第6話 失地の剣──ガロン、規律を持ち帰る
夜の豆粥が片づき、灯の舌を一目盛りだけ落とした頃、砦の中庭に足音が揃いはじめた。
失地騎士団長ガロンは、皿を洗った手を拭い、板の上に一本の棒を置いた。刃ではない。節の少ない樫の棒だ。長さは肩から指先まで。目盛りが刻んである。
「まずは列だ。列は秩序の最小単位。三歩で止まり、三歩で動く。声を合わせ、足を合わせ、棒の先で呼吸を合わせる」
彼は棒の先を空に向け、三拍を刻んだ。トン・トン・トン。
タイトが真似をする。足が少しもつれる。マーグは腕を組んで眺め、リロは眠そうな目で短冊を指で弾く仕草をした。
「棒は刃じゃない」とガロン。「だが、規律が通れば、刃よりも速い。棒が通れば、言葉も通る」
彼の声は、鍛冶場の芯の音に似ている。無理に大きくはないのに、遠くまで届く。
僕は公開帳簿の空き欄に当番表を書き足し、巡回と列の稽古の枠を分けた。労の刻印は、札四分の一。見張りや水路とは別枠だ。
「駐在の組を作る。昼の目は市に、夜の目は灯に。最初は四人組を二つ。合図は風鈴と灯。棒は腰の高さで構え、足は肩幅。走らない。歩く。走るのは、崩れを呼ぶ」
タイトが手を挙げた。「盗賊が走ってきたら?」
「走らせろ。走ってくる足は、躓く。灯の縫い目は躓きを見せてくれる。棒は先に出すな。先に出すのは声だ」
列が一度、うまくそろった。灯がわずかに明るみ、地面の濃淡が浅くなる。心拍の縫い目が巡回者に寄り添う仕組みは、こういう時に効く。
僕は倉庫の歯を指でなぞる。今日の生成スロットは秤で使い切った。明日の朝は、教育が欲しい。ガロンの声が、読み書きできる体を欲しがっている。
◇
夜明け。
谷の空が白くなり、灯の舌が自動で沈静した。僕は鍵を胸の前で回す。世界の紙が音もなく剥がれ、倉庫の気配が肩口に戻る。
《在庫:生成スロット 本日1/1
候補:等価札穿孔器(列速度+12%)/教育遺物“読み書き盤”(識字率改善・号令理解・帳簿読解)》
今日は読み書き盤。
棚の奥から、薄い板が何枚も滑り出た。板の表に、線が彫り込まれている。線は指でなぞると温かく、触れた指に微細な振動を返す。裏には短い号令と簡単な数の歌。
箱の裏蓋には、用法が簡潔に刻まれていた。――教育遺物“読み書き盤”:基礎文字と数の触読、号令の共有、帳簿記号の初歩。副作用:長時間の使用で指先の痺れ。
在庫ログ#0006:読み書き盤・十枚配備
目的:識字率の向上/号令の統一/公開帳簿の理解
手順:朝の稽古前に五十拍、指で線をなぞる→声で号令を合わせる→数の歌で三拍子に慣らす
副作用:指の軽い痺れ(連続二刻以上)
責任者:リオ/共同責任者:ガロン
板を抱えて中庭に出ると、ガロンが既に棒の山を整えていた。棒の重さに差をつけ、握りの位置に目印を刻む。
「これを使う。まずは指だ。指が覚えれば、口が揃う」
読み書き盤を配る。タイトが「歌?」と笑う。ガロンは頷く。「歌だ。歩兵は歌で動く。三拍子。一・二・三。息を合わせ、目を合わせ、耳を合わせる」
僕は板の裏の号令に目を走らせた。前へ進め/止まれ/右へ回れ/構え/下げ。短く、間が良い。
リロは盤を指でなぞり、声に出した。「まえへ、すす……む。と、まれ。みぎへ……」
指が止まると、盤は振動で促す。リロは照れ笑いして、もう一度なめらかに言い直した。
マーグは「字は読む」と言い、盤の数だけ繰り返した。ガロンは板を掲げ、全員に間を刻ませる。
