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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ハラスメント・ハラスメント

掲載日:2026/01/07

 原 スメ夫は、三十五歳の独身会社員だった。毎日、同じ時間に同じ駅から同じ電車に乗り、同じ会社で同じデスクに座り、同じような業務を繰り返す。朝の通勤ラッシュで肩がぶつかり合うのも、昼休みに弁当を食べるのも、残業で遅くなるのも、すべてが予測可能な範囲内だった。楽しくはないが、大きな不満もない。それが彼の人生のすべてだった。

 その日も、いつものように午後三時頃、コーヒーを淹れに給湯室へ向かう途中だった。隣の営業課のフロアが見渡せるオープンスペースを通りかかると、聞き慣れない怒鳴り声が響いていた。


「てめえ、こんなミスを繰り返すんじゃねえ! 会社に何しに来てんだよ!」


 声の主は、営業課の課長、佐藤だった。五十代半ばの頑丈な体躯で、部下に厳しいことで社内でも有名だった。怒鳴られているのは、若手の社員、名前は確か田中といったか。新卒二年目くらいの、細い体つきの男だ。スメ夫は足を止め、壁際に寄って様子を窺った。気の小さい性格の彼にとって、こういう場面はただただ怖い。心臓がどきどきと早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。それでも、好奇心か、あるいは同情か、聞き耳を立ててしまった。佐藤課長の説教は長かった。田中のミスは、クライアントへの提案書に重大な数字の誤りがあったらしい。課長の声は次第に大きくなり、唾が飛び散るほど熱を帯びていく。


 「責任取れるのかよ、お前! お前のせいで俺の評価が下がるんだぞ!」


 スメ夫は横目でちらちらと眺めていた。田中は俯き、肩を震わせている。すると突然、佐藤課長がデスク上のバインダーを掴み、田中の頰を思い切り叩いた。鈍い音がフロアに響く。スメ夫は息を呑んだ。あっけに取られているうちに、事態はさらにエスカレートした。課長はバインダーを投げ捨て、田中の胸倉を掴んで押し倒す。床に倒れた田中へ馬乗りになり、握り拳で顔面を殴り始めた。グーパンチの連打。最初は田中が弱々しく抵抗していたが、すぐに動かなくなった。血が飛び散り、鼻が潰れ、歯が折れる音がする。異常だった。明らかに異常だった。田中はもう息をしていない。


ー死んでいる。スメ夫はそう確信した。それなのに、周囲の反応がなかった。ワンフロアに三十人はいたはずだ。営業課の他のメンバー、総務の女性たち、隣の経理課の連中も、皆が黙々とパソコンに向かい、電話に応じ、書類をめくっている。誰一人として振り返らない。まるで何も起こっていないかのように。佐藤課長は、息を荒げながら立ち上がった。田中の死体を一瞥し、近くにあった台車を引き寄せる。死体を無造作に載せ、フロアの端にある倉庫の方へ運んでいった。十分ほどで戻ってくると、手を洗ったのか、ネクタイを直し、何事もなかったようにデスクに戻った。「次は誰だ、報告書出せよ」課長の声が普段通りに響く。スメ夫は震える足で給湯室へ逃げ込み、コーヒーなど淹れる気も失せて自分の席に戻った。心臓がまだ鳴り止まない。


 その日の残業は早めに切り上げ、いつもより三十分早い電車で帰宅した。頭の中が昼間の光景でいっぱいだ。田中の潰れた顔、血の臭い、誰も止めない周囲の無関心。あれは夢だったのか? いや、現実だ。現実なのに、誰も気にしない世界。家に着いたのは八時過ぎ。古いアパートの三階、六畳一間の狭い部屋。

 ポストを覗くと、郵便局の不在連絡票が入っていた。赤い紙片に、再配達依頼の電話番号が印刷されている。まだ九時までなら間に合う時間だ。スマホを取り出し、連絡先に電話した。自動音声が流れ、担当者につなぐまで数分待たされた。「九時前にはお届けできます」そう言われ、電話を切る。昼間の衝撃が忘れられず、食欲などないはずだったが、空腹は別物だ。キッチンでカップラーメンを作り、テーブルに座ってすすり始めた。

 麺を半分ほど食べた頃、玄関のチャイムが鳴った。郵便局への連絡をすっかり忘れていたが、ドアを開けると、そこに立っていたのは郵便局員だった。男は四十代半ばくらいか。標準的な郵便局の制服を着ている。濃紺のジャケットに、同色のズボン。肩には赤いラインが入り、胸ポケットには日本郵便のエンブレムが刺繍されている。首にはIDカードを下げたストラップ。帽子は赤い縁取りのキャップで、額に汗が少し浮かんでいる。手には黒いグローブをはめ、左手に簡易書留の封筒、右手に端末を持っていた。足元は黒い安全靴。全体に清潔だが、どこか機械的な印象を与える、典型的な公務員の装いだ。


 「あ、再配達お願いしてました」

 

 スメ夫が言うと、局員は無表情に頷き、封筒を差し出した。


 「簡易書留です。サインか印鑑をお願いします」


 押印を済ませると、局員は「ご利用ありがとうございます」と一礼し、そそくさと階段を下りていった。足音が遠ざかるのを確認してから、部屋に戻る。封筒は白く、無地のもの。差出人欄に、黒いゴシック体で「東京都ハラスメント委員会」と書かれていた。東京都ハラスメント委員会? なんだそれ。聞いたこともない。スメ夫は眉をひそめながら、封筒を破って開封した。中に入っていたのは、自動車免許証サイズのプラスチックカードだった。表面は青みがかった背景に、個人情報が印刷されている。上段に「原 スメ夫」と名前、生年月日。下段に住所。そして右側には、いつ撮ったのかわからないが、自分の顔写真。ぼんやりとした表情の、いつもの自分だ。ぱっと見、運転免許証とそっくりだ。だが、タイトル部分に大きく「ハラスメント免許証」と書かれている。さらに下の「条件」欄には、赤い文字で「セクシャルハラスメント」と記載されていた。「は?」スメ夫は目をこすった。見間違いかと思ったが、確かにそう書かれている。同封されていたA4の紙を取り出し、広げた。紙は厚手の公用紙で、角に東京都のマークが入っている。上部に「ハラスメント防止法に基づくハラスメント免許交付通知書」とタイトル。本文は、いかにも役所らしい堅苦しい文体で始まっていた。


