第5話 最初の市──等価札と屋台の湯気
朝の谷に、鉄の匂いが薄く漂った。昨夜、灯の縫い目に誘われて近くまで来ていた隊商の車輪が、朝露の石を軋ませる音だ。
砦の中庭では、板を並べて机を作り、紐で四角を区切る。豆、薄い塩、乾いた薬草、縫い針。マーグが古樽を洗い、リロは大鍋に火を起こして粥を仕込む。タイトは柱に布を回して屋台の幌を張った。
「等価札は見えるところに」
僕は札の盤を中央に置き、公開帳簿を並べた。今日の約束を文字で、誰の目にも晒す。
市の約束(臨時)
札一枚=半斤のパン/豆一掴み/塩ひとつまみ/釘十本のいずれか
札二枚=布切れ一幅/粥一椀×五
札の刻印は当日に限り有効(偽造防止)
労は当番札で刻む(巡回/鳴らし手/見張り/水路)
税(入市料):外来の者は一人につき札一片(紙片大)か、代替として道普請半刻
ざわざわと声が集まる。長屋の影から子どもが首を出し、豆の袋へ手を伸ばそうとして、リロに軽く耳を引かれて笑った。
「鍋、いくよー。今日は塩豆粥! お腹から約束を覚えよう!」
湯気が上がる。豆の甘さと塩気が空に薄く溶け、灯の柱に香りがからむ。人は湯気に寄る。湯気は人を寄せる。
僕は胸の中で鍵を回した。倉庫の反応は速い。世界の紙が一枚剥がれ、棚の奥の古い箱がすべる。
《在庫:生成スロット 本日1/1 候補:口閉じの秤(簡易判決・虚偽検知・口論収束)/等価札穿孔器(刻印補助)》
今日は秤だ。市の日に一番必要なのは、喧嘩を短く終わらせる道具。
箱を開くと、黒檀の台に真鍮の皿が二つ。支柱には小さな舌がぶら下がり、支点に細い目盛り。側面には、古い裁きの言葉が刻まれていた。――口閉じの秤。嘘を“重さ”に写し、説明と一致すれば針は静か、虚偽なら重く傾く。副作用は、長く使う者が喉の渇きを覚えること。
在庫ログ#0005:口閉じの秤・一基配備
目的:売買紛争の即決/虚偽の抑止/市の秩序維持
手順:双方の主張を順に秤に置く(札/品/言葉)→支点の舌が水平なら成立→傾けば再提案
副作用:渇き(長時間の使用者)
責任者:リオ/共同責任者:マーグ
台の前に小さな鈴を下げ、「秤の鈴は一回ずつ」と書き添える。音が秩序の拍子になる。
◇
最初に現れた隊商は四台編成。馬の腹は細く、帆布には雨の跡が黒く残っている。先頭の御者台から、筋の太い女が飛び降りた。
「おう、ここが在庫の谷か。昨夜、灯がいい縫い目だった。名は」
「リオ。聖遺物管理人。追放になりました」
「追放はいい肩書だ」女は笑った。「隊商頭、ミナ。塩、布、針、油。こっちは木灰。そっちは何を出す」
「今日の等価はこれ。豆・塩・釘・パン。それと、道普請なら入市税は大幅免除」
「道普請、面白い。うちの若いのに鍬を持たせてやる。入るぞ」
最初のやり取りは滑らかだった。等価札の盤にミナが指を伸ばし、札の穴を一つ二つ、僕が刻む。札は音を立てない。けれど、盤の上で約束の重みを持つ。
粥の湯気が風に流れ、子どもが笑い、豆が袋からさらさらと移る。
タイトは釘を十本ずつ束ね、リロが配膳を制御する。マーグは秤の近くに立ち、鈴を軽く指で押さえた。
問題は、三組目の商人が来たとき起きた。
小太りの男が布を胸に抱え、鼻を鳴らす。「札二枚で布一幅? 薄いじゃないか。前は一枚だったぞ」
