紺青に響く、泡沫の唄
湿った土と、古い木材の匂い。
「ここなら、思い切りギターを弾いて、歌える」
祖母が入院し、誰もいなくなった家を引き受けることに決めたのは、不純な動機からだった。
実家から車で一時間。山の麓にポツンと建つその家は、周囲に民家がなく、夜になれば静寂だけが支配する。
平日は会社員として働きながら、シンガーソングライターを夢見ていた私は、けれどオーディションに落ち続ける日々に疲れていた。
逃げるように、この場所へやってきた。
そこは、週末だけの、誰も知らない、私だけの場所。
異変が起きたのは、滞在を始めて三度目の金曜日の夜だった。
『……ううっ。ひぐっ……うう……』
深夜、這うような啜り泣きに、ふと目が覚めた。
古い家特有の家鳴りではない。もっと湿り気を帯びた、確かな生き物の声。
───え……めっちゃ怖い! 私、幽霊とか本当に無理なんだけど!
心臓が早鐘を打つ。布団を頭まで被り、固く目を閉じた。
けれど、声は一向に止む気配がない。それどころか、悲痛さを増していくその声に、恐怖よりも次第に奇妙な「可哀想」という感情が湧いてきた。
意を決して、寝返りを打つ。障子から差し込む月光を頼りに、声のする床の間の方をそーっと盗み見た。
「え……?」
そこにいたのは、幽霊ではなかった。
床の間に飾られた、祖母自慢の美しい日本刀。
その鞘の上に、ちんまりと座り込んでいる、小さな生き物───。
見た目は、十歳ほどの少年だろうか。
緩いウェーブがかかった長い黒髪を後ろで一つに結び、紺色を基調とした、裾に鮮やかな赤の模様が入った着物を纏っている。
腰には、その身の丈には合わないほど立派な、けれどどこか小ぶりな刀を差していた。
彼は膝を抱え、大粒の涙をボロボロと流しながら、しゃくり上げている。
「……あの、ねえ」
あまりの悲壮さに放っておけず、つい声をかけてしまった。
「ひゃうっ!?」
少年は飛び上がり、驚愕の表情で私を見つめた。涙が溜まったその瞳は、吸い込まれるほど綺麗な、深い濃紺色をしていた。
「お、おぬし……私が、見えるのか?」
「あ、うん。普通は見えないの? ……やっぱり、お化け……?」
「違う! 無礼者! 私は、この刀の神だ!」
少年は涙を拭い、精一杯胸を張った。けれど、赤い鼻頭と泣き腫らした目のせいで、威厳は皆無だ。
「神様……?」
私が呆然と呟くと、その濃紺の瞳にみるみるうちに涙が溜まり、決壊した。
「うわああああん! やっぱり、信じてもらえない! 神に見えないよな! 私は、ダメなんだ……。神たちの中でも一番弱くて、いつも役立たずで……ううっ、ひぐっ……」
「いやいやいや! 待って、泣かないで! わかった、神様ね! 信じる! 君は立派な神様!」
慌てて布団から飛び出し、床の間の前で両手を振って必死に宥める。
何とか泣き止んだ神様が、しゃくり上げながら語るには、大事にされた器物から生まれる「付喪神」の一種だという。
この刀から生まれ、もう数百年は生きているらしい。
けれど、何百年生きようとも気弱な性格は変わらず、「強くない自分」を嘆いては、またしくしくと泣き始めてしまう。
「……弱虫な神様」
私は少し困ってしまった。慰める言葉も見つからない。けれど、この泣き虫な神様のために、何かしたかった。
私はそっと、床の間に置いたままだったアコースティックギターを手に取った。
励ますために、彼に向けた言葉を紡ぐ。
ぽろん、とギターの和音が、湿った床の間の空気を震わせた瞬間だった。
「……あ」
神様が、あっと声を上げて自分の足元を見る。
鍔に埋め込まれた、小さな夜光貝の欠片が、淡く脈動していた。
それは、仄かな燐光から始まり、やがて紺青、緑、真珠色へと、妖しくも美しい光を帯びていく。
「おぬしの歌……。私の、この古びた貝殻に、命を吹き込んでいるのか……?」
神様は、ボロボロと流していた涙をピタリと止め、自身の依り代である刀と私を、交互に信じられないものを見るように見つめていた。
その純粋な眼差しに気分が良くなり、私は続けて二曲目も歌いきった。
「おぬし……! なんて、すごい歌声だ!」