 「平素より東京都の施策にご理解とご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。この度、ハラスメント防止法(平成〇〇年法律第〇〇号)第十二条に基づき、貴殿をハラスメント免許交付対象者と認定し、別紙ハラスメント免許証を交付いたします。本免許は、記載された条件の範囲内において、ハラスメント行為を適法に実施することを許可するものです。なお、無許可でのハラスメント行為は従来通り罰則の対象となりますので、ご留意ください。詳細につきましては、裏面の注意事項をご参照いただくか、下記担当部署までお問い合わせください。」


 以下に、担当部署:東京都福祉保健局ハラスメント対策課、電話番号が記載されていた。スメ夫の頭は混乱した。ハラスメント防止法? そんな法律があったか? いや、ニュースで何か聞いたような……でも、ハラスメントを許可する免許? しかもセクシャルハラスメント?わけがわからない。震える手で電話をかけると、数回のコールで繋がった。


 「東京都福祉保健局ハラスメント対策課でございます。お電話ありがとうございます。自動音声ガイダンスに従って、用件をお選びください。免許交付に関するお問い合わせは『1』を、更新に関するお問い合わせは『2』を……」


 自動音声が淡々と流れる。スメ夫は慌てて『1』を押した。すると、別の音声。


 「免許交付に関するお問い合わせですね。交付番号をお手元にご用意の上、『#』を押してください。」


 カードの裏に小さな番号があった。それを入力すると、ようやく人間の声が出た。


 「ハラスメント対策課、担当の鈴木でございます。お待たせいたしました。用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


 声は若い女性で、事務的だが丁寧だった。

 

 「あ、えっと……原スメ夫ですけど、今、免許証が届いて……これ、何なんですか?」

 「原様ですね。交付番号を確認させていただきます。少々お待ちください……はい、確認できました。原スメ夫様、セクシャルハラスメント条件の初回交付ですね。おめでとうございます。」

 「おめでとうって……いや、違いますよ。なんで俺がこんなものもらうんですか?」 

 「原様は、交付対象者の基準を満たしておりましたので、自動的に選定されました。基準につきましては、個人情報保護の観点からお答えしかねますが、ご安心ください。厳正な審査を経ております。」

 「基準って……俺、何もしてないですよ!」

 「審査基準はお答えできませんが、原様に免許証が交付されたのは事実でございます。」

 

 スメ夫は言葉を失った。昼間の課長の暴力が脳裏をよぎる。あの世界では、暴力は黙認され、ハラスメントは免許制?


 「ということはつまり……」

 「さようでございます。原様には記載内容のハラスメントを自由に行える免許が交付されました。行政上の責任は問われません。期間は無期限、更新不要です。ご不明点はございますか?」


 スメ夫は電話を握ったまま、固まった。スメ夫は言葉を失った。昼間の営業課での殺人めいた暴力が、誰も咎めないまま日常に溶け込んでいたこと。そして今、自分の手元に届いたこの奇妙な免許。世界のルールが、静かに、しかし確実に変わっているような気がした。


 「他にご質問はございますでしょうか?」

 

 鈴木の声が、事務的に締めくくりを促す。


 「……いや、いいです」

 「それでは、免許の有効活用をお祈り申し上げます。ご利用ありがとうございました。」

 

 電話が切れた後、スメ夫はしばらく受話器を握ったまま動けなかった。部屋の蛍光灯がチカチカと瞬き、壁の薄いシミが妙に目立つ。カップラーメンの残り香が、湿った空気に混じって鼻を突く。やがて、彼はゆっくりとスマホをテーブルに置き、ハラスメント免許証をもう一度手に取った。プラスチックの表面が、掌の汗で少し滑る。「条件:セクシャルハラスメント」。赤い文字が、まるで生きているように脈打っている気がした。役所の説明は曖昧だった。でも、言葉の裏側に隠された意味が、じわじわと伝わってくる。──記載されたカテゴリ内であれば、基本的に何をしても構わない。それが、この免許の本質なのではないか。スメ夫は立ち上がり、窓を開けた。1月の夜風が冷たく頰を打つ。下の通りは静かで、遠くでコンビニの自動ドアの音だけが響いている。頭の中で、鈴木という担当者の声がリフレインする。「行政上の責任を問われない」。つまり、この免許があれば、相手がどう感じようと、どんな被害を訴えようと、警察も会社も行政も、一切介入しない、ということだ。セクシャルハラスメント。それは、言葉なのか。視線なのか。触れることなのか。それとも、もっと先まで含むのか。スメ夫は自分の手を見つめた。三十五歳、独身。これまで女性とまともに付き合ったこともなければ、職場の同僚に声を掛けたこともほとんどない。気の小さい自分にとって、異性との距離は常に三メートル以上だった。でも今、その距離を詰める権利が、突然与えられた。しかも、拒否されることを恐れる必要はない。なぜなら、相手が「嫌だ」と言っても、それはもう「ハラスメント」として処理されないから。スメ夫の胸の奥で、何かがざわめき始めた。昼間の佐藤課長の暴力が脳裏をよぎる。あれはパワーハラスメント、あるいは身体的暴力だったのだろう。課長もきっと、何らかの免許を持っていたに違いない。そして周囲はそれを知っていたから、誰も止めなかった。この社会は、もうそういうルールで動いている。スメ夫は免許証を財布にしまった。プラスチックが二つ折りの革に収まる感触が、妙に重かった。


