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くらげの足跡は瑠璃色の空へと続く。  作者: 深海かや
第一章 出会いの日。赤く、流れて。
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第九話

 瞼を薄く開くと、溺れるくらいのひかりに満ちた朝があった。カーテンの隙間から溢れた初夏の陽光が、僕の胸元から顔にかけてを強く照らしてる。寝る前にクーラーは付けていたはずだったけれど、陽の光を浴びて体温が上がったのか寝間着に使っているシャツは汗で張り付いていた。携帯のアラームが鳴るより先に目を覚めしたのは、それが原因だった。


 一階まで降りると、既に母が朝食の用意をしてくれていて、テーブルの上には既にトーストとサラダが並べられていた。


 僕のことをちらりと見た母は、「ご飯もうすぐ出来るから早く座りなさい」と言ってテーブルに視線を送る。僕は先にシャワーを浴びると母に告げ、急いでお風呂場へと直行した。時間もないので水でさっと身体だけを洗い流し、身支度を一通り終わらせてからテーブルへと戻った。白い丸皿が一つ増えている。先程のメニューにスクランブルエッグとソーセージが追加されていた。


 椅子に腰を下ろしたあと、フォークでスクランブルエッグを掬い上げトーストと一緒に口に運ぶ。向かいに座る母は、コーヒーを啜りながら携帯に指を滑らせている。咀嚼音に混じって、テレビから放たれた罵声のようなものが鼓膜に触れる。


 テレビの向こうでは、国会議事堂を背景にマイクを手にしているお姉さんが、目の前で起きている事象を的確に言葉にしながら伝えてる。その女性を取り囲むようにしてプラカードや何かを書いた紙を手にしている人たちは「安楽死法案反対っ!」と国会議事堂に向かって声をあげている。僕がトーストを咀嚼しながらぼぅっとそれを見ていると、「大変な事になってるわね」と母がぽつりと呟く。いつの間にか携帯からテレビへと視線を滑らせていた。


「響はどう思う?」


 答えを求めるその眼差しから逃れるようにお皿に残されていたスクランブルエッグをかき込んだ。分からない、それだけを声にした。母は、そう、と言って再び携帯に目をやった。安楽死法案。その法案が可決されるか否かは今や日本中が注目している。十八歳以上の男女であれば、それを希望するものと近親者による署名のみで薬剤投与により苦しむことなくこの世を離れることが出来るらしい。既に欧米諸国ではその法案は可決されており、年間数万人の人たちがこの世を離れていく。


 日本も導入するべきだという声が強くなってきたのは、この二、三年のことだった。だが、それに反対する声も勿論ある。


──生への冒涜だ。

──そんな法案を通そうとすること自体が悪魔の所業だ。


 テレビの向こうでデモ活動をしている人たちも似たようなことを言っている。僕は賛成でも反対でも無かった。そのどちらの気持ちが理解出来るからだ。生を授かり、この世に生まれてきたのだから、親に感謝し生を全うするべきだ。それは理解出来る。でも反対に、望んで生を授かった人などいないはずだ。生まれてくることすら選べなかったのだから死ぬ時くらい自分で決めたい。賛成派の人たちは皆等しくそのようなことを言うが、僕にもその気持ちが理解出来た。それを実行に移していないだけなのだ。でも、今この瞬間だってそれを実行に移している人たちはいる。昨日の、海月のように。


 答えのでない問題を頭の中で必死に解こうとしていたせいか、目が覚めたばかりなのに少し疲れた。手にしていたフォークを置いた。食器が鳴る。母が顔をあげたのはそんな時だった。


「あっそうだ。お母さん今日は練習があって遅くなるから一応カレーは作っておくけど、ちゃんとサラダも食べるのよ?」

「分かったよ」


 僕は蚊の鳴くような声でぽつりと言った。


 母は今年の春からチェロ奏者としての活動を始めた。僕が生まれる前は本気でプロを目指していたが、子育てを優先する為に一度は志半ばで夢を諦めたらしい。だが、そんな母が再び夢を掴もうと決意したのは今年の初めのことだった。僕の入学する高校が決まった日、母は自分のことのように喜んでくれていた。


──響、言ったでしょ? 努力は裏切らない。費やした時間も、それにかけた想いも、無駄にはならないの。よく頑張ったね。


 そう言ってから僕の頭を優しく撫でると、朗らかな春の木漏れ日みたいな笑顔を向けてきた。その一連の流れをみていた父が、母にこう言った。


──響も高校生になるってことは自分で考えて人生を歩める年だ。子育ては落ち着いたことだし、母さんもまた夢を追いかけてもいいんじゃないか?


 あまりにも唐突の発言だった為に、少しの間母は固まっていた。でも、次第にその言葉が心に染み渡ったのか「ありがとう。……ありがとう」と言って何度も父に頭をさげていた。


 目を潤ませた母をみて、僕ももらい泣きしてしまったことを覚えてる。


 あの時は、心から応援しようと思った。いや、今だって応援はしてる。ただ、夢に向かって真っ直ぐに歩む母の姿は僕にはあまりにも眩すぎて、時々目を背けたくなる。僕には、何もないからだ。将来したい仕事も、やりたいことも、何一つ。遠い未来の目標を描けないのは、今日一日ですら描けないからだろう。いつからか虚無感で満ちたこの胸の内をどう処理していいのかすら分からなくなっていた。何をしても楽しくなかった。感情に大きな波を伴うことがないのだ。表面上では笑っているけど、心の奥底にある心根のところは常に乾いていて、ふとした時に自分を俯瞰でみるとそんな風に冷めた自分を嫌いになりそうになる。心が引き裂かれるような辛い思いや悲しい思いをした訳ではないし、家族にだって恵まれている。なのに、それなのに、この拭い去ることの出来ない虚無感は一体何なんだといつも考えていた。


「ちょっと、響聞いてるの?お父さんも遅くなるみたいだし、戸締まりもちゃんとするのよ」

「うん、分かったよ。じゃあ練習頑張って」

 

 シンクへ食べ終えた食器を運び、その足で玄関へと続く扉を開けた。

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