第一話
ドリンクホルダーに置いた炭酸水が陽の光を受け止めて輝きを放ってる。ペットボトルの底から浮かぶ気泡は小さな光の輪っかのようにみえた。そのペットボトルを手にした僕は、弾けた泡と共に炭酸水を喉の奥へと流し込んだ。
新幹線の窓の向こうでは、数時間前までみえていたコンクリートで出来たビル群から移り変わり、田んぼやあぜ道が姿を現すようになっていた。地面から湧き立つ入道雲が、更にその奥に広がっている。
窓辺に腕を立てて頬杖をつき、その移り変わる景色をぼぅっと眺めていた。今年も夏が来たことを再認識しながら。
そうしている内に、冷却装置で冷えた車内に差し込む陽の光が肌寒くすら感じた身体を温めてくれて、その心地よさに次第に睡んできた。
完全に意識を手放してしまうと降りる駅を逃してしまう為、瞼だけを降ろした僕はまだ色あせてすらないあの日々の記憶に思いを馳せた。
あれから五年の月日が流れた。
僕は流れゆく時の流れに身を任せ、ただ毎日を忙しなく過ごすことにした。そうでなければ、自分を見失ってしまいそうだったからだ。
海月を失ってからの毎日は、学校の宿題とは別に自分で課題を作り、答えを求めて勉強に明け暮れた。
必然的に拓馬と静香と過ごせる時間は少なくなったが、それでも僕たちの関係値が変わることがなかった。いや、それ以上になったのかもしれない。学年が上がるにつれて、将来のことを考える時間が増えたことで、二人は二人なりに自分の未来の為に時間を費やしていたことも理由の一つにあると思う。
でも、一番の理由は一度壊れかけた僕たちの絆が修復されたことで、より強固なものになったからだろう。
海月が崖から飛び降りたあと、僕たちは震える手で警察、救急車と順に連絡をした。
颯爽と到着した警察官と救急隊員に、自分達がみたものを全て話した。海月の能力については伏せて。話したところで大人は到底信じではくれないだろうと思ったからだ。
数時間後にはダイバーが海月の飛んだ海の中へと放たれた。だが、海月の遺体が見つかることはなかった。海月の思い描いていた通り、痕跡すら残さずにこの世から消えた。そう、海月は本当にくらげになったのだ。
心の中に大きく空いた穴が塞がることがないまま、夏休みは開けた。始業式から二日後、学校では海月の件について学年集会が開かれることになった。
僕たち三人は海月とあまりにも近すぎた為に、まるで腫れ物を扱うかのように学校では浮いた存在となった。本来であればその間も、三人で悲しみを乗り越えることが出来たら良かったのだろうが、二人は僕の前から去っていった。それは、絆が壊れかけた瞬間だった。後から聞いた話しだが、二人は僕のことを許せない気持ちと、僕の気持ちも分かるという考えがせめぎ合い、どうすることも出来ないもどかしさを整理する為にも一度僕から距離を取る選択をしたそうだ。
当然のことだろうと思った。
僕は結果的に、二人から海月を奪ってしまったのだから。
僕が勉強に明け暮れるようになったのも、その辺りからだったと思う。毎日どうやって夜を超えるかを考えた。朝から晩まで自分に課題を課し、分単位のスケジュールを作り、身体を疲弊させた。そうすることで、ようやく眠りにつくことが出来た。
それでも眠れない時は、瞼を閉じれば海月の姿が浮かび、悲しみで押し潰されそうになった。無意味にロープで輪っかを作ってみたり、翌朝目の前を過ぎ去る電車をみては、馬鹿なことを考えた。
この頃の僕は、人形のようになっていたと思う。毎日逃げるように眠り、起きてからは眠る為に身体を疲弊させる。感情なんてこれっぽっちもない、木造りの人形のようだった。
海月と別れを告げてから九つの夜を越えた頃、僕は閑静な住宅街の中でもひと際洗練された建物の前に立っていた。
僕は、謝らなければならなかった。
必ず連れて帰ると約束した海月のお母さんに。