 翌朝。いつもの時間に起床し、いつもの電車に乗った。車内は混雑している。スーツ姿のサラリーマン、学生、OLたち。スメ夫は吊革に掴まり、ぼんやりと周囲を見回した。隣に立つ女性。二十代後半くらいか。黒いコートにマフラー、スマホを操作している。髪の毛から、ほのかにシャンプーの香りが漂ってくる。これまでなら、スメ夫は視線を逸らしていた。肩が触れそうになっても、慌てて体を縮こまらせていた。だが今日は違う。彼はゆっくりと視線を上げ、女性の横顔を観察した。細い鼻、薄い唇、少し疲れたような目の下のクマ。首筋の白い肌が、コートの隙間から覗いている。女性は気づかない。スマホに集中している。スメ夫は、少しだけ体を寄せた。肩が軽く触れる。普通ならすぐに離すところだが、今日はそのままにした。女性はわずかに眉をひそめたが、混雑している電車内ではよくあることだ。文句を言うほどのことではない。スメ夫の心臓が早鐘を打つ。でも、それは恐怖ではなく、別の感情だった。──これでいいんだ。──これが、許されている。電車が駅に着き、女性は人ごみに押されて降りていった。振り返ることなく。スメ夫は吊革を握ったまま、息を吐いた。手のひらが汗ばんでいる。会社に着くと、フロアはいつも通りだった。営業課の田中の席には、もう新しい社員が座っていた。若い男で、初々しい挨拶を周囲にしている。誰も、昨日ここで人が死んだことなど、話題にしない。佐藤課長は朝から大声で指示を飛ばしている。誰も咎めない。スメ夫は自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げた。隣の席の女性社員、加藤さん。三十歳くらいの、眼鏡をかけた地味なタイプ。これまでほとんど会話したことがない。


 「おはようございます」


 スメ夫は、いつもより少し大きな声で言った。加藤さんは少し驚いた顔で、「お、おはようございます」と返した。スメ夫は微笑んだ。財布の中のカードが、熱を持っているような気がした。昼休み。加藤さんが弁当を広げている。スメ夫は自分の席でカップコーヒーを飲みながら、彼女を観察する。


「加藤さん、いつも手作り弁当なんですね」


 突然声をかけると、加藤さんはびっくりしたように顔を上げた。

 

 「え、はい……まあ」

 「美味しそう。俺、料理できないから羨ましいな」


 スメ夫は立ち上がり、加藤さんのデスクに近づいた。少し身を乗り出すようにして、弁当を覗き込む。加藤さんは少し後ずさったが、デスクなので逃げ場がない。


 「えっと……普通ですけど」

 「いや、いい匂いするよ。これ、何の唐揚げ?」


 スメ夫はさらに近づき、加藤さんの肩越しに弁当を見た。息が、彼女の耳にかかる距離。加藤さんは明らかに動揺していた。頰が赤くなり、視線を逸らす。


 「ただの……市販の冷凍ですよ」

 「へえ。でも加藤さんが揚げたら、絶対美味いよね」


 スメ夫は笑った。そして、さりげなく手を伸ばし、加藤さんの肩に軽く触れた。


 「疲れてる? 肩、凝ってるみたいだよ」


 加藤さんはビクッと体を震わせ、すぐに立ち上がった。


 「あの、ちょっとトイレ……」


 逃げるように席を離れる。スメ夫は席に戻り、コーヒーを飲んだ。心臓がどきどきしている。でも、悪い気分ではない。誰も咎めない。加藤さんが上司に訴えたとしても、きっとこう言われるだろう。「原さんは免許を持ってるから、問題ありません」この世界のルールは、もう変わっている。午後の業務中、スメ夫はさらに一歩進めた。エレベーターで加藤さんと二人きりになった時、わざと体を寄せ、彼女の腰に軽く手を置いた。


 「すみません、狭くて」


 加藤さんは顔を真っ赤にし、唇を噛んで俯いた。エレベーターが開くと、ほとんど走るように出て行った。スメ夫は鏡に映る自分を見た。頰が上気している。目が、いつもより輝いている気がした。退勤時。加藤さんは早めに帰ったようだ。スメ夫は一人、フロアを歩きながら、別の女性社員に声を掛けた。総務の若い子。名前は知らない。


 「残業? 大変だね」


 軽く話しかけ、肩を叩く。相手は少し困惑したが、笑って返事した。帰りの電車でも、同じことを繰り返した。隣の女性の手に触れ、視線を送り、匂いを嗅ぐ。誰も止めない。誰も怒らない。家に帰り、風呂に入りながら、スメ夫は笑った。これが、免許の意味だ。カテゴリ内であれば、何をしてもいい。どこまでが「セクシャルハラスメント」の範囲なのか。それは、やってみなければわからない。でも、少なくとも今日のところは、すべてが許容された。スメ夫は布団に横になり、天井を見つめた。明日も会社だ。加藤さんは、どういう顔をするだろう。それとも、別の誰かにしようか。選択肢は、無限にある。この免許は、無期限だ。スメ夫はゆっくりと目を閉じた。夢の中で、彼は誰かを強く抱きしめていた。相手は抵抗せず、ただ受け入れている。世界は、静かに、しかし確実に、彼の味方をしている。


