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天空の白狼竜【71】


 空が闇に蝕まれ、支配されていく。

 部屋は影のとばりに包まれたように暗くなった。

 闇の夜に雷鳴が轟く。

 部屋は時折窓から差し込む雷の光に明るくなったり暗くなったりした。

 声も音もない静けさに包まれた部屋内。

 俺以外に人の姿はない。

 陣の発動と同時に全てが忽然こつぜんと消えてしまったのだ。

 理由はわかっている。


 綾原のいなくなった魔法陣を俺は静かに見つめていた。

 魔法陣の中心では綾原と入れ替わるように白い子犬が現れ、座っている。

 子犬は両翼を背に折りたたみ、パタパタと尻尾を振りながら無邪気に俺を見つめ言ってきた。


 ――戦ウノ?


 俺は答える。


 戦わないと生きていけない世界ならば、俺は戦う。それで全てが終わるなら……。


 子犬が首を傾げる。


 全テ ガ 終ワル?


 終わらせるんだ。戦って。

 俺の中に本当に最強の力が眠っているというのなら終わらせることができるはずだ。


 終ワラセル?


 犠牲のない戦いなんてない。それはわかっている。逃げて結果を先延ばしにしているだけだというなら俺はここで立ち止まる。立ち止まって、戦う。


 戦イ ハ 終ワラナイ。君ハ再ビ コノ世界ノ 覇者ニナル。


 覇者になるつもりは一切ない。俺はこの世界の人間じゃないんだ。全てが終われば、俺は在るべき世界に戻る。


 違ウヨ。ココガ 君ノ 在ルベキ世界。

 君ハ コノ世界ノ 人間。

 記憶ヲ失ッテイルダケ。


 またそれかよ。そうやっておっちゃんと同じように俺を騙してこの世界に引き込む気なんだろ? その手には乗らないからな。


 騙ス?


 そうだよ。俺には生まれた頃からの記憶がずっとある。家族だってあるし、思い出の写真だって、綾原の中にだって俺の記憶がある。俺はこの世界の人間じゃない。


 アノ世界ハ 君ガ 創リ出シタ 理想ノ世界。

 ココガ 君ニトッテノ 現実。

 君ハ 逃ゲ出シタンダ。コノ世界カラ。

 ヤガテ 君ハ アノ世界デ クトゥルク ヲ 制御デキナクナル。

 コノ世界コソガ 君ノ 在ルベキ世界。

 ナゼナラ君自身ガ クトゥルク ダカラ。


 その言葉に俺は怪訝に眉をひそめた。

 俺が……クトゥルクだと?


 ときハ来タ。後ハ 君ガ ソレニ 気付クダケ。


 ──フッ、と。

 まるで宇宙を光速で駆け抜けるように光がラインになって俺の真横を伸びていく。


 やがて光のラインが線から点に戻った時。


 目にした光景は、避難してきた大勢の信者たちであふれた神殿の中だった。

 皓々こうこうと頼りない光の球がいくつも天井に浮いて大広間を照らし、力なき老若男女が両手を組んで静かに祈りを捧げている。

 俺は不思議に辺りを見回した。

 神殿兵や使役魔術師たちの姿はない。

 ここは一般の人たちが誘導されて避難してきた場所なのだろうか。

 開かれた窓からは見張りと思われる一人の男性が外の様子を気にしている。


「ケイ!」


 ふいに俺を呼ぶ声が聞こえてきて、俺はその声の方へと振り向いた。

 イナさんだった。

 肩に小猿を連れたイナさんが俺に駆け寄り、抱きしめてくる。

「無事だったんだね」

「Kが生きてたデシ!」

 次いでイナさんと一緒にいたデシデシも俺の足にしがみついてくる。

「小僧っ子。無事じゃったか」

 イナさんの肩の上で小猿が安堵のため息を吐いた。


 俺はみんなを見つめたまま呆然とする。

 その脳裏に浮かび上がる一つの疑問。


 あれ? そういや俺、どうしてここにいるのだろう?


 ようやく俺はそこで疑問の目をもって改めて周囲をきょろきょろと激しく見回した。


 え? あれ? ここどこだ? セディスは? 神殿兵は? 巫女はどうなった? なんで俺はここにいるんだ?


