第9話(最終) 公開監査──在庫、合いました
朝、鍵を胸の前で回す。世界の紙が音もなく剥がれ、倉庫の冷気が肩口からすべり入る。
《在庫:生成スロット 本日1/1
候補:号令板(視覚号令・旗信号)/当番札ケース(紛失減少)/耳栓具(渦音対策)》
号令板だ。
棚の奥から薄い板が四枚、旗の竿先にはめ込める金具付きで現れる。板面には右/左/上/二上/静の印、縁には色糸。根元に小さな舌を起こすと、板が微光を返し、遠目でも判がつく。
在庫ログ#0009:号令板・四枚配備
目的:遠距離合図/列の統一/混乱抑止
手順:竿先に装着→舌1/3→印に合わせて掲げる→風の強い日は色糸で補助
副作用:長時間の掲揚で肩の張り
責任者:リオ/共同責任者:ガロン
ガロンが旗に板をカチとはめ、試しに振る。「右・右・止」板の印が光り、列は三拍で沈む。拍子が地面に染みたその時、北の斜面の見張りが同じ合図を返した。
――来る。
土煙の向こうから鎧。王都の紋に黒い布。背後に文官を伴い、査察使の一団が谷へ入ってきた。先頭の男は肩を落とさないまま、口元だけで笑う種類の人間だ。
「在庫を返納せよ。王国封印庫の財物を私物化、さらに無許可の税と市場――すべて横領である」
ミナが舌打ちを飲み込み、マーグは黙って帽子を目深に。ガロンは棒を下に構え、列を前に歩かせて止め、置いた。
僕は頷く。「公開監査をやりましょう。市で。秤と灯の前で」
◇
砦の中庭に板を並べ、公開帳簿と口閉じの秤、帳簿喰いの灯を正面に据える。眠らぬ街路灯は舌を一目盛り起こし、影を浅くする。人の顔の濃淡が見やすい。
査察使は胸元で巻物を外し、声を通した。
「第一。封印庫の遺物の持ち出し。鍵を示せ。第二。路銭の徴収。第三。偽札の流通。――すべて、王都の宰相府への報告により判明した」
“宰相府”。やはりそこが背だ。
僕は鍵を懐から出し、掌で転がす。歯は欠けたまま、しかし一本一本が整列しはじめている。
「鍵は退職金として交付されました。倉庫は、説明に応じて貸与されています。――灯、お願いします」
僕は灯の芯を低く点し、鏡面を査察使の巻物へ向ける。金の縁取りの羊皮紙。筆致は美しい。だが、灯は美に惑わない。鏡面に薄い文字が浮かぶ。
《収支の歪み:報告日付の飛び/路銭徴収の記録場所不一致/偽札の供給源記載なし》
ざわめきが、湯気みたいに立った。
査察使の口元の笑みが薄くなる。「灯ごときで王都の文を計るな」
「灯は在庫を計ります。言葉も在庫です」
僕は秤の鈴を一度鳴らし、皿の片方に査察使の主張(路銭徴収)、もう一方に公開帳簿を載せた。帳簿の条には《路銭禁止/徴収は市の公開の場のみ/外来は道普請で代替可》と釘で打ってある。
舌は僕ら側へ、ゆっくり戻る。
さらに、あの“路銭三騎”の二番手――昨日から列に混ざり、名を明かさぬ男が、一歩前へ出て頭を下げた。
「証言する。路銭を命じたのは、王都の徴発官。俺は傭兵上がりだが、命令系統に虚偽があった。ここでは労で札をもらった」
灯は彼の影を舐め、薄文字を出す。
《歪み:命令系統虚偽(王都側)/労の授受(谷側)=整合》
もう一人、昔の密偵が列の外から進み出た。革鎧は脱ぎ捨て、顔色は良い。「水路を詰まらせる命令を受けた。賃金は未払い。ここでは粥をもらった。等価だ」
灯は同じ結論を寄せる。等価の授受=整合。
査察使は顎を上げ、巻物の別紙を掲げる。「では偽札。他谷で見つかった。お前たちの札と同じ形だ」
僕は盤から偽札保管束を取り出し、皿に載せる。もう片方に、こちらの刻印器。
舌は深く、偽札の皿へ傾いた。
「穴の音が違う。刻印の深さも。――灯」
《偽札供給源:王都側出入り商隊の荷札改竄痕/供給経路:北門市場→宰相派出納役》
空気が、砂利の上で擦れた。
査察使の背後で、文官が紙束を握りつぶす音がする。
ガロンの棒は下のまま。列は息を合わせ、三拍で立ち、三拍で止まる。号令板が静かに光り、混乱の起点を潰していく。
◇
査察使の目が、ついに笑いを捨てた。
「――封印庫そのものの持ち出し。鍵は証拠だ。お前は王都の法を離れた」
「法は離れていません。公開に従っています」
僕は鍵を握り、歯の感触を確かめる。欠けていた部分に、昨夜から微かな角がまた増えている。
説明の歯。
