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第二十話

「一日が始まる。そろそろ時間だね」


 ぽつりと呟いた海月は、空に視線を送る。かざされた左手は透き通るように白く、空を掴もうとするように長く伸ばされた。僕も海月が送る視線の先をみつめ、目の前に広がった景色のあまりの美しさに息を呑んだ。


 青よりも更に深みのかかった青が紫と入り混じる空が、端の方からうっすらと白み始めた空が、さも一つのキャンバスの中で同居するかのように合わさり、何色もの色でグラデーションがかかっている。


 それは色で表すなら瑠璃色で、場所を示すなら、深い海の色、あるいは、地球の外側を覆う大気圏の色とでも言えばいいのだろうか。


 少なくとも日常的に目にする色でないことは確かで、その空をみつめる僕の瞳はさぞ美しい宝石のようにみえるのではないだろうかと思った。


「さぁ、そろそろ行こうかな。みんなは私のこと忘れていいからね。この先も続く長い人生に私の存在は邪魔になるだけだから。みんなとの思い出は全部抱えて向こうに持っていくよ。私はくらげになる。泡のようにこの世から消えて何も残さない。LINEで送った文章も、今まで書いてきた日記も響達がここに来る前に全て消しちゃった」


 なんて、なんて幸せそうな顔をしているんだ。僕は海月の浮かべる溢れんばかりの笑みをみて、そう思った。


 それが、君の幸せに繋がるなら。

 それが、君の望みなら。

 僕は。


「……ちょっと待ってよ」


 両目の端から大粒の涙を流し続けながら静香がぽつりと蚊のなくような声で言った。もう、涙を拭ってすらいない。


「最初から死ぬ気なら、なんで私達を呼んだの?わざわざあんなメッセージまで送ってさ……海月だって、ほんとは死にたくないんでしょ? 私達に止めて欲しいんでしょ? ちゃんと言ってよ!!」


 静香は地面に両手をつき、まるで懇願するかのように最後は泣き叫んでいた。それをみて、海月は一度空に視線を送り「うん、怖いよ。死ぬのは怖い」と言った


「でも、未来は変えられない。これはこの力を持って生まれた人にしか分からない気持ちなんだと思う。死ぬのは怖いけど、私はね……」


 波の音が鼓膜に触れる。岩を打ち付ける音が次第に強くなっている気がした。


「今、最高に幸せな思い出と最高に幸せな気分を抱いたまま死にたいんだ。ほんとは誰にも何も言わずに消えようかとも思った。でも、それだときっと皆は私のことを忘れられないでしょう? まだ、どこかで私が生きているじゃないかって希望を抱いてしまう。まあ綺麗事を抜きにしたら、私自身最後に皆の顔を見たかってっていうのが一番かも。これは、私の最後のわがまま」


 海月は笑った。瑠璃色の空とその笑顔が重なりあって、一つの絵画をみているかのような気分だった。


「響、お前もなんとか言えよ!!何でさっきから黙ってんだよ!」


 拓馬の怒鳴り声は、波の音に搔き消されそうになる程に小さく聞こえた。


 僕は海月が好きだ。

 人生でこれ以上に人を想うことはないと、十六年しか生きてない僕でも分かる。海月の全てが好きなんだ。だから、だからこそ、僕は海月の幸せを望む。たとえ、それが倫理に反していようとも、誰かに叱責されようとも、僕は海月に幸せでいて欲しいんだ。


 それが僕の導き出した答えだ。


 だから。


「海月……もう行ってもいいんだよ」


 僕はこの言葉を口にした。途端に二人からの強い視線を感じたが、それでも僕は続ける。


「だってこれが君の望みなんだろ?海月の幸せに繋がるなら僕は笑顔で送り出すよ。その代わり、いつか……いつか僕が、そっちに行ったら僕と付きあってくれますか?」


 これが僕の本心だ。本心のはずなのに、言葉を吐き出す程に涙がとめどなく溢れた。


「当然でしょ?まあでもその時に響に好きな人が出来てなかったらね」


 海月は笑った。屈託もない溢れんばかりの笑顔を僕に向けた。するりと、耳から落ちた髪をかけ直しながら続ける。


「響、私との約束ちゃんと覚えててくれたんだね、ありがとう。響だけは絶対分かってくれるって思ってた。二人もいつか私のしたことの意味が分かってくれたら嬉しいな」


 そう、僕は花火大会のあの日、海月と約束をした。


 ──私が望むことは、たとえどんなことでも尊重して欲しいの。


 あの時は、海月が口にした言葉の意味を全く理解することが出来ていなかった。でも、海月の抱えていた苦悩や悲しみを知るにつれ、あの言葉が持つ本当の意味を僕は考えるようになった。


 そして、僕は海月がたとえどんなことを望んでいたとしても、それが海月の幸せへと繋がるなら尊重してあげようとも思った。


 海月は満足気な笑みを浮かべると海の方へと身体を向けた。スカートから伸びた足が一歩前へと進む度に、砂が擦れる音が、僕らの啜り泣く声が大きくなっていく。


「海月……やめて」

「頼むから考え直せ」


 たった数ヶ月だった。

 でも、その間に過ごした日々はそれまでの人生のどんな毎日よりも光輝き、幸せだった。


 海月との距離が離れていく度に、走馬灯のように頭の中を記憶が駆け巡っていく。海月の笑った顔が、泣いた顔が、瑠璃色の空と重なった。


 切り立った崖の手前で海月は足を止めると、今までにみせたこともない程の笑みを浮かべた。


 僕は、それに返すかのように言葉は紡がず、今の自分に出来る中で最高の笑みを浮かべた。


「私ね、最近おもったことがあるの。天国は、きっとそう遠くない場所にある。だから、いつかみんなとまた会える気がするの。みんなと出会えて本当に良かった! 沢山の贈り物をありがとう」


 もうこれで最後なのか?

