7話
佳奈子視点
夕方の「ディープブルー」。ガラス戸を開けて入った瞬間、私は思わず立ち止まった。
――哲也さんが、喋っている。しかも楽しそうに。
向かいに座っているのは、兄から聞いていた例の元カノだった。彼女は静かに微笑み、時折頷くだけ。それなのに、哲也さんは珍しく言葉を重ねていた。服の話、音楽の話、そして昔の思い出らしき断片。声は低く穏やかで、けれど確かに饒舌だった。
私は智美と美雨と目を合わせた。3人とも驚きを隠せない。沈黙の人が、こんなふうに話すなんて。しかも相手は元カノ。
夜、下北堂に集まった私たちは、湯豆腐ではなく酒を囲んだ。湯気の代わりに、グラスの中で氷が音を立てる。
「ねえ、見た?あの哲也さんが、あんなに喋ってたんだよ」
私が言うと、智美が「信じられない。いつも無口なのに」と首を振る。
美雨は「でも、元カノってやっぱり特別なんだね」と静かに言った。
酒が進むにつれて、妄想は止まらなくなった。
「きっと、昔の思い出を語り合ってたんだよ」
「懐かしい話をして、笑い合って…」
「私たちには見せない顔なんだろうね」
その言葉に、胸が少し痛んだ。まるで自分たちが失恋したみたいに。
「なんかさ、置いていかれた気分になるよね」
智美がぽつりと言う。
「そうそう。私たちには沈黙しか見せないのに、あの人には言葉を…」
私はグラスを握りしめた。
美雨は「でも、それが青春なんだよ。誰かにだけ見せる顔ってあるんだよ」と呟いた。
気づけば、3人とも目が潤んでいた。失恋したわけでもないのに、胸の奥がざわついて涙ぐんでしまう。笑いながら、泣きながら、言いたい放題。
「なんで泣いてるの、私たち」
智美が笑いながら涙を拭う。
「失恋したみたいだよね」
私は苦笑した。
「でも、こういうのも青春だよ」
美雨が静かに言った。
その言葉に、下北堂の夫婦が微笑んだ。母は「青春だねぇ」と優しく言い、父も「いいもんだな、こういうのは」と頷いた。
私はグラスを置き、ふと哲也さんの顔を思い出した。饒舌な彼と、静かに微笑む元カノ。その光景は、私たちの心に小さな衝撃を残していた。まるで失恋のような痛みと、青春のような甘さを同時に抱えながら。




