3話
美雨視点
私は「ディープブルー」の常連客だ。下北沢の路地裏を歩くとき、自然に足がこの店へ向かう。外壁の白さ、入口に立てかけられた古びたサーフボード、ガラス戸の向こうから漂う潮風のような香り。ここに来ると、時間の流れが少し緩やかになる。
店に入ると、レコードの柔らかな音が迎えてくれる。哲也さんはいつものように黙って服を整えている。ハンガーを掛け直す手つき、埃を払う仕草、レジ横の小物を整える指先。その一つひとつが、言葉の代わりに店の空気を形づくっている。私はその沈黙を楽しむ。
佳奈子がいるときは、店の空気が明るくなる。彼女は服を広げて「これ絶対似合う人いる!」と声を弾ませる。智美がいるときは、定食屋の匂いを思い出させるような温かさが漂う。私は二人のやり取りを眺めながら、哲也さんの沈黙を観察する。彼は微笑み、服を整え、レコードをかける。それだけで、場が整う。
ある日、私はジャケットを手に取り「この服、昔の映画に出てきそう」と言った。哲也さんは無言でレコードをかけた。流れ出す音楽が、まるで私の言葉に呼応しているように感じられた。私は「やっぱりこの店、落ち着く」と微笑んだ。沈黙が返事になる瞬間だった。
私は幼馴染の二人と違って、少し距離を置いて観察することが多い。佳奈子は明るく、智美は家庭的で、二人とも哲也さんに自然に寄り添う。私はその様子を眺めながら、自分の中に静かな安心を覚える。哲也さんの沈黙は、誰に対しても同じように余白を与える。その余白に、私たちの声や笑いが自然に入り込む。
夕方になると、店の灯りが少しずつ柔らかくなる。外の路地から猫が入ってきて、サーフボードの影で丸くなる。佳奈子が「かわいい!」と声を上げ、智美が「定食屋にも来てほしいな」と笑う。私は「この店の看板猫になりそう」と静かに言う。哲也さんは黙ってガラス戸を少し開け、風を通す。猫は気持ちよさそうに目を細める。その動作が返事になっている。
閉店後、三人で店に残ってお菓子を食べながら話し込むこともある。佳奈子が冗談を言い、智美が笑い、私は静かに相槌を打つ。哲也さんは黙って冷蔵庫から飲み物を出してテーブルに置く。それだけで、私たちは「受け止められている」と感じる。沈黙が安心を生む。
私は思う。言葉で返事をされるよりも、動作で返事をされる方が、この店には似合っている。哲也さんの沈黙は、店の空気を柔らかく染める。佳奈子の明るさ、智美の温かさ、私の静けさ。その三つが重なり合い、哲也さんの沈黙に包まれる。
夜になると、下北沢の街は賑やかになる。居酒屋の暖簾が揺れ、ライブハウスから音が漏れる。そんな中で「ディープブルー」は小さな灯りをともす。そこに集う人々の声と沈黙は、まるで日常の音楽のように重なり合い、街角をほのぼのとした温度で満たしていく。
私はその灯りの中で、哲也さんの沈黙を観察し続ける。微笑み、服を整え、レコードをかけ、ガラス戸を開ける。その一つひとつが返事となり、私は安堵を覚える。――それが、この店の日常であり、私たちの居場所なのだ。




