1話
佳奈子視点
昼下がりの「ディープブルー」は、いつも少し柔らかい空気に包まれている。外の路地から差し込む光が吊るされたランプの灯りと混ざり合い、服の色をほんのり変えて見せる。私はガラス戸を開けて店に入ると、ふわりとレコードの音が耳に届いた。潮風を思わせる香りが微かに漂い、ここが下北沢の路地裏であることを忘れそうになる。
哲也さんは、やっぱり黙っていた。ハンガーを掛け直す手つきは、まるで呼吸みたいに自然で、見ているとこちらまで落ち着いてしまう。声をかけなくても、彼がそこにいるだけで店が整っていく。私は棚からジャケットを取り出して「これ、絶対誰かに似合うと思うんですよね」とひとりで盛り上がる。哲也さんは顔を上げて、少しだけ微笑んだ。それだけ。でも、その笑みが返事になっている。
沈黙って、普通なら気まずいはずなのに、この店では安心になる。私が喋りすぎても、哲也さんは嫌な顔をしない。ただ黙って、服を整えたり、埃を払ったりする。その仕草が「聞いてるよ」と言っているみたいで、つい調子に乗ってしまう。
外の路地から猫が入ってきて、サーフボードの影で丸くなった。私は思わず「かわいい!」と声を上げる。哲也さんは何も言わず、ガラス戸を少し開けて風を通した。猫は気持ちよさそうに目を細める。――こういうところが、やっぱり哲也さんらしい。言葉じゃなくて、動きで返事をする人。
智美が定食屋から顔を出す時間になると、私は「お昼行きましょう」と声をかける。哲也さんは黙ってレジ横の小物を整え、鍵を手に取る。それが「行こう」という返事だ。下北堂に着くと、智美が笑顔で迎えてくれる。味噌汁の湯気、揚げ物の音、炊き立てのご飯の香り。私は「今日の唐揚げ、ちょっと焦げちゃった?」と冗談を言う。智美は「そうなの、でも食べてみて」と笑う。哲也さんは黙って一口食べ、微笑む。その笑みが「大丈夫」という返事になり、智美は胸をなで下ろす。
午後になると、美雨が店に現れる。彼女は静かに服を選びながら「このジャケット、昔の映画に出てきそう」と語り始める。哲也さんは無言でレコードをかける。流れ出す音楽が返事の代わりになり、美雨は「やっぱりこの店、落ち着く」と微笑む。私はそのやり取りを見て、少し羨ましくなる。哲也さんの沈黙は、誰に対しても同じように安心を与える。
閉店後、三人で店に残ってお菓子を食べながら話し込むこともある。私は「兄の同級生だから安心してるんですよ」と冗談めかして言う。智美は「そうそう、昔から知ってる人って感じだよね」と笑う。美雨は「でも、安心って大事だよ」と静かに言う。哲也さんは黙って冷蔵庫から飲み物を出してテーブルに置く。それだけで、私たちは「受け止められている」と感じる。
私はふと思う。哲也さんは、どうしてこんなに無口なのだろう。人見知りだから?それとも、言葉よりも動きで伝える方が自然だから?答えはわからない。でも、彼の沈黙は私たちにとって安心で、居心地がいい。だからこそ、私は今日も喋りすぎてしまう。
下北沢の街は、夜になるとまた表情を変える。居酒屋の暖簾が揺れ、ライブハウスからはリハーサルの音が漏れてくる。そんな賑わいの中で、「ディープブルー」と「下北堂」は小さな灯りをともす。そこに集う人々の声と沈黙は、まるで日常の音楽のように重なり合い、街角をほのぼのとした温度で満たしていく。
私はその灯りの中で、哲也さんの沈黙を観察し続ける。微笑み、服を整え、レコードをかけ、食器を片付ける。その一つひとつが返事となり、私たちは安堵を覚える。――それが、この店の日常であり、私たちの居場所なのだ。