風の噂で、海月のご両親は未だに捜索願を出し続けたままだということを聞いた。遺体も見つかっておらず、海月が崖の上から飛び降りた瞬間をみたのが、まだ未成年だった僕たち三人だけだったこともあり、警察は捜索は打ち切ってからも、未だに捜索願を受理したままだそうだ。
僕は、海月のご両親が前に進む為にも全てを話すべきだと決心した。
「……これが、あの日に起きた真実です。僕は約束を破ってしまいました。本当に申し訳ありません」
革製のソファーに腰を掛け、海月のお母さんに全てを話した。警察官や救急隊員に話した内容とは違い、文字通り全てを話した。海月の未来をみることが出来る力や何もかもを。海月のお母さんには知る権利があり、僕には話さなければならない義務があると思ったからだ。それに、僕を憎む権利も。
「そうだったんですね……話して下さりありがとうございました」
僕は海月のお母さんの平然とした態度や表情に目を丸くしてしまった。テーブルの上に置かれたカップに手をかけるその仕草でさえ、思わずまじまじとみてしまう。折り目があしらわれているベージュのロングワンピースに身を包み、雰囲気や佇まい、仕草一つをとっても全てが気品に溢れていた。僕は海月が未来をみることが出来るという、にわかには信じられない話を口にしたのに、一切の動揺が感じられなかったのだ。
本当に僕が話した内容を理解しているのだろうか?
僕は、咎められても仕方ないという気持ちでこの家にきていたのに。
「あ……あの」
どう言葉を投げ掛ければいいか分からず、言葉を紡ごうとする度に飲みこんだ。
そんな僕の反応をみて、海月のお母さんはうっすらと陰日向に咲く花のような笑み浮かべた。笑った時にみせる目や口元が、僕の記憶の中で未だに生き続ける海月と重なり、途端に胸が張り裂けそうになる。
「私、いえ、私と夫は海月の力を知っています。あの子は物心ついた時から不思議なことを口にし、全ての出来事がその通りになった。あの子自身は私達がそれに気付いてることを知らなかったのですが、それが良くなかったのかもしれませんね」
僕は海月のご両親が知っていたという事実に、開いた口が塞がらなかった。
「以前、響さんに海月の手紙をみせた時、なぜ言葉が未来形になっているのか分からない、きっと書き間違えだと思います。と私が答えたのは、海月の力は特殊なものだったのであまり人様に見せびらかせるようなものではないと夫婦で判断したからなんです。夫は、医師になる前は研究職についていました。だからこそ、人が持つ解明したいという欲を恐れていました。人知を超えたものや人と出会ってしまうと、時として人は非人道的な研究や倫理から外れた行いをしてしまう時がある。勿論、現代においてそんなことはほとんどないと思いますし、こと日本においては尚更のことだとは私達も考えていました。けど、ゼロじゃない。海月の持っていた力は恐ろしいものです。人は一秒先の未来すら分からないこそ生きる意味を見い出すことが出来ますし、希望を持つことが出来る。海月の力はそれを奪いかねない。誰かに悪用される可能性だってある。だから、私達は海月を表に出すことは必要最低限に留めてきました。響さんには嘘をつくような形になってしまい、ごめんなさいね」
言い終えると同時に頭を下げた海月のお母さんのつむじをぼんやりと眺めたまま、声を発することが出来なかった。頭の中でこれまで海月のお母さんが放った言葉が気泡のように浮かび上がってくる。
──この子は……海月は繊細な子なんです。感覚や感性が人より鋭い分だけ、人からの影響も受けやすい。失礼だけど、あなた達みたいな子たちからいい影響を受けるとは思えない。
──誰かに写真を撮られてSNSにでもあげられていたらどうするんです? まさかあなた達はあげてないと思いますけど。
──全てを知ったような口を、私に聞かないで。響さん、あなたは海月のことを何も分かってない。あなたが今みている海月は、そのほんの一部でしかないの。私が、私達夫婦が、どんな想いで海月に接しているのか、その気持ちも知らないで、知った風な口を聞かないでっ!