 スメ夫は布団の中で目を閉じたまま、ふと気づいた。──待てよ。昼間の営業課。あの佐藤課長は、田中を殴り殺した。明らかに殺人だ。血まみれの死体を台車で運び出した。あれはセクシャルハラスメントどころか、ただの暴力、ただの殺人。なのに、誰も止めなかった。警察は来なかった。上司は咎めなかった。翌朝には新しい社員が席に座っていた。あの課長は、きっと「パワーハラスメント免許」か、あるいはもっと上位の何かを持っていたのだろう。だが、たとえ持っていたとしても、殺人までが許されるはずがない。普通に考えれば。でも、現実は違う。あのフロアの三十人は、誰も動かなかった。まるで、あれが「日常の延長」であるかのように。役所の鈴木は言った。「行政上の責任を問われない」と。行政上。つまり、警察も、裁判所も、会社の人事も、一切介入しない、ということだ。殺人も含めて。佐藤課長の行為を見てみろ。あれは明らかに刑法違犯だ。なのに、何も起こっていない。この社会のルールは、もう完全に変わっている。ハラスメント免許は、単なる「許可証」ではない。それは、「完全なる免罪符」だ。記載されたカテゴリ内であれば、何をしてもいい。いや、カテゴリさえ合っていれば、程度は問われない。セクシャルハラスメントの名の下に、どこまでやっても、誰も咎めない。強姦だろうと、傷害だろうと、殺人に至るまで。スメ夫は布団から起き上がり、財布から免許証を取り出した。暗い部屋で、スマホのライトを当てて「条件」欄を照らす。「セクシャルハラスメント」ただそれだけ。役所の説明は曖昧だったが、現実はもっとシンプルだ。このカードを持っている限り、性的な動機・文脈があれば、どんな行為も許される。佐藤課長の場合、パワハラの文脈で殺人が許されたように。スメ夫の指が、カードの表面をなぞる。これまで三十五年、欲求を抑え、視線を逸らし、距離を取り、声をかけず、触れず、ただ怯えて生きてきた。そのすべてが、無駄だった。いや、無駄ではなく、ただ「免許」がなかっただけだ。今は違う。今は、持っている。スメ夫は立ち上がり、窓辺に寄った。外は深夜の住宅街。向かいのアパートの窓に、明かりが一つ残っている。カーテンの隙間から、若い女性のシルエットが見えた。パジャマ姿で、髪を乾かしているらしい。スメ夫は、じっとそれを見つめた。これまでなら、すぐに目を逸らしていた。だが今は、逸らさない。女性が気づくだろうか。気づいたとしても、何も言えない。なぜなら、この社会は、もうそういうルールだから。スメ夫は息を吐き、ゆっくりと笑った。明日から、本当に始めよう。加藤さんからか。それとも、もっと大胆に。電車の中で。街の中で。どこでもいい。この免許は、無期限だ。そして、限度はない。スメ夫はベッドに戻り、心地よい興奮に包まれながら、深い眠りに落ちた。夢の中で、彼は誰かを強く押し倒していた。相手は泣いていたが、誰も助けに来ない。世界は、ただ静かに見ているだけだった。


 スメ夫は翌朝、目覚めた瞬間から体が熱かった。布団の中で何度も免許証を確認し、財布にしまったそれを確かめるたび、胸の奥に黒い火が灯るのを感じた。これまで抑え込んできたものすべてが、堰を切ったように溢れ出そうとしていた。通勤電車。いつものように混雑した車内。スメ夫は吊革に掴まり、周囲を見回した。今日の標的は、すぐ隣に立つ女子大生風の女性。二十歳そこそこ、ポニーテールに白いニット。イヤホンを耳に差し、スマホで動画を見ている。スメ夫はゆっくりと体を寄せた。最初は肩が触れる程度。女性は気づかない。次に、腕を下げ、肘で彼女の胸の横を軽く押す。柔らかい感触。女性がわずかに体をよじったが、混雑のせいだと思い込んだらしい。スメ夫はさらに大胆になった。手を後ろに回し、スカートの裾に触れる。指先で生地を撫で、徐々に上へ。女性がハッとして顔を上げたが、スメ夫は無表情で前を向いている。目が合っても、ただ微笑むだけ。女性は慌てて次の駅で降りた。振り返って睨んだが、スメ夫は平然と吊革を握ったまま、次の獲物を探した。会社に着く頃には、もう三人に触れていた。誰も声を上げない。誰も助けを求めない。この世界は、もうそういう場所だ。オフィス。加藤さんはデスクに座っていた。昨日逃げ出した後遺症か、目が少し腫れている。スメ夫が近づくと、明らかに体を硬くした。


 「おはよう、加藤さん」

 「お、おはようございます……」


 スメ夫は彼女のデスクに腰をかけ、わざと膝が触れる位置に座った。


 「昨日、急にいなくなっちゃって心配したよ。体調悪かった?」

 「い、いえ……大丈夫です」


 加藤さんはパソコンに向き直ろうとしたが、スメ夫は手を伸ばし、彼女の肩を掴んだ。


 「ほら、凝ってるって言ったじゃん。マッサージしてあげるよ」

「い、いりません!」


 加藤さんが小声で拒否したが、スメ夫は構わず指を動かした。肩から首筋へ、耳の後ろへ。加藤さんの体が震える。周囲の社員たちは、誰も見ない。隣の席の男性さえ、ヘッドホンをして仕事に集中している。スメ夫はさらに手を下げ、ブラウス越しに胸の上部を撫でた。加藤さんが息を詰め、涙目になる。


 「やめて……ください……」

 「なんで? 気持ちいいだろ」


 スメ夫は耳元で囁き、指をブラウスのボタンに掛けた。一つ、外す。二つ目。加藤さんは立ち上がろうとしたが、スメ夫が腕を掴んで引き戻した。


「座ってて。仕事の邪魔しないから」


 その瞬間、加藤さんは諦めたように座り直した。抵抗をやめた。泣きながら、画面を見つめるだけ。スメ夫は満足げに手を離し、自分の席に戻った。加藤さんの嗚咽が小さく聞こえたが、すぐに止まった。この世界では、泣いても誰も来ない。昼休み。社員食堂で、スメ夫は総務の若い女性社員──名前は鈴木さんという──の隣に座った。新卒二年目くらいの、可愛らしい顔立ち。