 小猿が俺に聞いてくる。

「ところで小僧っ子よ。奴と一緒ではないのか?」


 気付いて俺は自分の肩に目をやった。

 モップがいない。

 おっちゃんの声も聞こえてこない。

 どういうことだ? なんで俺だけここに?


「ケイ?」

 イナさんが不思議そうな顔で首を傾げ、俺を見てくる。

 デシデシも不安そうに俺を見つめて問いかけてくる。

「K。どうしたデシか? なんで何も言わないデシか?」


 ちょ、待ってくれ。俺にも何がなんだか──


 声に出そうとして、俺は声が出ないことを思い出した。

 説明しようにもどう説明していいかわからない。

 とにかくできる範囲のジェスチャーでイナさん達に伝えようとした。

 自分ののどを指差し、口パクをしながら片手を仰ぐ。


 デシデシが首を傾げながら言ってくる。

「声が出ないって言っているんデシか?」


 その言葉に俺は二度頷きを返した。


 イナさんが心配そうに尋ねてくる。

「いったいどうして?」


 さすがに経緯までは説明しきれない。

 俺は苦く笑って頬を掻いた。


 小猿がハッとした表情を浮かべて言ってくる。

「もしや小僧っ子はここに逃げてくるまでの間に、黒騎士に声をやられたのではないのか?」

 小猿の言葉にデシデシが顔をしかめて口を尖らせる。

「声だけ奪って命を助ける黒騎士デシか?」

「いるんじゃよ、そういう奴が。一人だけ心当たりがある」

 デシデシが首を傾げる。

「声を奪って何するデシか?」

「あたいもそれ聞いたことがある」

 イナさんが口を挟んだ。

「黒騎士の中に一人、頭のイカレた奴が居るって。自分の目が見えない代わりに、相手の体の一部を持ち帰ってどこかに保管するらしいって話。それでその奪った相手は絶対に殺さないことをポリシーにしているとか」


 怖ッ! そんな奴がいるのか。


 デシデシが尻尾を抱きしめて震えるように蹲る。

「嫌デシ! ボクの大事なかわいい尻尾を持っていかれるのは嫌デシ!」


 尻尾ってお前……。


 ――ふと。

 どこか遠くで狼の遠吠える声が聞こえてきた。

 その遠吠えに、誰もが祈るのを止めて耳を澄ませる。

 遠吠えは続く。

 何かを呼び寄せるかのように、ずっと。


 ぅぐっ。

 突然襲ってきた鈍い痛みに、俺は顔を歪めて額に手を当てる。


「どうしたんだい? ケイ」

「どうしたデシか?」


 俺は無言で首を横に振った。

 そのまま耐えられそうにない痛みに額を掻きむしるようにしながらも、俺はその場に膝を折って座り込む。


 小猿が声を落として誰にでもなく呟きを漏らす声が聞こえてきた。

「この様子……いやまさか、な」


 見張りをしていた男性が窓を指差して叫ぶ。

「見ろ! クトゥルクの化身だ! 天空の白狼竜ドラゴンがこの街にご降臨されたぞ!」

 周囲が一気に騒然とした。

 皆窓辺へと駆け出していく。

 窓の外を見るなり皆一様に感嘆の吐息を漏らした。

「おぉ」

「奇跡じゃ。奇跡が起こっておる」

「やはり神は私たち信者を見捨てにはならなかった……」

 人々は再び祈りを捧げる。


 祈り出して静かになった室内で。


 俺はイナさんの肩を借りてどうにか立ち上がる。

「大丈夫かい? ケイ」

 痛みは一向に治まる気配がない。

 遠吠えが聞こえるたびに痛みが激しさを増し、さらなる苦痛にさいなまれる。

 それでも俺はフラフラになりながらもイナさんの肩を借り、ゆっくりと窓辺へと歩いていった。


 遠く向こうに、窓から見えるクトゥルクの化身。

 その姿はとても神々しくきれいな獣だった。


 暗闇を切り裂き、天から降りそそぐ一条の白い光。

 真っ白いベールのような光のカーテンとなり、半壊した神殿の頂に真っ直ぐに差し込んでいる。

 半壊した神殿に俺は見覚えがあった。

 さきほどまで俺が居たはずの場所。

 その半壊した神殿を占領するかのように、純白の毛並みをした巨大な狼が佇んでいるのだ。

 穢れを知らない無垢の両翼を背に折りたたみ、天を仰いで遠吠えている。

 まるで何かを呼び寄せているかのように。



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