三度目の合図で、列の足音は揃った。トン・トン・トン。
僕は公開帳簿に今日の稽古の項目を書き、等価札の当番枠に「号令・列・見張り」を分けて刻印した。
◇
午前の市は静かに開き、昨日の隊商頭ミナが、若い者を二人連れてやってきた。若い者の目は盤と棒に吸い寄せられる。
「教育か」とミナ。「それも市の品にするのかい」
「公開です。誰でも触っていい。号令だけは、谷に合わせてもらう」
ミナは笑った。「号令が二つあると、道も二つになってぶつかるからね」
ガロンは、中庭の隅に簡単な模擬線を引いた。縄で四角を作り、畝や段差の高さを木箱で再現する。
初歩の訓練は歩くことから。棒は下。声は短く。
タイトは棒を振りたがり、ガロンに肩の上を指で軽く押されてバランスを崩した。「振るな。押すな。置け」
「置く?」
「相手の進路に棒の先を置く。相手が踏み出す場所に、先に約束を置く。それで足は止まる」
言葉は美しかった。
僕は倉庫で見た印板の安全図を思い出す。使い方の説明書は、現場で見せるほど効く。
読み書き盤を持った子どもたちが、列の外で声を合わせる。「まえへすすむ、とまれ、かまえ、さげ」
ガロンはその声を拍子に取り、列を動かした。
秩序が、音になって谷に染み込んでいく。
◇
昼前、小さな揉め事が起きた。
元傭兵を名乗る男が、棒の列を鼻で笑い、ガロンの前に刃を抜いて立った。背は高く、腕は太い。目は笑っていない。
「棒の踊りで盗賊が止まるかよ。剣を持たせろ。俺が教える」
中庭の空気が重くなる。タイトが棒を握り直し、マーグが秤の鈴に触れる。リロは読み書き盤を子どもたちに押し戻す。
ガロンは一歩、前へ出た。棒はまだ下。
「ここでは棒が法だ。剣は在庫にならない」
「法? 戦に法があるかよ」
「ある。帰還するための法だ」
男が一歩、踏み込む。刃先が低く揺れる。
ガロンは棒の先を男の足の前に置いた。
男の足が止まる。置かれた約束に足が出ない。癖が邪魔をする。
その瞬間、ガロンは棒を半歩だけ押し上げ、男の手首を叩く。コン。
刃が落ちる。
続けざまに、棒の腹で男の肩を押し、男の体の重心をずらす。膝が落ち、土に沈む。
すべて三拍。トン・トン・トン。
男は地面に手をつき、息を吐いた。
ガロンは棒の先で刃を彼の手の届かないところへ滑らせ、短く言う。
「列に入るか。出るか。等価札は列の内にしか流れない」
男は地面を見、やがて笑った。今度は口元だけでなく、目の奥に火が戻る笑いだ。
「……列に入る。俺は戻りたい」
「戻れる。法があるうちは」
拍子が、息と一緒にほどけた。リロが盤を胸に抱え、子どもたちがほっと息をつく。
秤の鈴は鳴らない。裁きは棒の中で済んだ。
◇
午後、列は畑の周りに輪を作り、足の運びを覚え、棒の先を畝に置く練習をした。誰も畝を踏まない。昨日の風鈴が作った見えない柵と、今日の棒の約束が重なる。
ガロンは稽古を二刻で切り上げ、残りの半刻を道普請に回した。「列は長くやらない。長くやれば、崩れる。崩れた列は教えを壊す」
等価札の盤には、号令と列の刻印が増える。タイトは汗だくで盤の前に札を置き、半斤を四分の一に割って仲間と分けた。
マーグは公開帳簿の端っこに、今日覚えた号令の書き取りを子どもたちにさせた。読み書き盤の線をなぞりながら、字が残る。
ミナの隊商は油を安く回し、灯の舌を一目盛り上げた時の見え方の違いを見せ物にした。客は少し増えた。