 「一人? 一緒に食べようよ」


 強引にトレーを置き、向かい側に座る。鈴木さんは戸惑ったが、拒否できなかった。食事中、スメ夫は足を伸ばし、テーブルの下で彼女の膝に触れた。鈴木さんがビクッとする。


「足、絡まっちゃったね」


 笑いながら、さらに上へ。スカートの中へ。鈴木さんは顔を真っ赤にし、箸を持つ手が止まる。


「や……やめてください……」


 小声で言うが、スメ夫は無視して指を動かす。食堂は賑わっており、誰も気づかない。気づいていても、見ない。鈴木さんはトレーを置いて立ち去ろうとしたが、スメ夫が腕を掴んだ。


 「まだ食べてる途中だろ。座って」


 力強く引き戻す。鈴木さんは涙を浮かべながら、座り直した。食事が終わる頃、彼女のスカートは乱れ、太ももに赤い跡が残っていた。スメ夫は満足げにトレーを返却し、鈴木さんを残してフロアに戻った。


 午後の会議室。スメ夫は、取引先との打ち合わせに同席していた。相手は三十代の女性営業マン。スーツ姿で、知的で美しい。会議中、スメ夫はテーブルの下で足を伸ばし、彼女の脚に絡めた。女性が驚いて顔を上げたが、スメ夫は真面目な顔で資料を見ている。次第に足を上へ。ストッキング越しに太ももを撫で、さらには股間に近づける。女性は顔を強張らせ、声を上げられず、耐えるしかない。上司は気づいていても、何も言わない。取引は滞りなく進み、女性は震える手でサインした。会議後、女性はトイレに駆け込み、戻ってこなかった。スメ夫は名刺を眺めながら、笑った。


 退勤後の電車。今度は、制服姿の女子高生。詰め込んだ車内で、後ろから密着する。腰を押し付け、胸を掴む。スカートの中に手を入れ、下着に触れる。女子高生は恐怖で体を硬くし、小さく震えるだけ。助けを求める声も出せない。周囲の大人たちは、皆スマホを見ている。スメ夫は耳元で囁いた。


 「可愛いね。明日もこの電車乗る?」


 女子高生は首を振ったが、スメ夫はさらに深く手を進めた。駅に着くと、女子高生は人ごみに紛れて逃げた。スメ夫は次の車両に移り、新しい標的を探した。


 夜の帰宅途中のコンビニ。レジに立つアルバイトの女性。二十歳くらいの、ぽっちゃりした体型。会計の時、スメ夫はわざと手を伸ばし、彼女の胸に触れた。


 「すみません、手が当たっちゃって」


 笑いながら、もう一度触る。店員さんは顔を赤らめ、下を向くだけ。商品を袋に入れる間、スメ夫はカウンター越しに手を伸ばし、彼女の腰を撫でた。店内には他に客がいない。


 「可愛いね。ここ、いつもいるの?」


 店員さんは震える声で「はい……」と答えた。スメ夫は袋を受け取りながら、彼女の手を握りしめた。「また来るよ」家に帰ってから、スメ夫は日記のように今日の出来事を思い返した。加藤さん、鈴木さん、取引先の女性、女子高生、コンビニの店員、そして電車で触れた無数の女性たち。誰も止めなかった。誰も助けなかった。誰も、警察を呼ぼうとしなかった。この免許は、本当に「やり放題」だった。限度はない。明日も、明後日も、ずっと。スメ夫は風呂に入りながら、鏡に映る自分を見た。目が、ぎらぎらと輝いている。これが、本当の自分だ。抑え込まれていた本性。今、ようやく解放された。スメ夫は笑った。世界は、彼の遊び場になった。そして、遊びはまだ始まったばかりだ。


 翌日、スメ夫は少し遅れて会社に着いた。昨夜の興奮がまだ体に残り、電車の中でも二人の女性に手を伸ばしていたせいで、降りる駅を一つ乗り過ごしていた。フロアに入ると、いつもの喧騒。営業課の田中の席は、もう完全に新しい社員のものになっていた。誰も「あの後どうなった?」などと口にしない。スメ夫は自分のデスクに座る前に、コーヒーを淹れがてらフロアを一周した。観察するのが、最近の楽しみになっていたからだ。総務コーナーの近くで、目に入ったのはお局様の山崎さんだった。五十歳を過ぎた独身のベテラン社員で、声が大きく、部下に厳しいことで有名だ。今日も、明らかに臨月近い妊婦社員の佐々木さんを叱りつけていた。


 「ちょっと佐々木さん! この書類、こんなミスばっかりじゃない! お腹が大きいからって仕事の手を抜くんじゃないわよ!」


 山崎さんはファイルをバンッと佐々木さんのデスクに叩きつけ、続けて山のような資料を押し付けた。


 「これ、今日中に全部チェックしてコピーして。いい? 休憩なんか取ってる暇ないからね」


 佐々木さんはお腹を両手で支えながら、顔を真っ青にして頷くしかない。立ち上がるのもやっとの様子で、トイレに行くのも遠慮しているようだった。周囲の社員たちは、誰も口を挟まない。山崎さんが睨みを利かせているのもあるが、それ以上に「そういうものだ」という空気が漂っている。スメ夫はコーヒーカップを手に、遠くからそれを見ていた。おそらく山崎さんも、何らかの免許を持っているのだろう。マタニティハラスメント、あるいはパワーハラスメント。妊婦をこき使うことが、完全に許容されている証拠だ。佐々木さんの苦しそうな顔を見ていると、スメ夫の胸に熱いものがこみ上げてきた。自分も、ああいう権利を持っている。誰かを一方的に苦しめても、誰も咎めない権利。気分が良かった。昼休みが終わり、午後の業務が一段落した頃、同期の太田が声をかけてきた。


 「よお、スメ夫。久しぶりに飲みに行かねえ? 最近お前、なんか顔つき変わったぞ。いい話でもあるのか?」


 太田は入社以来の付き合いで、三十五歳同士、独身同士、愚痴を言い合う仲だった。スメ夫は少し考えて、頷いた。


 「いいよ。行こう」


 退勤後、二人はいつもの居酒屋に入った。カウンター席でビールを頼み、焼き鳥をつまむ。最初は他愛もない話だった。会社の愚痴、上司の悪口、給料の不満。でも、ビールが三杯目になると、太田の口調が変わってきた。


