5話
智美視点
鮭を仕入れすぎたのは、私の計算違いだった。冷蔵庫に並んだ切り身を見て、思わずため息が出る。母は「智美、ちょっと多すぎじゃない?」と苦笑し、父は「まあ、鮭なら何とかなるだろう。焼いても煮てもいいし」とのんびり構えていた。けれど私は、定食屋のメニューだけでは消費しきれないと分かっていた。
「じゃあおにぎりにして売っちゃえばいいじゃん!」
佳奈子が明るく提案した。美雨も「面白いかもね」と静かに頷く。母は「おにぎりならみんな好きだし、いいかもしれないね」と背中を押してくれた。父は「ただし、塩加減は大事だぞ。鮭はしっかり塩を効かせないと保存がきかない」と、昔ながらの知識を口にする。
こうして、私たちは鮭おにぎりを大量に握ることになった。炊き立てのご飯の湯気、塩の匂い、鮭の香ばしさ。母が「三角に握ると米粒が崩れにくいのよ」と教えてくれる。父は「丸いのは子どもが食べやすいんだ」と昔話を交える。佳奈子は「じゃあ両方作ろう!」と笑い、美雨は「形で味が変わるわけじゃないけど、見た目の印象は違うね」と冷静に返す。私は「じゃあ、三角と丸を半分ずつ」とまとめた。
午後、ディープブルーの店先に小さな机を出し、ラップに包んだおにぎりを並べた。通りすがりの人が足を止める。佳奈子が元気よく「鮭おにぎり、できたてですよ!」と声を張り、美雨は「数量限定です」と添える。私は「下北堂特製です」と笑顔で言う。
「おにぎりって、昔は保存食だったんだよね」
美雨がぽつりと話す。
「そうそう!戦国時代は兵糧丸って呼ばれてたんだって」
佳奈子が得意げに続ける。
「でも、今はコンビニでいつでも買えるから、逆に特別感が薄れてるかも」
私は少し考えながら言った。
母が横から「でも、手で握ったおにぎりはやっぱり違うのよ。塩加減も、手の温度も、全部味になるの」と笑う。父は「海苔を巻くかどうかで香りが変わるんだ。鮭には海苔が合う」とうんちくを重ねる。
通りすがりの客が「懐かしい味だね」と言ってくれる。私は胸が温かくなる。鮭を仕入れすぎた失敗が、こうして小さなイベントになった。佳奈子の明るさ、美雨の落ち着き、両親の知恵、そして哲也さんの沈黙。それが重なり合って、路地裏に柔らかな時間を生み出していた。
哲也さんは店の中からその様子を見ていた。何も言わず、ただガラス戸を開けてレコードの音量を少し下げた。外の声がよく響くように。――それが彼なりの「応援」だった。
机の上に並べたおにぎりが、夕暮れまでにすべてなくなった。最後の一つを哲也さんが黙って食べ、ほんの少し微笑んだ瞬間、胸の奥に温かいものが広がった。失敗から始まった一日が、こんなふうに小さな成功に変わるなんて。佳奈子は「やったー!完売だよ!」と両手を上げ、美雨は「思ったより早くなくなったね」と静かに笑った。私は「みんなのおかげだね」と呟いた。
片付けを終えた後、3人で下北堂に戻ると、母が「お疲れさま」と湯気の立つ鍋を用意してくれていた。父は「鮭を仕入れすぎても、こうして工夫すれば立派な商売になるもんだ」と満足そうに言う。
夕食の食卓には、鮭の塩焼き、味噌汁、漬物、そして余った鮭を使った茶漬けが並んだ。佳奈子は「鮭づくしだね!」と笑い、美雨は「でも全然飽きない。鮭って万能だね」と頷いた。
「おにぎりって、やっぱり三角が一番落ち着く気がする」
佳奈子が口にすると、父が「三角は山を象徴してるんだ。昔から力の源って言われてる」とうんちくを披露する。
「へえ、そうなんだ。じゃあ丸は?」
「丸は太陽や円満の象徴だな。子どもや祝い事には丸がいい」
母が補足する。
「そう考えると、今日のおにぎりは縁起が良かったんだね」
美雨が静かに言う。
「完売したのも、そのおかげかも」
私は笑った。
食卓の空気は柔らかく、笑い声が絶えなかった。鮭を仕入れすぎた失敗が、こうして家族や友人との団らんに繋がった。母は「智美、これからも失敗を恐れずにやってみなさい」と優しく言い、父は「商売は工夫次第で面白くなる」と頷いた。
私は箸を置き、ふと哲也さんを見た。彼は黙って茶漬けを食べていたが、ほんの少し微笑んでいた。その笑みが「よくやった」という返事に見えて、胸がまた温かくなった。