神様が刀の上から飛び降り、私の目の前までやってきた。その顔は歓喜に満ち溢れている。
「腹の底から、力が湧いてくる気がする……! この数百年で、一番身体が軽い!」
「あはは、ありがとう! 気に入ってもらえてよかった。私の名前は陽菜。よろしくね、神様」
大絶賛する神様に、私は照れくささを隠しながら、右手を差し出した。
神様はその小さな手で、私の人差し指をしっかりと握りしめた。
それから、私の週末は一変した。
相変わらず些細なことでしくしく泣く神様を、「ほら、神様でしょ!」と励ましながら、一緒に過ごす。
昼間は二人で庭の草むしりをしたり、古い家中を雑巾がけしたり。
神様が私の周りをパタパタと飛び回り、私がギターを弾けば、その音色に合わせて着物の裾を揺らして踊る。
夜は、ずっと歌の時間だった。
オーディション「不合格」の通知を見ては落ち込む心を隠し、カラ元気を出して歌う私。
けれど、私の歌を、世界で一番楽しそうに、尊いもののように聞く神様の濃紺の瞳を見ているうちに、私は純粋に歌うことの楽しさを思い出していった。
───そう、私はただ……歌いたいだけなんだ。
何者かになりたいわけじゃない。
誰にも聴かれなかった、泡沫のような私の歌。
たった一人の観客。この泣き虫な神様のためだけに、私は魂を込めて歌った。
オーディションには、もう応募しなくなった。
その代わり、神様との時間を記録するように、そっとYouTubeにだけ動画を投稿し始めた。
フォロワー数も評価も、見ない。
これは、私と神様だけの秘密の唄だから。
───ずっと後から教えてもらったことなんだけど、神様は、実は私のカラ元気を知っていた。
必死に前を向こうとする私を見て、泣いてばかりの自分を変えようと、胸の奥で静かに決意していたらしい。
強い想いが込められた歌を聴くたびに、自分の中に、これまでにない感覚が満ちていくのを、確かに感じていたのだという……。
いつものように金曜日の仕事が終わってから、車を走らせ山の麓へ向かう。週末が、人生のすべてになっていた。
だが、その日は酷い土砂降りだった。
ワイパーを最速にしても視界が利かないほどの雨の中、這うようにして祖母宅に着く。
いつもなら車を降りる音を聞きつけて、玄関までパタパタと出迎えてくれる神様の姿がない。
……おかしい。
胸に、ざわりとした予感が走る。
荷物を玄関に放り出し、家の奥へと急ぐ。床の間の部屋の前まで来た時、襖の向こうから、聞き慣れない男の声と神様の声が聞こえた。
「……最上ランクのこの俺に、お前のような弟がいること自体、恥辱だ。数百年経っても神の最低ランク。呆れて物も言えん」
襖の隙間から覗いた部屋の中には、身に纏う空気が段違いに鋭利で冷徹な、もう一人の男の神が立っていた。
彼の腰に差された刀は、装飾など一切ない、無骨な黒一色の鞘。けれどそこから漏れ出る殺気は、まるで研ぎ澄まされた氷のようだ。
「お前の刀を見ろ」
兄の神は、床の間に飾られた、夜光貝の鍔を持つ美しい刀を蔑むように指差した。
「紫の紐に、鞘の模様、そしてその軟弱な貝殻の飾り……。戦うための『道具』であることを捨て、ただ飾られるためだけの『置物』に成り下がった、惰弱な刀。それがお前だ」
「……」
「俺の刀は、数多の首を跳ね、血を吸い、実戦の中でその存在を証明してきた。『強さ』とは、敵を切り裂く破壊力だ。飾るための美しさなど、神には不要!」
兄の神は、わずかに目を細めた。
その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、迷いのようなものが揺れた。
「……飾り物に、神を名乗る資格はない」
兄上の言葉は、泣き虫神様が何百年も抱え続けてきた、最大の劣等感を正確に貫いた。
彼はうつむき、小さな肩を震わせる。今にも泣き出しそうだ。
「このまま、この錆び付いた刀と共に、ただ泣いて過ごすだけなら、死ね。付喪神としての生を全うする勇気がないなら、今ここで、俺が斬ってやる」
男の神が、腰の刀に手をかけた。
……ちょっと! 何言ってるのよ、あいつ!
