第1話 「ゴミ拾い令嬢」の合理的判断
王宮の大広間を彩るシャンデリアの輝きは、確かに美しいものでした。
でも、私にはどうしても気になってしまうのです。
その光を受けて煌めくはずの、騎士団長ジェラルド様の腰の剣。
鞘の鯉口部分に、微細な金属疲労の予兆である赤錆の粒子が浮いています。
(ああ、もったいない……。あと三日放置したら、刀身にまで浸食してしまうのに)
私がうずうずとした気持ちで、ドレスのポケットの中にある「携帯用研磨布」を握りしめていると、突然、音楽が止まりました。
ダンスの輪が割れ、その中心でジェラルド様が私を指差しています。
「リリア・アークライト! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄とする!」
広間がしんと静まり返りました。
ジェラルド様の隣には、白く豪奢なドレスを纏った女性が寄り添っています。この国の聖女、ミア様です。彼女は扇子で口元を隠しながら、冷ややかな視線を私に向けました。
「当然ですわね。神聖な夜会にまで、泥のついたゴミを持ち込むような方が、騎士団長の妻になれるはずもありませんもの」
ミア様の言葉に、周囲の貴族たちからも失笑が漏れます。
「ああ、噂の『ゴミ拾い令嬢』か」
「いつも変な石ころを拾っているらしいぞ」
「貧乏くさいこと」
嘲笑がさざ波のように広がっていきます。
私はゆっくりと瞬きをして、ジェラルド様の顔を見上げました。
彼は勝ち誇ったように胸を張り、私が泣き崩れるのを待っているようです。
……どうしましょう。
笑いが止まらなくなりそうです。
(婚約破棄、ですって?)
私は必死に口角が上がるのを抑え、伏し目がちに震えるふりをしました。
これは、千載一遇のチャンスです。
我がアークライト家は、代々騎士団への武具素材の提供を義務付けられてきました。しかも、ジェラルド様との婚約により、ここ数年は「未来の妻の務め」として、最高級素材を無償で献上させられていたのです。
おかげで実家の財政は火の車。
貴重な素材をタダ同然で持っていかれるたび、私の心臓は引き裂かれるような思いでした。
それが、破棄?
もう、あの方のために貴重な「ワイバーンの油」も「ミスリルの粉末」も無駄にしなくていいのですか?
「……ジェラルド様。それは、本気でございますか?」
震える声を作って問い返すと、ジェラルド様は鼻を鳴らしました。
「くどい! ミアのような清廉な女性こそが、俺の隣にふさわしい。貴様のような薄汚い女は、視界に入るだけで不愉快なのだ」
不愉快。
はい、そのお言葉、しっかりと頂きました。
公衆の面前での一方的な婚約破棄。しかも、私には貞操に関する瑕疵も、法的な落ち度もありません。
つまりこれは、アークライト家側が圧倒的に有利な条件での契約解除となります。
私はすっと顔を上げました。
できるだけ悲痛な、しかし気丈な令嬢の仮面を被って。
「承知いたしました。ジェラルド様がそこまで仰るのでしたら、私が身を引くしかございません」
「ふん、やっと理解したか」
「つきましては、婚約解消に伴う慰謝料の手続きをお願いしたく存じます。我が家の長年の奉仕に対する精算も含め、こちらの小切手にサインをいただけますか?」
私はドレスの胸元から、あらかじめ用意していた書類とペンを取り出しました。
いつかこの日が来るかもしれないと、常に持ち歩いていたのです。
ジェラルド様が目を丸くします。
「な……貴様、準備していたのか?」
「いいえ、まさか。ただ、騎士団長たるもの、別れ際も潔くなさるべきかと」
周囲の視線があります。
彼は「金に汚い女め」と吐き捨てると、乱暴に小切手にサインをして私に投げつけました。
金額は、私が想定していた退職金の三倍。
これで実家の借金を返しても、まだお釣りが来ます。向こう十年は遊んで暮らせる額です。
私はひらりと舞った小切手を空中で掴み取り、丁寧に折りたたんで懐にしまいました。
「確かに。では、これにて失礼いたします」
「待て!」
踵を返そうとした私に、ジェラルド様が怒鳴ります。
彼は私がもっと縋り付いてくるとでも思っていたのでしょうか。顔を真っ赤にして、私を指差しました。
「手切れ金を持ったまま、のうのうと帰れると思うなよ。アークライト家の馬車は使わせん。この会場からも、着の身着のままで出て行け!」
「……着の身着のままで、ですか?」
「そうだ! 屋敷にある貴様の荷物も全て処分する。二度と俺の前に顔を見せるな!」
それはつまり、今私が身につけているもの以外、すべて没収という意味でしょう。
普通なら絶望する場面かもしれません。
でも、私は思わず、ポケットの上から「ある物」をそっと撫でました。
ゴツゴツとした、硬い感触。
今朝、庭の隅で見つけたばかりの、泥だらけの黒い塊。
ジェラルド様やミア様が見れば、ただの汚い石ころと言うでしょう。鑑定レンズを通しても、きっと「測定不能」としか表示されません。
でも、私には見えています。
その泥の奥で、虹色に渦巻く膨大な魔力の奔流が。
(一番大切なものは、もう持っていますから)
屋敷に残してきたドレスや宝石なんて、これに比べればガラス玉のようなものです。
Sランク素材「ドラゴンの瞳」。
市場に出れば、小国なら一つ買えるほどの国宝級アイテム。
これさえあれば、私はどこでだって生きていけます。
「承知いたしました。皆様、お騒がせして申し訳ございません」
私は完璧なカーテシーを披露しました。
顔を上げた瞬間、聖女ミア様が眉をひそめたのが見えます。私の表情が、ちっとも絶望していなかったからかもしれません。
大広間の重い扉を背中で閉めると、夜の冷気が頬を撫でました。
王宮の外は真っ暗です。馬車もありません。
石畳の道を歩き出しながら、私は大きく息を吸い込みました。
「……あー、せいせいしました!」
夜空に向かって、思い切り声を上げます。
もう、誰にも文句を言われずに素材を拾えます。
あの錆びかけた剣を見るたびに感じていたストレスも、貴重な素材を無駄使いされる胃の痛みも、これでおしまいです。
私はポケットから、泥だらけの「石ころ」を取り出しました。
月明かりにかざすと、泥の隙間からエメラルドグリーンの光が微かに漏れています。まるで私を祝福してくれているようです。
「さあ、行きましょうか。まずはこの子の泥を落としてあげる場所を探さないと」
私はスキップ交じりの足取りで、王都の門へと向かいました。
目指すは東。
ギルドの掟が支配する、実力主義の辺境都市ベルフォートへ。
私の新しい人生の、始まりです。




