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第8話 鍛冶の息──無煙風箱と最初の刃なし槌

 朝、鍵を胸の前で回す。世界の紙が音もなく剥がれ、肩口から倉庫の冷気がすべる。


《在庫:生成スロット 本日1/1

 候補:号令板(視覚号令・旗信号)/当番札ケース(紛失減少・列速度+4%)/無煙風箱(鍛冶用・煤低減・肺負担-)》


 今日は無煙風箱だ。火の始まり方は、その日の終わり方を決める。

 棚の奥から、分解された木と革と金属の箱部品が静かに滑り出る。ふいごに似ているが、空気を吸って吐くだけではない。脇腹に小型の冷え板、口には灰を絡め取る蜂巣の微細孔。側面の舌を起こせば、吐き出す風に渦が生まれ、炎の向きを奥へ押し、煙の粒を巻き込んで沈める。


在庫ログ#0008:無煙風箱・一基配備

 目的:鍛冶場の煙低減/肺負担軽減/火力の安定

 手順:炉口に箱口を接続→舌を1/3→渦を作り灰巣に沈降→冷え板で温度調整

 副作用:長時間の運転で耳鳴り**(渦音)・喉の乾き

 責任者:リオ/共同責任者:鍛冶係(暫定:タイト)・炭窯主(暫定:ラウ)】


 部品に触れると、指の腹に微細な振動が返る。倉庫はいつだって、現場の手触りに優しい。



 風下の窪地に、昨日線引きした鍛冶場の枠を組む。

 ミナの隊商が古い火床と鉄床を積んでくれていた。炭窯の主、痩せた頬に硬い骨を持つ男――ラウ――も、腕を組んで立つ。

 タイトが嬉々として風箱の枠を抱え、「俺が鍛冶係か」と笑う。

「暫定。等価札の刻印は、火番で四分の一、鍛接で半枚。危険手当は塩」

「塩だ!」

 タイトが上機嫌に答え、ガロンは周囲を一周して列の導線を確かめた。火急直線は棒で空ける。見張りの旗の合図は右・上・上。

 ラウが渋い顔のまま口を開く。「煙は本当に減るのか」

「秤に乗せましょう」

 僕は口閉じの秤を近くに据え、片皿に炉の灰を、もう一方に灰巣の布片を載せる。灯の鏡面に薄い文字が浮く。


《仮見積:煤沈降率 47〜61%(風向:南西・湿度:中)》


 舌は静かに落ち着いた。

 ラウの頬の骨がわずかに緩む。「半分でも減れば、冬の咳が軽くなる」

「代わりに耳鳴りが少し。交代制で」



 炉に炭を敷き、火を移す。

 無煙風箱の口を炉に接続し、舌を一目盛り起こす。ふっと、炎の背がなだらかになり、煙が奥へ押し込まれる。蜂巣を通った灰が、底で絞られて湿る。

 炎は静かだ。暴れない。

 タイトが目を丸くする。「燃える音が違う」

「風に方向があるから。火は、叱るより導くほうが育つ」


 ガロンは火急直線の確保を確認し、旗の合図を試す。布が一度、二度、上で止まる。「走るな。歩け」

 読み書き盤を抱えた子どもが、その拍子に合わせて数え歌を唱える。一・二・三。



 最初に打つのは、刃ではない。

 ――刃なし槌。

 面の角を落とし、衝撃が点でなく面で伝わるようにした打撃槌。柄は短く、列の中で扱える重さ。先端にごく僅かの返りをつけ、打った力が相手に滞留せず逃げる形。

 タイトが赤くなった鉄を挟み、僕は説明を始めた。


「この槌は止めるための槌。折るんじゃなく、置く。骨の上じゃなく、筋の上に面で当てる」

「棒と同じだな」ガロンが頷く。「先で刺すんじゃない。先を先に置く」

 僕は公開帳簿の端に項目を増やす。


武具#0001:刃なし槌(列用)

 目的:無血の停止/列の巡回装備

 手順:柄長一尺四寸/面は丸面/返り弱/打点は筋・関節の周**/禁止:頭部・背骨

 副作用:手首の疲労(連続打ち)

 責任者:リオ/共同責任者:ガロン/鍛造:タイト・ラウ**


 タイトが最初の一打を落とす。トン。

 火床が呼吸するように、炉の奥で灰が沈む。無煙風箱の渦が音を均し、炎の背が滑らかに移る。

 打つ。トン。

 打つ。トン。

 列の拍子と合っていく。三拍ごとに、槌の面が丸く育つ。

 ラウが耳の後ろを掻いた。「耳鳴りがする」

「交代。水を」

 当番札に交代刻印を押す。等価札の盤が良い音を返す。



 昼、鍛冶場に最初の買い手が現れた。

 長屋の女たちだ。彼女らは布袋を抱え、値切る顔つきでは来ない。役で来る。

「畑の杭抜きが欲しい。小さいやつ」

 刃なし槌の姉妹として、杭抜き具の先を打つ。力はてこに預け、手首に残さない。

 公開帳簿に追記。《杭抜き具#0001:柄短・爪弱/目的:畝保全/副作用:腰の疲労》

 等価札が二枚動き、豆の袋が一つ移る。湯気が鍛冶場に軽く混じる。


 隊商頭ミナが顔を出し、目を細めた。「火が静かね。煙の臭いが薄い」

「無煙風箱が煙を沈めます」

「うちの荷にも一つ欲しい。遠征の鍛冶はいつも咳が出る」

「説明を一式つけます。舌の目盛りは三段階。一目盛りで渦、二で押し込み、三は緊急以外禁止」

 ミナは呵々として笑い、塩の壺を一本置いていった。「約束がある道具は高く売れる」



 午後、列の稽古が鍛冶場の横を通る。

 ガロンの号令は短く、棒の先は低い。

「前、止、置」

 列の中に新顔が混じる。昨日“路銭”を言いに来た三騎のうち、先頭ではなかった男だ。馬を降り、市の外周の護衛だけを買って帰った男。今日は歩いて来て、棒の列に入り、読み書き盤の線をなぞっている。