胸の中で鍵を回す。世界の紙が一枚、剥がれ、倉庫の棚が近づく。
「倉庫。監査台を」
現れたのは、腰高の台と薄板の束。板には簡潔な記入欄――入、出、理由、説明責任者、共同責任者――そして最下段に、大きく一行。
在庫、合うか
僕は板を査察使へ差し出す。「王国の出納を、ここで、今日の数字で見ましょう。王都の紙ではなく、現場の在庫で」
彼は一歩、退いた。代わりに背後の兵が前に出る。布の下の鎧が軋む。
号令板が二上。火急。
ガロンの声が短く落ちる。「前・止・置!」
棒の先が馬の前足の半歩先に置かれ、眠らぬ街路灯の縫い目が浅く揺れる。風鈴が低く二度。
兵の足は止まる。置かれた約束は、乱暴に踏み越えるには居心地が悪い。
査察使の喉仏が動いた。彼は視線だけで周囲を測り、やがて巻物を畳む。
「……記録を持ち帰る。宰相府に照会する。臨時の徴発は停止、路銭は禁。偽札は没収――ではなく、保全。等価札は“当場所のみ有効”とする」
“撤退の文言”を、彼は上手に並べる。
僕は頷く。「公開を続けます。列と灯と秤の前で」
査察使は踵を返し、馬へ戻る前に一瞬だけ――ほんの一拍――僕を見た。
敵意ではない。測る目だ。
彼らが谷を出るまで、号令板は静止。列は歩く。誰も走らない。
◇
広場に残ったのは、数字と湯気と息。
僕は監査台の薄板に今日の出入りを書き込み、釘で打った。
《公開監査#0001:
入:隊商税(道普請代替)札片31/労 当番札 48
出:粥112/塩36/豆61/鍛冶手当(塩)8
偽札:保全束1(混入なし)
裁定:路銭主張→差戻/夜間静穏→成立
結語:在庫、合》
鈴が一回、軽く鳴った。
ミナが豪快に笑い、塩の壺の蓋を鳴らした。「税を数字で殴るとはね。王都にこの音が届けばいい」
マーグが帽子の鍔で汗を拭き、「井戸を掘るぞ」と言った。
ラウは無煙風箱の布を外し、灰巣の湿りを確かめる。「咳が減る」
ガロンは号令板を外し、旗の縁の色糸を指で弾いた。「視える号令は静かだな」
リロが読み書き盤を子どもたちに配り、線を指でなぞらせる。「『合』って字、すき」
◇
夕刻、谷の口に隊商がもう一列。風に嗅がれて、湯気に呼ばれて、列と灯に安心して。
市は自然に開いた。等価札は乾いた良い音で鳴り、刃なし槌は棒と同じ棚で眠り、鍛冶場の火は規定の刻で落ちる。
誰かが偽札保全束を覗いて、「燃やさないの?」と聞く。
「不足が怒りの形だから。混ぜないで、記録する。いつか裁くために」
――倉庫は記憶する。在庫は忘れない。公開は、人を忘れさせない。
日が山ふところに沈む頃、砦の上でガロンが旗を高く掲げた。号令板は外され、布だけが風を受ける。
倉旗。
谷の子どもが指で空に線を描く。「くら」「はた」。読み書き盤の線が、夕焼けの線と重なる。
僕は鍵を握る。歯は、ついに一列で噛み合った。
欠けは残る。けれど、噛み合わせはできた。説明の歯だ。
胸の奥で鍵をひと回し。世界の紙が静かにたわみ、倉庫の棚が息をつく。
《在庫:監査台常設/号令板運用:安定/街路灯:士気+/風箱:咳-/等価札:流通安定
次候補:当番札ケース(紛失減)/石畳化具(簡易敷石)/教育盤(筆記版)》
――次は、石を置こう。書くための板を増やそう。
けれど、それは明日でいい。今日は合わせた在庫を抱いて眠る日だ。
◇
夜。
眠らぬ街路灯の舌を一目盛り起こし、列は半刻ごとに交代する。風鈴は一音だけ鳴り、静けさを配る。
鍋はぼこりと息をして、粥の湯気が、昼の喧噪の角を丸める。
僕は公開帳簿の下に小さく書き足した。
《結び:
剣でなく、在庫で守る。
嘘でなく、公開で繋ぐ。
怒りでなく、約束で動く。
――倉旗、本日付けで自治(臨時)を宣言。
異議はいつでも受ける。秤と灯の前で。》
鍵を胸に戻す。歯はきらりと光り、次を噛む準備をしながらも、今夜だけは黙っている。
リロが欠伸を噛み殺し、タイトが槌を布で包み、マーグが「明日は井戸だ」と笑い、ミナが「明日は肉だ」と応じる。
ガロンは短く三拍、トン・トン・トン。
谷の心拍だ。在庫の拍子だ。
「在庫、合いました」
僕は灯の前で、小さく、でもはっきりと言った。
灯はわずかに明滅し、鏡面に一行だけを返した。
《記録:完了》
――――
ここまで読んでくれてありがとう。これで第一部・完。また別の在庫で会いましょう。