──一つ、理由を教えてあげる。親だからよ。娘を守る為に私達はそうする他なかったの。
頭の中で浮かび上がった気泡が音もなく弾けると、当時の情景が映像のように流れた。苦しそうに、悲しそうに、顔を歪める海月のお母さんの姿も。今思えば、この人は、この人たちは、ずっと海月を守っていたのだ。人知を超えた力を持つ愛する娘が、その人生が、少しでも平穏に幸せに送れるようにと。知らなかったとはいえ、僕はこれまでなんてひどいことを言ってしまったんだ。膝のうえに整列するように並べていた手のひらにぎゅっと力を込めた。それと同時に目の淵から涙が溢れ落ちた。
「あの」
「待って」
謝らなければ。そう思い口を開いたその瞬間、海月のお母さんは僕の瞳を中心を捉えながら言った。
「謝らないで下さい。あなたは何も知らなかったんだから謝る必要なんてない。その代わり、響さん、一つだけ教えて頂けますか?」
「はい、どんなことでも聞いて下さい」
「海月は最後の瞬間、どんな表情で逝ったのでしょうか?」
その問いかけを投げかけた瞬間の真っ直ぐに僕をみつめる瞳は、綺麗に澄んでおり、もうその問いの答えを聞くことさえ出来れば、他には何も望まないと目が訴えかけているようだった。
姿勢を正す。すぅっと息を吸い込んで、僕はその想いに応える為に、未だに頭の中心を占める鮮明な記憶に手を伸ばした。
「あの日の海月……は、何もかも吹っ切れたような顔をしていて、最後の瞬間は、今まで見たこともないくらい……幸せそうな顔をしていました」
出来るだけ伝わるようにと、流暢に話せるようにと、意識はしてみたが、無理だった。喉元から声を放つ度に、海月と過ごしたあの日々が蘇る。次第に潤み始めた僕の声で、部屋の中は湿り気を帯びた空気で一瞬で満ちた。
以前訪れた時よりも心做しか暗く感じていたこの部屋が、ぱっと明るく染まったように感じたのは、そのすぐ後だった。海月のお母さんがゆっくりと穏やかな表情を作り、笑みを浮かべた。それから、滴が溢れた。目元から。ずっと我慢していたのだろうか。最初の涙が零れ落ちると、次々に流れ、それらが頰を濡らした。
「そうでしたか。それなら良かった、本当に良かった。私は、ずっと気になっていたんです。もし最後の瞬間、悲痛な顔を浮かべていたりなんてしたら、私は親として、もう、立ち直れなかった。生きていけなかったかもしれません。丈夫に生んであげることが出来なくて本当にごめんねって、辛い人生だったの?って毎日毎日海月に謝り続けていたんです。響さん、ありが……とう。本当に、ありがとうございます」
言い終えて、ソファーから崩れ落ちるようにして、そのまま床に頭をつけた。細い身体の、小さな背中が、大きく震えてる。その姿が、ずっと抑え込んでいた僕の感情を爆発させた。
「……ごめんなさい」
無意識に発していた。足元で泣き崩れる海月のお母さんの元へと駆け寄り何度も頭を下げる。
「ごめんなさい、海月を連れて帰れなくて、本当にごめん……なさい」
まるで子供のように声を上げて泣いた。頰に手が触れたのは、その時だった。
「あなたは何も悪くない。さあ……顔をあげて」
柔らかな声だった。その温かい声の方へと視線を向ける。目を真っ赤にしながらも、陽だまりのような笑みを浮かべる海月のお母さんが、僕の身体を抱き寄せた。
「私があなたのことを恨んでるとでも思った? むしろ、その逆よ。感謝してるの。海月はきっと、最後に最高のひと夏を過ごすことが出来たんだと思う。娘を、海月を大切にしてくれて、本当にありがとう」
その言葉が僕の鼓膜に触れた時、やっと自分に課していた重しがほんの少しだけ軽くなったような気がした。救われたのだ。胸の中から溢れ出る感情を涙と共に流し、ただ身体を預けたまま、声が枯れるまで泣き続けた。




