2話
智美視点
昼の「下北堂」は、いつも湯気と匂いに包まれている。味噌汁の鍋から立ちのぼる香り、揚げ物の油が弾ける音、炊き立てのご飯の白さ。私はカウンターの奥で、忙しく動きながらも、どこか安心している。ここは私の居場所であり、幼馴染たちが自然に集まる場所でもある。
昼時になると、佳奈子が哲也さんを連れてやってくる。ガラス戸を開ける音がすると、私はすぐに笑顔で迎える。「いらっしゃい!」と言う声は、常連客にも、二人にも同じように響く。でも心の中では、少しだけ特別な響きを持っている。
「今日の唐揚げ、ちょっと揚げすぎちゃったかも」
私は笑いながら皿を置く。佳奈子は「じゃあ水を多めに飲めばいいね!」と冗談を飛ばす。美雨がいるときは「それも智美らしい味ってことで」とさらりとまとめる。三人の掛け合いは、まるで昔から続いている遊びのようだ。
哲也さんは黙って箸を取り、唐揚げを一口食べる。そして、ほんの少し微笑む。その笑みが「大丈夫」という返事になり、私は胸をなで下ろす。言葉はなくても、彼の動作が返事になる。料理を食べること、箸を置くこと、水を飲むこと。それだけで、私の不安は消えていく。
定食屋の昼は慌ただしい。常連客が次々に入ってきて、私は厨房と客席を行き来する。だが、哲也さんが座っているだけで、店の空気が落ち着く。彼は無口なのに、存在そのものが安心を与える。佳奈子が喋り続けても、彼は黙って聞いている。その沈黙が、店の喧騒を柔らかく包み込む。
ある日、私は味噌汁の塩加減を間違えた。少ししょっぱくなってしまい、内心焦った。でも、哲也さんは黙って飲み、微笑んだ。その笑みが「大丈夫」と言っているようで、私は救われた。佳奈子は「智美、今日は海の味だね!」と笑い、美雨は「それもまた面白い」と言った。三人の声に囲まれて、私は安心した。
夕方になると、店は少し静かになる。私は片付けをしながら、ふと哲也さんを観察する。彼は無口で、何も言わない。でも、動作で返事をする人。食べる、微笑む、箸を置く。その一つひとつが、私にとっては言葉以上の意味を持っている。
私は思う。もし彼が言葉で「美味しい」と言ったら、それはそれで嬉しい。でも、今の沈黙の方が安心できる。言葉にしないからこそ、余白が生まれる。その余白に、私たちの笑い声や冗談が自然に入り込む。だから、この店は居心地がいい。
夜になると、下北沢の街はまた賑やかになる。居酒屋の暖簾が揺れ、ライブハウスから音が漏れる。そんな中で「下北堂」は小さな灯りをともす。そこに集う人々の声と沈黙が重なり合い、日常の風景を形づくる。哲也さんの無口さと、私たちの賑やかさ。その不思議な関係が、この街角の空気を柔らかく染めている。
私はその灯りの中で、哲也さんの沈黙を観察し続ける。食べる、微笑む、箸を置く。その一つひとつが返事となり、私は安堵を覚える。――それが、この店の日常であり、私たちの居場所なのだ。




