンコートで刃に付いた血を拭い、鞘に収めた。
「大丈夫か?」
女はまだ放心状態のまま地面に倒れている。
その傍らに膝立ちになり、目の前で何度か手を振ってみたが、反応が無い。水筒の水を顔にかけてやって、ようやく目の焦点がオレの顔を捉えた。
その途端、女の顔が恐怖にゆがむ。口がわなわなと震え、目をギュッと堅く閉じる。
「落ち着け、落ち着け。大丈夫」
オレは右手を自分の首元に持っていくと、そこにあるペンダントの鎖を引っ張った。
「何もしない。ほら、これを見て」
服の下から出てきたペンダントを、女の顔の前までもっていってやる。
薄く目を開けた女の視線が、ペンダントに向く。
「オレもだよ」
それは横に重なった二つの輪。因果教の聖印だった。