第一話
僕は今、世界で一番幸せかもしれない。目が覚めてから、カーテンから溢れた陽のひかりをみながらそう思った。日付けが変わっても昨日の事を頭に思い浮かべただけで自然と頬が緩んでしまう。枕の下に手を差し込み、手にした携帯に指を滑らせる。時刻は正午を回った頃だった。
LINEのアプリを開き、拓馬と静香、それから海月にお祝いをしてもらったことに対してのお礼をそれぞれ個別に送った。すぐに返信があり、画面には『新着メッセージが2件あります。』と表示されている。開いてみるとそれは静香と拓馬からの返信だった。海月からの返信はまだない。普段から二時間くらい返信がこない時はあったので、僕は鳴り始めたお腹を満たす為に返信を待つ間に朝食をとることにした。
「おはよう。ご飯出来てるからぱっと食べちゃいなさい」
一階のリビングに降りると母はカップを片手に机の上にあるお皿に一度視線を送り、それから僕へと流した。丸皿の上にはベーコンエッグとフレンチトーストが載せられている。僕は椅子に腰を下ろすなり、フォークとナイフを使って次々にそれを口に運んだ。ベーコンエッグにはケチャップをかけた。トマトの酸味とフレンチトーストの甘みが口の中で溶け合うとより美味しく感じられた。
テレビの向こうでは、男性のアナウンサーが安楽死法案が可決されると日本ではどのような変化が起こり得るのかという説明を、電子パネルを用いながら事細かくしている。真剣な表情で聞き入っていた経済アナリストだという男性にそのアナウンサーが意見を求めると、恐らく次の国会でその法案に対する採決が取られ、今の政界の動きや既にその法を導入している世界各国の動きから推察するに日本も賛成多数により可決されるだろうと話していた。コマーシャルに入った頃には僕は食事を終えており、食べ終えた食器をシンクへと運んだ。今日はどこかにいくの?と母に問い掛けられ、まだ決まってないよ、とそれから他愛もない話をしていると、女性のアナウンサーの「午後のニュースをお伝えいたします。まずは速報からです」と輪郭のくっきりとした声が僕たちの部屋の中へと放たれた。
「たった今入った情報によりますと、以前から行方不明になっていた五歳の女児が無事に保護された模様です。繰り返します。女児は、県外にある自称無職の男の自宅で見つかりました。女児にけがはないとのことです」
聞き入っていると、「あら、この女の子見つかったのね、良かった。誘拐された可能性があるってニュースでやってたけど本当に誘拐だったんだ。恐ろしいことするわね」と母がぽつりと呟く。僕は、そうなんだ、という言葉を声にのせようとしたが、映し出された女の子の写真をみて気付いた時には「えっ」と声にもならないようなものを溢していた。
「響、どうしたの? この子のこと知ってるの?」
「お母さん、ちょっと静かにして!」
問い掛けてきた母の言葉を即座に遮り、ニュースを読み上げる女性の声に耳を傾けた。
「警察によりますと、男に連れられて女児が家に入っていく所を見かけたという匿名の通報があり、男の自宅にいるところを地元の警察が見つけたということです。女の子は、母親が目を離した隙に自宅の傍にある公園から行方不明になっており、警察が行方を捜索していました。女の子に怪我はないとのことです。では、次のニュースです」
女性のアナウンサーは、既に次のニュースを読み上げていたが、僕の耳にはほとんど届いていなかった。テレビに映し出されたあの女の子には見覚えがあった。勿論、僕が五歳の女の子と友達な訳がないし、ただすれ違っただけなら翌日には忘れてしまっていただろう。でも、とあの日のことを思い浮かべた。海月と二人で水族館に行った日、あの子は駐車場へと飛び出していき、そのことがきっかけであの子の母親に海月が詰めよっていった。それは僕の脳内に強烈な記憶として残したのかもしれない。だからテレビにあの女の子の顔が映し出された瞬間、一瞬にして気付くことが出来たのだろう。
「……匿名の通報」
言いながら、僕は海月の姿を思い浮かべていた。何故かは分からない。けれど妙に確信めいたものがあったのだ。女性のアナウンサーは、あの女の子は県外で発見されたと言っていた。という事はその匿名で電話でかけた者も県外にいたという事になる。
「……海月」
素早くポケットに手を入れ、取り出した携帯に指を滑らせた。海月からの返信はまだないようだった。返事がきたらその時に聞いてみよう。
──誘拐された女の子のいる場所を通報したのは海月?
──どうして県外にいたの?
聞きたい事はまだまだ沢山ある。母には「また今度話すよ。ごちそうさま」とだけ告げて再び自分の部屋へと戻った。
夢の中へと堕ちていた意識が現実に舞い戻ったのは、近くで物音がしたからだった。時間潰しにベッドで横になりながら漫画を読んでいると、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。部屋の中はすっかり夜が満ちていて、まだはっきりとしない意識の中で手探りで携帯を探しあてた。
手にした携帯の画面には19時30分と時刻が表示されており、五時間近くも昼寝をしてしまったことを知る。昨日は楽しさが勝り全く疲れを感じなかったが、一日中、陽の下にいたせいで身体には疲れが残っていたのかもしれない。手探りでスイッチを探し部屋の電気をつけると、ベッド脇には寝る寸前まで読んでいた漫画が落ちていた。物音の原因がやっと分かった。
まだ眠い目を擦りながら部屋の中に視線を彷徨わせている時、はっとした。さっきは何も考えずに携帯を開き時刻を確認したが新着メッセージは未だに届いていなかった。つまり、海月からの返事はまだないということだ。
一体どうしたのだろう?
今までにこんなに長く間隔が空いたことはない。言いようのない胸騒ぎがふつふつと湧きあがってきた。湧き上がるそれを宥めようと、僕は考え得る全ての可能性を頭の中に並べた。もしかしたら友人や家族と過ごしているのかもしれないし、本当に海月があの匿名の通報者だとしたら警察に事情を聞かれているのかもしれない。連絡を取れない理由がきっとあるのだろう。
自分にそう言い聞かせるようにして、長い夜を過ごし、この日は再び眠りについた。
だが、翌朝になっても海月からの返信はなかった。
窓の向こうでは強い光が降り注ぎ、僕の心の中とは裏腹に澄み切った綺麗な空が広がっていた。
これで連絡が取れなくなってから約二十四時間が経った。花火大会の帰り道、自宅まで送った際には元気そうにみえたが、もしかしたら体調でも崩しているのだろうか?
心配で居ても立っても居られなくなった僕は、一度自宅まで様子を見に行くことに決めた。一応、壁に掛けられた時計が午前十時を過ぎるのを待って家をあとにした。あまり早い時間に押し掛けても、海月の親御さんに煙たがられてしまうかもしれないと思ったからだ。もう一度携帯に指を滑らせる。海月からの返信は変わらずなかった。