遠くの街道を、小さな影が素通りする。盗賊かもしれない。けれど、谷の入口に列が見え、灯が縫い、風鈴が息を揃えていると、影は手前で方向を変える。
無血の撤退が、繰り返し起きた。
◇
夕方、ガロンは僕の前に立った。
「規律をこの谷の在庫にするなら、名が要る」
「名?」
「旗や印だ。人は形に寄る。倉庫は数字で動くが、人は形で動く」
僕は頷いた。
「倉旗。倉庫の旗。在庫の記録で立つ旗」
ガロンはうなずき、目を細めた。「倉旗、いい名だ。旗はまだ布だけど、名が先だ」
リロが布の端に白い線を縫い、タイトが棒の先に結んだ。
旗が揺れると、灯の縫い目の中に新しい濃淡が生まれた。列がそこへ吸い寄せられ、足音の拍子が一つ増える。
僕は帳簿に小さく書いた。《倉旗:暫定標章。意味:在庫と旗。公開》
倉庫の鏡面がわずかに明滅し、薄い文字が返る。
《候補:号令板(視覚号令・旗信号)/当番札ケース(紛失減少・列速度+4%)》
旗信号が欲しくなる日がすぐ来るだろう。今はまだ、声で足りる。
◇
夜。
眠らぬ街路灯の舌を一目盛り起こし、見張りの列を回す。
読み書き盤は長屋の壁にかけ、子どもが寝る前に線をなぞる。指先が痺れたら、豆の塩をひとつまみ舐める。
ガロンは鍋の前で粥を受け、当番札を盤に置いた。札盤は今日も良い音を返す。
彼は粥を半分食べてから言った。
「失った土地を、俺たちは戻したい。だが、戻すってのは奪うことじゃない。帳簿を合わせて、借りを返すことだ」
僕は頷く。「在庫が合って初めて、前に出られる」
「その前に出す足に、棒を置く。……『置く』って言葉、気に入った」
「『説明する』って言葉も、いいですよ」
ガロンは笑い、棒の先で地面に小さな三角を描いた。「三拍で説明する。前、止、置。わかりやすい」
笑いが広がる。
倉庫の歯は、今日もひとつ、角を増やした。説明が歯になる。歯は、次の噛み合わせを待つ。
◇
夜半、遠くで馬のいななき。街道の先、丘の向こうに小さな火がまた点った。
ミナが肩越しに見て言う。「噂は走るね。灯と列は目立つ」
「公開は防具。でも招待状にもなる」
「来るのは盗賊だけじゃない。査察も来る」
「来たら、帳簿を見せる」
ミナはニヤリとし、塩の壺の蓋を閉めた。「なら、うちの仕入れ帳簿も釘で打ってくれ」
僕は頷き、釘を一本、公開帳簿の横に打ち込んだ。良い音がし、板の結び目が強くなる。
◇
明け方。
風鈴が短く鳴り、灯の舌が落ちる。谷に鳥の声が戻る。
僕は公開帳簿の下に今日のまとめを書いた。
《稽古#0001:列二組(四人×二)/号令統一(読み書き盤10枚)/事故0/小競り合い1(未損耗)
市:流通札63/道普請延べ12人/偽札0
無血撤退:2件(接触前撤退)
補正案:旗信号導入/列の交代を半刻ごとに/読み書き盤の指保護布》
倉庫の鏡面に薄く候補が浮かぶ。
《候補:号令板(旗信号・遠距離合図)/当番札ケース(紛失減少)/等価札穿孔器(列速度+12%)》
明日は入植の線引きだ。畑と鍛冶のルートを決め、列が守る範囲を形にする。
ガロンは旗を棒の先に結び直し、タイトは棒に刻みを増やし、リロは読み書き盤の線を指でなぞった。
マーグは口の端を上げて言う。「列は見物だな。……畑の線も見物だ」
「見物にして、在庫にします」
僕は鍵を握って答えた。歯は静かに光り、次を噛む準備をしている。
――――
読んでくれてありがとう!面白かったら**ブクマ&☆☆**で在庫に応援をください。次回「入植線引き──耕作と鍛冶のルート」へ。