 「お前さ、最近なんか変だぞ。朝からニヤニヤしてるし、女の社員見て目がギラギラしてるし。まさか何かやらかしたんじゃねえだろうな」


 太田は少し酔った勢いで、肘でスメ夫をつついた。

 「昔からお前は優柔不断でさあ。女に声かけるのもビビってたくせに、今更調子に乗ってんじゃねえよ。会社で変な噂立ったらどうすんだ」


 説教が始まった。太田は昔からこういうところがあった。自分が少し上手くやっていると思うと、すぐに上から目線になる。


 「お前みたいなヘタレが急に変わっても、ろくなことにならねえんだよ。昔のままでいいじゃねえか。俺みたいに、地道にやってればそのうち……」


 スメ夫は黙ってビールを飲んでいた。太田の言葉が、耳に心地よく響かない。気分が良かったはずなのに、徐々にイラついてきた。一時間ほど経ち、太田の説教はまだ続いていた。スメ夫は時計を見て、立ち上がった。


 「悪い、もう帰るわ」

 「は? まだ早いだろ! せっかく俺がアドバイスしてやってんのに、聞く耳持たねえのかよ!」


 太田が声を荒げ、腕を掴んだ。その瞬間、太田はポケットから財布を取り出し、中から一枚のカードを抜き出した。


 「まあいい。見てみろよ。これが俺の切り札だ」


 差し出されたのは、プラスチック製のカード。運転免許証と同じサイズ。そして、タイトルは──「ハラスメント免許証」条件欄には、赤い文字で「アルコールハラスメント」と書かれていた。スメ夫は息を呑んだ。太田はニヤリと笑い、カードをテーブルに置いた。


 「知ってるだろ? これ持ってりゃ、飲み会でいくら無理に飲ませても、文句言われねえんだよ。俺はもう二年目だぜ。最初はパワハラだったけど、申請してアルコールハラスメントに切り替えた。こっちの方が楽しいんだよな」


 太田は店員を呼び、大きなジョッキを二つ注文した。


 「お前も飲めよ。まだまだこれからだ。説教聞いてねえ罰だな」


 ジョッキが運ばれてくる。太田は自分のを一気に半分空け、スメ夫の前に置いた。


 「ほら、飲め飲め。全部一気でいけよ。男ならな」


 スメ夫はジョッキを見つめた。泡が立ち、冷たいガラスの感触。太田の目が、ぎらついている。まるで昨日までの自分を嘲笑うように。


 「飲まねえのか? だったらお前、俺の説教全部無駄だったってことだぜ。飲めよ、スメ夫。飲まねえと許さねえからな」


 店内の他の客たちは、誰もこちらを見ない。店員も、ただ淡々と注文を取るだけ。スメ夫はゆっくりとジョッキを手に取った。太田は満足げに笑った。


 「そうだ。それでいい。もっと飲めよ。俺が許すまで、ずっと飲ませてやるからな」


 アルコールハラスメント。それは、強制的に飲ませること。拒否させないこと。酔い潰れるまで、吐くまで、意識を失うまで。そして、この世界では、それが完全に許されている。スメ夫はジョッキを傾けた。冷たいビールが喉を通る。太田はさらに注文を重ねた。夜は、まだ始まったばかりだった。


 昨日は太田にしこたま飲まさせられて、説教されて最悪の午前中だった。午後は少しでも気分を変えようと、スメ夫は資料を口実に総務フロアへ足を運んだ。ゲロを吐きそうになりながらも、朝の電車で二人のOLに思う存分触れ、会社に着いてからも気分を紛らわすように加藤さんのデスクに寄って肩を揉みながら耳元で囁いたら、彼女はもう抵抗すらせず俯くだけになっていた。太田はともかく、世界は完全に自分の味方だ。総務コーナーの近くまで来ると、受付カウンターのあたりが騒がしい。そこには七十歳は軽く超えたと思われる白髪の老人が立っていた。背丈は低く、ヨレヨレのコートに古びたステッキ。会社の来客用の受付カウンターの前で、二十代後半の受付嬢・小林さんに向かって、延々と管を巻いている。


 「だから言ってるだろ! お前らみたいな若いのが電話に出るから話が通じねえんだよ! 俺は三十年前からこの会社と取引してんだ! 昔はもっと丁寧だったんだぞ!」


 じいさんの声は甲高く、唾が飛び散る。小林さんは制服のブラウスを着て、笑顔を張り付けたまま対応しているが、目が完全に死んでいる。


 「大変申し訳ございません。お問い合わせの件、担当部署に改めて確認いたしますので……」

「確認? 確認なんかいらねえよ! 今すぐ責任者出せ! お前みたいな小娘に話すことじゃねえんだ! 昔はなあ、受付といえばちゃんとした大人の女性がいてだな……」


 じいさんはステッキで床をドンドン叩きながら、延々と昔話と愚痴を繰り返す。取引先の古株らしいが、もう引退して暇を持て余しているのだろう。電話でクレームを入れたついでに、わざわざ会社まで乗り込んできたらしい。小林さんは何度も頭を下げ、メモを取り、内線電話をかけようとするが、じいさんはそれを許さない。