聞いていられなかった。私は襖をバーンとおもいっきり開け放ち、部屋に踏み込んだ。
「死ねとか、ありえないから! 何様なのよ!」
「……ほう。あの人間、我らが見えているのか」
男の神が、冷ややかな視線を私に向ける。その威圧感に、身体が竦みそうになる。
「はい、兄上。私の……私の大切な、友人です」
「黙れ。おい人間、我らは兄弟刀だ。お前のような泡沫の存在が口を出す問題ではない。弟を『神ランク選考会』に連れに来た。今回も最低ランクなら、言葉通り、死ね」
矮小な虫を見るような一瞥。兄だという神は吐き捨てた。
カッとなって口を開こうとしたその時、泣き虫神様が私の前に飛んできた。
彼は私の手をその小さな手で握り、真剣な瞳で私を覗き込む。
「陽菜、大丈夫だ。お前のおかげで、俺は変われた」
「だって、神様……。死ねとか、あんな奴……!」
「必ず帰る。お前の元へ。必ず」
弱虫だった神様は、私を見て、力強く微笑んだ。その濃紺の瞳には、涙の一粒も溜まっていない。
「兄上は言った。美しさは不要だと。……けれど、私は知っている。おぬしの歌が、私のこの『美しさ』に命を吹き込み、力を与えてくれたことを」
彼は自らの小さな刀を抜き、兄上の無骨な刀に向けた。
「『強さ』は、人を傷つける力だけではない。人を癒やし、心に光を灯す『美しさ』もまた、一つの強さだと……おぬしの歌が、教えてくれたから」
兄の神はニヤリと笑う。その笑みはどこか、ようやく牙を剥いた弟を祝福しているようにも見えた。
「面白い。なら、その泡沫の美しさで、俺の刃を受け止めてみせろ」。
二柱の神は、土砂降りの空の上空へと飛び立ち、雷鳴と共に雲の彼方へ消えていった。
───いつから、彼は泣かなくなったんだろう?
兄上という神に詰め寄られても、彼は泣いていなかった。出会った頃なら、私の後ろに隠れて大泣きしていたはずなのに。
……いや、そんな思考に浸っている場合じゃない! あの兄とかいう奴、本気で神様を消すつもりだ……!
最悪の想像を必死に振り払うと、私は床の間に残された彼の本体───祖母の刀を、大事に布袋に包んで抱きしめた。そして、急いで土砂降りの庭へ飛び出した。
辺りはすっかり薄暗くなり、森が不気味にざわめいている。
雨は身体を打ち付け、一瞬で全身を濡らした。
私は大きく息を吸い込み、天を仰いで、歌い出した。
ギターはない。伴奏も、何もない。ただ、私の声だけ。
私ができることは、これしかない。私の歌が好きだと言った、あの泣き虫な神様に、力を……!
お願い、届いて……!
髪から流れ落ちる雨で視界がぼやける。
喉が焼けるように痛い。
けれど、その痛みすら、もう意識の外にあった。
まるでトランス状態に入ったかのように、私は彼の名を、彼を想う唄を叫び続ける。
突如、頭上の雨雲がカッと割れた。まるでモーセの十戒のように、私の周りだけ雨が止む。
光が天から降り注いだ。
黄金の輝きを身にまとった一柱の神が、舞い降りる。
彼の腰にある刀の鍔、夜光貝の象嵌は、今や圧倒的な紺青の光を放ち、周囲の闇をすべて払い除けていた。
それは、私の知っている「泣き虫神様」ではなかった。
少し大人っぽくなった顔立ち。洗練された着物。全身から溢れる自信と気高さ。
───もう、泣き虫神様とは言えない。
「……天にも届く、素晴らしい歌声だった、陽菜」
濃紺の瞳が優しく細められる。声も以前より低く、落ち着いていた。
「あれは神に奉納する唄だ。甘く、甘美で……私にだけ無限の力を与える、唯一無二の唄」
彼はそっと私の顔の近くまで寄ってきた。
小さな、けれど温かい手のひらが、私の頬に触れるか触れないかの距離で止まる。
「お前と一緒に過ごした時間、お前が頑張る姿が、俺に勇気を与えた。そして、お前の歌が私を強くした。神のランクも、一気に上がった」
私は溢れる涙をそのままに、おもいっきり神様を抱きしめた。彼自身の温もりが、そこにあった。
「心配したよ……! 本当に、心配したから……!」
「すまなかった。兄の過激発言はいつものことなんだ。結局、俺のことを心配して、お前という存在を確かめに来ただけだった」
神様は私をぽんぽんと慰めるように撫でた。その仕草は、以前と変わらない優しい彼だった。
「強くなるなら……いつだって、神様のために歌うから……」
安心した私は、疲れが限界を迎え、すとんと意識を手放した。
「たとえ、歌がなくなったとしても、私はお前の傍にいるから───」
崩れ落ちる体を受け止めたのは、人間の大きさになった、大人の神様だった気がするのは……きっと、夢だった。
私と神様だけの秘密だったはずの唄は、いつの間にか誰かのタイムラインに流れ、静かな波紋のように広がっていた。
「魂を揺さぶる歌声」という名の波が、私の預かり知らぬ場所で満ちていることを知るのは、また数日後のこと───。
(終)