 彼は名を名乗らず、ただ拍子に身を合わせた。

 ガロンは何も聞かない。棒の先を置かせ、足を揃えさせる。秩序は、先に体に入る。


 刃なし槌が三本、出来上がる。柄の根元に小さな倉旗の印。

 タイトが得意げに槌を掲げ、ガロンが重量を試す。「重すぎない。振らない。置ける重さ」

 リロが盤の横に槌を立て、子どもたちが目を輝かせて触る。

「刃はないの?」

「ない。これは止めるための刃だよ」

 子どもたちは言葉の形を面白がって笑い、読み書き盤の線で「と」「め」を書いた。



 そこへ、苦情が来た。

 墓地の上の住宅から、年配の女が杖をついて降りてきて、鼻をしかめる。「風箱の渦音が耳に刺さる。夜はどうするんだい」

 僕は公開帳簿の余白に運用時間を追記する。《鍛冶運用:朝二刻・午後二刻/夜間運転禁止/緊急修理のみ旗合図で短時》

 口閉じの秤に「夜間静穏の主張」と「鍛冶運用」を載せる。舌は水平。

 女は杖で地面を軽く叩いた。「紙に書くのはいいね。夜は眠るものだよ」

「眠らぬ街路灯だけが夜に働きます」


 女は鼻を鳴らしたが、帰り際に杭抜き具を指さし、「それ一本、札でね」と言った。

 等価札が一枚、盤で鳴る。良い音だ。



 日が傾く。

 鍛冶場の最初の火を落とす前に、もう一つだけ在庫を出したくなった。列の動きが良く、旗の合図が増えている。視覚の号令が欲しい。

 けれど生成スロットは使い切った。

 ――説明が先だ。

 僕は板を持ち、市の隅で旗信号の仮運用を書き出す。

 《仮・号令板:右=接近/上=警戒/二上=火急/振=撤収/静止=通過》

 ガロンがうなずき、布の端に印を縫う位置を決める。リロは旗の縁に色糸を添えて、遠目にも判がつくようにした。

 公開帳簿に仮運用を釘で打つ。明日、倉庫に説明してから出す。



 夕暮れ、小さな事件。

 長屋の裏で、偽札で揉めた男が札束を懐に入れたまま戻ってきた。顔は昨日より痩せている。

 タイトが槌を横抱え、ガロンの列がさっと間を作る。

 僕は秤を前に出し、鈴を一回。

 男は懐から札束を出した。角は煤け、穴は粗い。

「道普請の半刻、やった。粥を一杯、札で足りないか」

「足ります。『働いた』を刻む札なら」

 僕は札束の上の数枚を破り、灰巣の布を一片渡す。「偽札は燃やさない。混ぜない。別の在庫だ」

 男はうつむき、水を一杯飲んで去った。借金は一度では消えない。でも、約束は一杯の粥で身体に入る。



 夜。

 鍛冶場の火は消え、無煙風箱の口には布が掛けられる。渦音は止み、代わりに虫の声が戻る。

 眠らぬ街路灯の舌を一目盛り起こし、列は半刻交代で巡回。槌は棒と同じ棚にしまい、先を下に置く。

 僕は公開帳簿の下に今日のまとめを書いた。


《鍛冶#0001:無煙風箱稼働(煤沈降率推定55%)/刃なし槌×3/杭抜き具×2/事故0(軽耳鳴り3・交代済)

 市:流通札61/粥98/塩34/豆59/道普請延べ13人

 苦情:渦音→運用時間で調整(成立)

 接触:なし(外周護衛半刻)

 補正案:号令板の正式化/当番札ケース導入/耳栓(布+蜜蝋)/火急直線の石粉撒き》


 倉庫の鏡面に、薄い候補が浮かぶ。


《候補:号令板(視覚号令・旗信号)/当番札ケース(紛失減少)/耳栓具(渦音対策)》


 ガロンが粥椀を持って現れ、槌の面を指で撫でた。「丸いな。怒ってない槌だ」

「叱る槌より、導く槌のほうが、在庫になる」

 ガロンは笑い、「前・止・置。槌にも歌がある」と言った。

 リロが旗の縁を縫いながら、欠伸を噛み殺す。「明日は号令板?」

「説明して、出す。当番札のケースも」

 タイトが鼻を擦り、「肉は?」

 ミナの隊商が遠くで手を振り、「明日!」と声を張った。笑いが走り、鍋がぼこりと湯を吐いた。


 鍵を握る。歯の欠けは、また小さな角を増やしている。説明は歯になる。歯は、次を噛む。

 風鈴が短く鳴り、灯の縫い目が夜の濃淡を浅くした。

 ――火は在庫になった。次は、声を形にする。旗の板で、遠くへ届く拍子を。


――――

読んでくれてありがとう!面白かったら**ブクマ&☆☆**で在庫に応援をください。次回「号令は旗に──号令板と外周の曲がれ」へ。

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