 「電話なんかかけるんじゃねえ! 俺の話ちゃんと聞けよ! お前ら若いもんは聞く耳持たねえんだ! サービス業なんだから、客の言うこと全部聞けってのが基本だろ!」


 周囲の総務社員たちは、誰も止めに入らない。山崎さんをはじめとしたお局連中さえ、遠巻きに眺めているだけだ。むしろ、誰かが小さく笑っている気さえする。スメ夫は壁際に立ち、じっとその光景を観察した。これは、間違いなくカスタマーハラスメント──カスハラだ。じいさんは小林さんを一時間近く罵り続け、挙句に「もういい! お前らみたいな会社とは取引やめる!」と捨て台詞を吐いて出て行った。小林さんはカウンターに突っ伏すようにして肩で息をし、涙をこらえている様子だったが、誰も慰めに行かない。スメ夫はニヤリと笑った。おそらくあのじいさんも、免許を持っている。「カスタマーハラスメント」条件の。この社会では、客という立場なら、店員や受付をどれだけ罵倒し、どれだけ時間を奪い、どれだけ精神を削っても、一切咎められない。佐藤課長の殺人、山崎さんのマタハラ、太田のアルハラ、そしてこのじいさんのカスハラ。すべてが、免許によって守られている。スメ夫は自分の財布に手をやり、セクシャルハラスメント免許証の硬い感触を確かめた。自分はまだ、会社の中だけ、電車の中だけ、コンビニだけだった。でも、外の世界はもっと広い。客として、店員に。患者として、看護師に。利用者として、公共機関の窓口に。カスハラの可能性は、無限にある。でも、今は自分の免許で十分だ。スメ夫は小林さんのカウンターに近づいた。


 「大変だったね、小林さん」


 小林さんはハッとして顔を上げ、慌てて涙を拭った。


 「あ、原さん……はい、ちょっと……」


 スメ夫はカウンターに肘を置き、身を乗り出して彼女の顔を覗き込んだ。


 「泣いてる? 可哀想に」


 そう言いながら、手を伸ばして小林さんの頰に触れた。涙の跡を指でなぞる。小林さんはビクッとしたが、受付嬢として客対応の癖か、動けない。スメ夫はさらに手を下げ、制服の胸元に軽く触れた。


 「疲れたでしょ。俺が慰めてあげようか?」

 

 小林さんは顔を真っ赤にし、声を殺して 「や……ここは……」と呟いたが、それ以上は何も言えない。周囲の総務社員たちは、また誰も見ない。スメ夫は満足げに手を引き、資料を抱えて自分のフロアに戻った。気分は爽快だ。

 

夕方、同期の太田がまた声をかけてきた。


 「よお、スメ夫。昨日は悪かったな。ちょっと飲み過ぎた。今日はお詫びに、また飲みに行こうぜ」


 スメ夫は笑った。太田の財布には、あのアルコールハラスメント免許がある。今夜は、飲まされる側になる番だ。でも、それも悪くない。この世界では、誰かが誰かを苦しめるのが、当たり前なのだから。スメ夫は頷いた。「いいよ。行こう」二人は退勤後、また同じ居酒屋に向かった。夜は、また長くなりそうだった。


 居酒屋のカウンターで、太田はジョッキを次々と注文し、スメ夫に押し付けた。アルコールハラスメント免許の力は絶大だった。スメ夫は最初こそ抵抗したものの、太田の「飲めよ、男だろ」「これ飲まねえと友情終わりだぜ」という言葉に押され、ビールを流し込むしかなかった。喉が焼け、視界がぼやけ始める頃、太田はニヤニヤと笑っていた。

 「よしよし、いい感じに酔ってきたな。お前、最近女の話ばっかしてるけど、俺も手伝ってやるよ。どうせお前の一人じゃヘタレだろ」

 

 太田はスマホを取り出し、誰かに電話をかけた。受話器の向こうから、か細い声が聞こえる。


 「もしもし? 小林か? あー、総務の。俺、太田だけどよ。ちょっと来いよ。ここ、いつもの居酒屋。仕事の件で相談あるんだ」

 

 小林さんの声が震えているのがわかった。「え、でももう退勤で……」と拒否しかけたが、太田は免許の力で押し切った。


 「いいから来いよ。飲ませてやるからさ。拒否すんじゃねえぞ」


 三十分後、小林さんが店に入ってきた。制服のまま、顔を青ざめさせて。カウンターの端に座らされ、太田がジョッキを置く。


 「ほら、飲めよ。小林。お前、今日のじいさんの件でストレス溜まってんだろ? 俺が解消してやるよ」


 小林さんはジョッキを握ったが、手が震えている。スメ夫は酔った目で彼女を見た。頰に触れた感触が、昼間の記憶を呼び起こす。セクシャルハラスメント免許が、財布の中で熱を持っている。太田はさらに酒を注ぎ、小林さんに強引に飲ませた。彼女の頰が赤くなり、目が潤む。スメ夫は隣に寄り、太ももに手を置いた。小林さんがビクッとするが、太田が笑って止める。


 「まあまあ、飲め飲め。原もお前が好きなんだよな。いいじゃん、みんなで楽しもうぜ」


 店は貸し切り状態になり、店主は奥に引っ込んでいた。この世界では、免許があれば何も咎めない。小林さんは三杯目を飲み干した頃、ふらついて立ち上がろうとした。太田が腕を掴み、スメ夫がもう片方の腕を抑える。

 「帰るんじゃねえよ。まだ始まったばっかだ」


 二人は小林さんを店の奥の個室に連れ込んだ。畳の部屋、薄暗い照明。小林さんは抵抗しようとしたが、酒のせいで力が抜けている。「やめて……ください……」スメ夫は彼女の制服のボタンを外した。ブラウスの下、白い肌が露わになる。太田は後ろから抱きつき、首筋に唇を寄せる。


 「いい声出すじゃん。もっと飲ませてやるよ」

 

 太田はボトルから直接酒を注ぎ、小林さんの口に押し付けた。こぼれた酒が胸元を濡らす。スメ夫はスカートを捲り上げ、下着に手を伸ばす。小林さんの体が震え、涙が頰を伝う。二人は交互に彼女を押さえつけ、服を剥ぎ取った。スメ夫が胸を掴み、太田が腰を撫でる。小林さんの抵抗は次第に弱くなり、ただ嗚咽を漏らすだけ。スメ夫は彼女の脚を広げ、体を重ねた。熱い息が混じり、部屋に湿った音が響く。太田は横から手を加え、彼女の口を塞ぐ。


