第十七話
「いやートイレが混んでてさ、遅くなっちまった。」
二人が戻ってきたのは、それから程なくしてからのことだった。
今でも唇に手を添えると、海月の唇の感触が蘇ってくる。今日、僕は人生で初めてキスをした。その相手がずっと想いを寄せていた海月だという現実が僕の顔を自然と緩める。
「なんだ?ニヤニヤして。なんかあったか?」
「あっもしかして私達がいない間にキスしちゃったりした?」
追及するかのような眼差しで僕たちを交互に見やった二人は顔を見合わせて笑い出す。
「ほんと分かりやすいなお前ら。もう答えなくていいよ、聞かなくても分かったから。」
この二人は何でこんなに勘がするどいんだ。いや、もしかしたら僕が分かりやす過ぎるのかもしれないが。
海月も顔を伏せて、心做しか頬を赤らめているように感じた。
「隠さなくてもいいのに、実は私達も報告があります。」
突然ブルーシートから立ち上がった静香を驚いた顔で拓馬がみつめてる。
「お…おい。今言うのかよ。」
「別にいいでしょ?二人は私にとって親友だし、近い内に言わないとねってこないだ話したじゃん。」
「まあ…そうだな。」
静香に窘められ後頭部を掻きながら拓馬はどこか照れ臭そうにしている。僕は何の話か分からず首を傾げていると、夜を照らすような明るい声が放たれた。
「実は私と拓馬は先週から付き合うことになりました!」
静香はブルーシートの上であぐらをかいていた拓馬の頭を、まるでボールをバウンドさせるかのようにリズムよく叩く。
二人が付き合った?
好意を抱いている素振りなんて今まで感じたこともなかったのに。
でも、驚きと同時に喜びが込み上げてきた。
「まじかよ!ほんとにおめでとう!」
二人に向けて笑みを溢しながら、僕は言った。
「やっと?いつ付きあうのかなってこっちがやきもきしてたよ。でも、おめでとう!」
海月は左右の手のひらを空に向けて呆れるような仕草をみせる。言葉通りの意味なら海月は気付いていたのだろうか。
僕には全く分からなかったのに。
「海月は気付いてたの?」
「当たり前でしょ。たぶん目の前で二人の空気感みてて気付かないのは響だけだよ。」
あっけらかんと放たれた海月の言葉に二人が声をあげて笑い出し、僕も海月もそれにつられるように笑った。
夜が溶け落ち喧騒に包まれる中、僕たちは自分たちの世界を作り上げた。四人でいるから生まれる空気感、四人でいるからこそ生まれる幸せが、ここにはある。
もし、大人になった時もこのままの関係ならと遠い未来のことを考えた。時が止まることなく流れ続けるなら、身の回りの環境が変わり続けるなら、せめて僕たちだけでも変わらずにいよう。その思いをひっそりと胸に仕舞い夜空を見上げた。
刹那、口笛のような甲高い音が鼓膜を震わせる。音を辿るようにして視線を彷徨わると、直線上に伸びた光が天高く伸びていった。
内臓まで轟く程の炸裂音が追いかけるようにしてそれに続き、夜空に花が咲いた。中心部から外側に向かって惜しげもなく広げられた花弁がふわりと咲いて、散り散りになりながら深い闇の中へと消えていく。
「こりゃ凄いや!」
「わぁ、綺麗。」
口々に漏れた僕たちの声はすぐに掻き消され、続けざまに二つの真っ赤な大輪が夜空に咲いた。
湧き上がる歓声。空から降り注ぐ硝煙の匂いに、屋台と夏の香りが入り混じる。そのどれもが非日常な空間を演出し、別の世界線にきたかのような錯覚を覚える。
振り返ればすぐそこにあるはずの記憶は、遠い昔のように感じる。退屈な日々を過ごす中、生きる意味を見出すことの方が難しいと感じたあの頃の僕はもういない。
ブルーシートの上についた手を彷徨わせると、ひんやりとした感触に触れた。僕はその上にそっと手のひらを被せ、隣に座る海月に視線を送る。透き通るような白い肌が赤く照らされたあと、青から黄へと空の色に染められていた。僕の視線に気付くと、海月は口元の両端をそっと持ち上げる。
とくんと跳ねた心臓と共に感情が高まって、少しだけ、ほんの少しだけ、そっと被せた海月の手に力を入れた。淡く、柔らかな風が、海月の髪を撫でるように吹き抜けていく。僕は、少しの間その美しい情景にみとれてしまっていた。
歓声が大きくなったことで再び空に目をやると、先程までとは比べものにならない程の大輪が咲き乱れていた。次々と夜空に花が咲き、少し遅れて炸裂音が身体の中にまで響き渡る。
花が咲いて散るまでは、時間にして数秒だった。だが、途絶えることのないその連鎖は息を呑む程に美しかった。
春が地上の草木や花々に生命の息吹を吹き込むならば、夏の淡い風は天空に咲く花に吹き込むのだろうかと、思った。
初めの内は、感嘆の溜息と共に声を溢していた僕たちはいつしか口を閉ざし、ただ空に咲き乱れる花々に見とれていた。
かけがえのないのない仲間たちに囲まれて、願わくば時が止まって欲しいと思う程に幸せな時間は無情にも一瞬で溶けていった。
*
楽しい時間は一瞬だという言葉を作った人は、きっと僕と同じ気持ちに至りその言葉を作ったのだろう。もどかしさに駆られ、過ぎ去ってしまった瞬間の記憶に手を伸ばす。望めば望むほどに、時が経てば経つほどに遠くなるその瞬間に、置いていかないでと心の中で叫び声をあげる。人生とはそういうものなのだろうと今なら分かる。
この日は人生で最高の誕生日だった。
五年の月日が流れた今でも人生で最も幸せを感じた一日であることに変わりはない。
きっとそれは、僕が僕である限り変わることのない恒常的なものなのだろう。
でも、変わるものもある。
起きてしまった現実に目を瞑ろうとも、夢であって欲しいと切に願おうとも、ひと度変化が生じた現実は二度と変えられない。
白い絵の具にたとえ一滴でも黒い絵の具を落としてしまえば、もう二度と純白を作り出すことが出来ないのと同じように。
なぁ海月、君は今どんな空をみてるんだ?




