そして世界は狂い出す【終】
「ほぉ。天空の白狼竜が現れた、か……」
帝宮の建つ広大な庭園の一角で、池を泳ぐ黄金の魚にエサを与える老人が一人。帝としての風貌を持つその老人は、好々爺とした笑みを浮かべながら魚にエサを与え続ける。
その後ろに一人の影。
地に膝をつき頭を垂れて、黒装束に身を包んだその影は帝に報告を続ける。
「はい。どうやら十年前に討伐されたはずの狂人研究者が裏で絡んでいた様子。十年前と変わらぬ姿の遺体を確認しました。ですが、アーチネルの村で、副神官の仮面をつけた奴の姿が目撃されており、国境を出たとの噂」
「セディスか。やはりあの研究は完成しておったようじゃな。奴の討伐を誇っていたオニキスはさぞ顔を青くしておろう」
帝は小さく笑い、そして笑いを止めて真顔になる。
「して、【白き鬼神】の方は? 白狼竜が現れたのなら鬼神も現れておろう?」
「それが……」
語尾を濁し、影は口を噤む。
帝はため息を落とす。
「まだ、なのじゃな?」
「……はい。ですが、異世界人がクトゥルクの力を持っているとの噂はやはり本当のようです」
「ではそのクトゥルクを持つ異世界人とは誰か、そなたにはわかっておるのだな?」
「いえ、それが……。正体を確認する前に何者かが白狼竜に魔法を放ち、その後すぐに黒炎竜が白狼竜を襲撃、その騒乱の際に乗じてその異世界人は消息を絶ってしまったので……」
帝は報告を聞きながら「ほぉ」と相槌を打つ。
「黒炎竜、とな。黒炎竜一騎潰してでも白狼竜に攻撃を仕掛けるとは、セガールも読めぬ男よのぉ。
――して、そなた。その間は何をしておった? なぜ、みすみすその異世界人を逃がしたのだ?」
「それは……」
「指揮階級黒騎士ともあろうそなたが、白狼竜を前に臆したか?」
「……申し訳ありません」
「その場を動いたのは黒炎竜のセガールのみ、か。
しかし不思議じゃのぉ。異世界人を逃がしたのもそうじゃが、何より黒王がそこに姿を現さなかったのが不思議でならん。
十四年前に消えた【白い鬼神】、そして今回現れたクトゥルクを持つその異世界人。必死にクトゥルクを捜す黒王といい、これには何か隠された裏があるやもしれぬ」
「裏、ですか?」
「まぁ良い。それよりもまずは邪魔なあの国を叩き潰すことが先決か。――フェリノス」
フェリノス──そう呼ばれた影は言葉を返す。
「はい」
「隣国リディアの動きを調べよ。場合によっては全面戦争を仕掛ける。それも兼ねて準備を始めよ」
「父様」
聞こえてきた幼声に帝が振り向く。傍に駆け寄ってくる女の子。
帝はその女の子の頭をそっと撫でた。優しく問いかける。
「どうした? イヴよ。また天の声が聞こえてきたのか?」
白い巫女服に腰の辺りまで伸ばした栗色の髪。フェルマーレ帝国の紋章をかたどった首飾りを胸元に光らせ、記憶をなくしたその女の子は無心の表情で帝に告げる。
「父様。もうすぐ嵐が来ます故、お城へお戻りになってはいかがですか?」
帝は微笑む。
「ほぉ、嵐が来ると申すか?」
黒装束の影が怪訝な表情を浮かべ、快晴なる空を見上げる。
嵐が来る気配など微塵もない。
だがしかし──。
しばらくして天気はすぐに急転する。
よどんだ雲が澄み切った空をしだいに覆っていく。
帝が女の子の頭を再び撫でる。
「そうじゃのぉ。そろそろ城へ戻るとするか」
そして黒装束の影に言葉を投げる。
「もし隣国リディアの影に【白の騎士】を名乗る運命の子が潜んでいたならば、お前がその手で早めに摘み取ってくるがよい。
――世界がその者の戯言に狂い出す前に、な」
影は深々と頭を下げた。
「承知しました」