 「ほら、もっと感じろよ。お前みたいな女は、こうされるのが好きなんだろ」


 小林さんは首を振り、叫びを抑えていたが、二人の体重で動けない。スメ夫の動きが激しくなり、太田が交代する。交互に、繰り返し。彼女の体は汗と涙と酒で濡れ、抵抗の気力は失せていた。終わった頃、小林さんは畳に崩れ落ち、息を荒げていた。二人は服を直し、満足げに笑った。


 「いい女だったな。また呼ぼうぜ」


 スメ夫は頷いた。免許があれば、何も問題ない。翌朝、小林さんは会社で何事もなかったように受付に座っていた。目が少し腫れているだけ。世界は、変わらず回っていた。


 スメ夫と太田の暴走は、誰にも止められなくなっていた。毎晩のように女を拉致し、酒で酔わせ、二人で犯し、時には傷を負わせ、時には意識を失わせるまで繰り返す。会社内の女性たち、街で見かけたOL、深夜のスナックで働くホステス、帰宅途中の女子高生。セクシャルハラスメントとアルコールハラスメントの免許があれば、すべてが合法だった。被害者は翌朝、腫れた体で出勤し、誰も咎めない。警察は来ない。会社は欠勤を処理しない。佐藤課長は相変わらず若手を殴り殺し、山崎さんは妊婦をこき使い続けていた。誰も止めない。それがこの世界のルールだった。スメ夫は、もう自分が最強だと信じていた。──ある土曜の深夜。二人は繁華街の裏路地にある小さなバーに入った。薄暗い店内、カウンターに客は三人だけ。バーテンダーはいない。客の一人は、黒いコートを着た女性だった。三十代後半くらい。ショートヘアで、顔立ちは整っているが、表情がない。カウンターの端で一人、ウイスキーをゆっくり飲んでいる。太田が肘でスメ夫をつついた。


 「あれ、いい女じゃね? 一人だし、声かけてみようぜ」


 スメ夫はニヤリと笑った。財布の免許証が熱い。二人は女性の隣に座った。太田がすぐにジョッキを注文し、女性のグラスに酒を注ごうとする。


 「お姉さん、一人? 寂しいでしょ。俺たちが相手してやるよ」


 女性はゆっくりと顔を上げた。目が、氷のように冷たい。


 「結構です」


 声は低く、静かだった。太田は笑った。

 

 「照れんなよ。ほら、飲め飲め」 

 

 強引にグラスを押し付ける。スメ夫は後ろから女性の肩に手を置き、首筋に息を吹きかけた。

 

 「可愛いね。俺たちと遊ぼうよ。嫌だなんて言わせないから」


 女性は動かなかった。太田がさらに酒を注ぎ、グラスを口元に近づける。


 「飲めよ。拒否すんじゃねえぞ。俺、アルコールハラスメント免許持ってるからな」


 スメ夫も笑いながら、女性の腰に手を回した。スカートの中に指を滑り込ませる。


 「俺はセクハラ。どこ触ったっていいんだよ」


 女性は、ゆっくりとコートのポケットから財布を取り出した。そして、一枚のカードをカウンターに置いた。それは、プラスチック製の「ハラスメント免許証」だった。背景は深紅。縁は黒く輝き、タイトル欄に金文字で刻まれていた。【ハラスメント・ハラスメント免許】条件欄:【他者のハラスメント行為に対する対抗ハラスメント(全手段無制限)】

 

 つまり、ハラスメントをする者に対してのみ、ハラスメントで報復できる。最上位の免許。所有者は極めて稀で、被害者のうちごく一部にしか交付されない、伝説的なものだった。スメ夫の顔が凍りついた。太田のジョッキを持つ手が止まる。女性は静かに言った。


 「あなたたちが、私の妹にしたこと、覚えています」


 スメ夫の脳裏に、ある顔が浮かんだ。三ヶ月前、二人で犯した女子大生。泣きながら「助けて」と叫んでいた子。翌日、彼女は大学を辞め、姿を消していた。女性はコートの内側から、小さな拳銃を取り出した。黒く、光沢のあるもの。サイレンサーが付いている。


 「この免許は、ハラスメントをする者に対してのみ、どんな手段でも許されます。殺人も含めて」


 太田が慌てて立ち上がった。


 「待てよ! 俺たちだって免許持ってるんだぞ!」


 女性は銃口を太田に向けた。


 「あなたの免許は、無効です。私に対してハラスメントを試みた時点で」


 引き金が引かれた。乾いた音が二度、響いた。太田の胸に穴が開き、血が噴き出す。スメ夫は逃げようとしたが、女性のもう一方の手が素早く動き、首を締め上げた。


 「あなたは、妹の体を一番長く汚した人ですね」


 スメ夫は息ができず、床に崩れ落ちる。女性は銃をスメ夫の額に押し当てた。


 「痛みは、感じてください」


 三発目。スメ夫の頭が跳ね、血と脳漿がカウンターに飛び散った。女性は銃をしまい、カードを財布に戻した。バーの他の客は、誰も見ていない。誰も助けを求めない。女性は静かに立ち上がり、店を出た。外は雨が降っていた。彼女は傘も差さず、夜の街に消えていった。翌朝、バーは清掃され、何事もなかったように開店した。スメ夫と太田の席は、会社で空いたままになった。すぐに新しい社員が補充された。佐藤課長も、山崎さんも、数日後に同じ運命を辿った。別のハラ・ハラ所有者が、静かに執行した。世界は、静かに回り続ける。ハラスメントは、免許を持つ者同士のゲームだった。だが、最後に勝つのは、いつも「ハラスメントに対するハラスメント」を許された者たち。誰かのポストに、新しい赤い封筒が届くことはない。なぜなら、乱用者は、すでに消されていたから。

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