 離れていく気がした。手の届かないどこかへ。


「海月……!愛してる!!ずっと、ずっと愛してるから!」


 今言わなければ、今気持ちを伝えなければ、僕は一生後悔する気がして、気付いた時には口から溢れていた。


「私もだよ響、ずっと愛してる!、それじゃあね。みんな、また会おうね」


 海月はそう口にしたあと微笑んだ。

 柔らかな、何もかも吹っ切れたような表情を浮かべて。


 そして僕たちに背を向けると両手を広げ、鳥のように飛んだ。


 制服が揺らめいて崖の上から一瞬浮かび上がったかのようにみえたのも束の間、吸い込まれるようにして僕たちの視界から消え去った。


 そして、数秒後には波の立つ音が鼓膜を震わせた。


 時が止まった気がした。 

 心臓が跳ねるように動き、息を吸うことすら出来ない。僕は、ただ呆然とさっきまで海月がいたその場所をみつめる。


「いやぁぁぁぁ……。海月、そんな……いや、いやぁぁぁ」


 静香の泣き叫ぶ声が聞こえたのが最後、僕の世界から音が消えた。頭がぼぅっとする。瞼に力が入らなくなってきた。


 うっすらと開けた視界の先では、静香が這うように崖の方へと近付き、拓馬がそれを必死に抑えてる。静香の顔はぐしゃぐしゃに歪み身体が震えてる。いや、拓馬もそうだ。必死に静香の身体を抑えてはいるが、その手は震えてる。だが、静香の目を見て何かを必死に訴えかけてるようだった。


 海月が死んだ。

 海月はもう居ない。


 その事実が僕の中を埋め尽くしていく度に、どうやら五感全てを奪っていくようだ。


 今度は目の前が真っ暗になった。


 もう、何もみえない。


 僕は少しずつ遠くなっていく意識にそのまま身体を預けようとした。


 その時だった。

 左の頬にとてつもない衝撃が走り、火花が散った。僕は受け身を取ることすら出来ず、後ろ向きにひっくり返ってしまう。遅れて左頬に激痛が走り、思わず目を開けた。


 目の前には、ぐしゃぐしゃに顔を歪めた拓馬がいた。肩から伸びた左手は僕の胸元を掴み、馬乗りになるように僕はのしかかられていた。


「何で……だ。何で、なんで海月を止めなかった!お前の声なら届いたかもしれないのに……」


 拓馬の声が聞こえた。

 ぼんやりと、水の中で声を発しているかのように遠のいて聞こえたが、確かに聞こえた。


 拓馬の頬から伝った涙が、僕の頬で弾けて、散った。


「どうしてだ!!」


 振りかざされた右手が、再び僕の頬を撃ち抜いた。痛みと共に口の中に血の味が広がり、ぼんやりとしていた頭が少しずつはっきりとしていく。何故、僕が拓馬に殴られたのかようやく理解することが出来た。そうか、僕は二人とした約束を破ったんだ。


「……ごめん」


 ぽつりと呟くと、拓馬は大きく目を見開いた。右手を振りかざした瞬間、僕は目を閉じる。


 殴られて当然だ。

 僕は二人との約束を破ったのだから。

 海月の望みを叶える為に。

 海月の幸せを望む為に。


「もうやめてよ!!こんなこと……海月が望んでると思う?」 


 静香の声が鼓膜に触れて瞼を開けると、拓馬の振りかざした右手を静香が必死に抑えていた。目を赤く腫らして。その表情は悲しみに満ちていた。


 拓馬の右手がゆっくりと降りていく。力無く落ちた拳が開けた。僕は二人の顔を見上げるようにしてみつめ、ようやく自分のしたことに罪悪感を覚え、胸が張り裂けそうになる。


 海月を送り出したことに後悔はしていない。それが海月の望みだったから。僕は約束をしたからだ。


 だが、二人にそれは関係ない。

 そうか、僕は二人から海月を奪ってしまったのか。


 そう思った瞬間、声にならない唸り声のようなものが喉から放たれ、目の中が涙で一杯になった。溢れた涙は頬を伝い、地を湿らせた。


「拓馬、静……香、ごめん。本当に、ごめん。許してくれ、僕を……許してくれ」


 罪を嘆くかのようにぽつりとぽつりと呟き続けた僕の顔を、燃えたぎるような光が照らした。


 それは、新たな一日の始まりを告げるのと同時に、あまりにも長過ぎた一日の終わりを告げるものだった。 


 

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