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土曜19時(全4話)に更新します。

 高校の入学式を終えたばかりの教室で、新しい制服の硬さに身を縮めながら、私はあの日々を思い出していた。



 中学二年生の冬。

 私の世界は、教室の片隅と、放課後の図書室、そして親の引いたレールの上にしかなかった。

 放課後、静まり返った図書室で、一人机に向かう。窓いっぱいの夕焼けが、私に夜の訪れを知らせる。


 帰らなければいけない。あの家に。

 向き合わなければいけない。あの親と。


 成績は常に上位。そんなことは当たり前。

 私は、管理される檻の中にいた。

 親の言葉は法律であり、守らなければ居場所を失う。それは教育というより、一種の刷り込みに近かった。

 自我がないわけではない。けれど、反抗するほど何かにこだわりがあるわけでもなかった。

 ただ、波風を立てぬよう、目立たぬよう、空気の一部になって息を潜めていた。


 校舎の隅にある図書室に、ふいに入り込んできたのが田中和希だった。

 クラスメイトの彼は、派手ではないが誰とでも上手くやる、不思議な立ち位置にいた。冬でもこんがりと焼けた肌に、笑うと白い八重歯が似合う…泥だらけの野球のユニフォームで、校庭を走る姿は眩しかった。


 階段を駆け上ってきたのか、彼は肩を上下に揺らし、小さく息を整えた。急いで着替えたような崩れた制服。


「…やっぱりいた。佐々木、帰らねえの?」

「今、帰るところ」

「へー。なぁ、勉強……あんま詰め込みすぎるなよ。今から全速力じゃ、受験までもたねえぞ」

「うん、そうだよね。分かった」

「あのなぁ、お前は素直すぎるんだよ」

 田中は、困ったように眉を下げ、頭をかいた。

 私にとって、彼は少し大人びた特別な存在だった。普通に接してくれる唯一の人。

「……なんで怒るの?」

「怒ってないっ! 心配してんだよ」

 心配、という言葉に驚く私に、彼はまた困ったように天を仰いだ。そんな風に、彼は時折、張り詰めすぎた私の心をふっと緩めてくれる。

 彼は、何度も夕焼けが差し込む図書室に訪れた。



「お前も行く?」

 田中に誘われたのは、彼が家族でテーマパークへ行くという話をした時だった。しきりに羨ましがる私を見て、一度も行ったことがないのを不憫に思ったのだろう。

 彼自身の親から連絡があったこともあり、私の両親は「しっかりしたご家庭なら」と、意外にもすんなり外出を許した。

 初めて訪れたテーマパークは、めまぐるしい色と音に溢れていた。

 気を利かせた彼の両親と別れ、二人きりになった瞬間、田中にぐいと手を引かれた。

「夕方六時までだろ? 急がねえと」

 冷たい冬の空気の中、握られた手のひらだけが熱かった。アトラクションの列、弾けるポップコーンの匂い、夕暮れに灯り始めるイルミネーション。

 それは私の狭い人生の中で、間違いなく一番楽しい一日だった。



 クラス替えを控えた早春。

 部活帰りの田中が、また図書室に現れた。

 私の前の席に座ると、彼は手持ち無沙汰そうに、私のペンを指先でくるくると回し始めた。

「真面目だな」

「……好きでやってるわけじゃないよ」

 沈黙が流れる。窓から差し込む西日が、埃を金色の粒に変えて舞い上がらせている。


「あのさ……俺、お前が好きなんだけど。付き合ってくれない?」


 あまりに直球な言葉に、心臓が跳ねた。ペンを回す彼の横顔を盗み見ると、短い髪の隙間から覗く耳が、見たこともないほど赤くなっている。


「…いいよ」


 答えると、今度は彼が驚いて、照れくさそうに両手で顔を覆った。下校を告げるチャイムが、遠くで夕闇に溶けていった。




 中学三年生、夏。

 私の初恋は、一年を待たずに終わった。

「夏祭りに行きたい」という私の願いは、受験を優先する親の逆鱗に触れた。

「遊び歩く暇があるなら勉強しなさい」「付き合っている子がいるの? なら、今すぐ別れなさい。それが志望校に受かる条件よ」

 約束の時間は過ぎていた。家の中で響く罵声。

 ようやく家を抜け出し、待ち合わせ場所に辿り着いた時には、最後を告げる打ち上げ花火の音が、遠くの空で虚しく響いていた。


 でも、その場所で田中は何も言わずに待っていた。私を見つけた時の安心したような彼の顔が今でも忘れられない。浴衣も着られず、髪も乱れたままの私に、彼は心底嬉しそうに照れたように笑いかける。それなのに…私の口から出た言葉を聞いて、田中の顔に怒りと悲しみが混じった。


「別れよう。……もう、会えない」


「お前…本気で言ってる?」


「…お母さんが駄目だって」


「…親の言いなりかよ」


 その通りだった。私は、自分の人生を自分で選ぶことすらできない子供だった。

 私は声を上げて泣いた。彼を失う恐怖と、自分への情けなさが溢れ出した。

 田中はしばらく私を睨んでいたが、やがて大きなため息をつくと、一歩近づいてきた。


「……分かった。分かったから、もう泣くなよ」


 彼は困ったように眉を下げると、部活で硬くなったその指で、私の頬を何度も何度も拭った。


「泣き虫。……ほら、帰るぞ」


 遠慮がちに私の横に立つ彼。

 真夏の熱と彼の体温。

 祭りの喧騒と彼の匂い。

 それが、私の「初めての彼氏」との、最後の記憶だった。



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※ムーン版(全8話)も配信中です。

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