「前?」僕は首を傾げた。「どこで」
「王都の市だよ。去年の秋、似たような札を見た」
僕は秤に手を添えた。
「主張は、札一枚で布一幅。その主張、秤に置きませんか」
男は面白くなさそうに布を台に置き、自分の札を一枚、皿に落とす。僕はもう一方の皿に、公開帳簿の該当欄と、今日は二枚の理由(雨で布の傷みが多く、仕入れ値が上がっていること)を書いた紙片を載せた。
秤の支点の舌が、すっと動き、水平で止まる。
「今日は二枚」
男は舌打ちしたが、肩の力を落とした。「……わかったよ。文句は布に言えってわけだ」
「文句は在庫に。布の在庫は、雨で軽くなりました」
鈴が一回鳴る。秤の前の列は、感心した顔で薄く笑う。言葉の喧嘩は、短いに限る。
◇
昼下がり。市は勢いに乗った。
隊商の若い者が道の穴を埋め、代わりに塩を受け取る。長屋の女たちが針を買い、古布で袋を縫う。子どもは豆を一粒ずつ拾って数え、札を光に透かして首を傾げる。
僕は札の穴を刻み続けた。穴は粉のように台に落ち、リロがそれを集めて火口に混ぜる。「よく燃えるんだ」
「燃えすぎないように。札の約束は火に弱い」
「燃やしたら倉庫が怒るんでしょ」
「怒るというより、減る。今日の旨味が、明日の不足になる」
秤の鈴が、もう一度鳴った。
見ると、若い男が札を二枚手に、塩を二つまみ掴んでいる。指の間から白い粒が落ちて、目が泳いだ。
「二枚は布か粥五杯です」
「手が滑った。これで一杯付けてくれ」
僕は秤を指さす。男は渋い顔で皿に札を置き、僕はもう一方に塩壺と匙を置いた。
舌は傾いた。
男が舌打ちし、しぶしぶ塩を一つまみ戻す。
そのとき、列の後ろから、別の手が伸びた。
札束を握った手。焼き跡のある札。角が煤け、穴は粗い。
「これは札だ。昨日、別の谷で受け取った。ここでも通るんだろう」
目つきは鋭い。口の端に笑いがない。
僕は札束の先頭を一枚、指先で弾き、光に透かした。穴は雑で、刻印の深さが足りない。何より、盤の上に置いたときの音が違う。良い札は紙でできているのに木の音がする。偽札は紙の音しかしない。
「通らない。刻印が違う。盤が受け付けない」
男の指が強張る。周りの空気が少し乾く。
マーグが一歩、前へ。タイトが棒を肩に。リロは鍋の柄を握ったまま、足を開いて立つ。
僕は秤に、偽札と、こちらの刻印器を置いた。秤の舌は、深く傾いた。
「これを燃やすなら、今日の市は半刻、止める。俺は説明する。みんなに。偽札の見分け方と、盤の音の違いを。――それは君の損だ」
男は一瞬、笑った。笑いの形だけが口元に乗り、目は冷たいまま。
「……焼くな。札は捨てる。代わりに労で払う。道普請でいい」
「半刻。鍬はあっち。終わったら、粥が一杯つく」
男は踵を返し、鍬を取った。背は広い。斜面の石が低い音を返す。
秤の鈴が、一回鳴った。
市は、また息を取り戻す。
◇
午後の陽は、幌の布越しに柔らかく、豆の鍋からは一日中、湯気が上がった。
眠らぬ街路灯は昼でも根元の舌を一目盛りだけ起こし、幌の陰の濃淡を均してくれる。年寄りの足元が見やすい。転ぶ人がいない。
隊商頭のミナが、帳簿の前で腕を組んだ。「税を数字で見せるのは珍しい。王都の門番に見せてやりたいよ」
「見せてもいい。公開は防具だ」
「防具?」
「嘘を跳ね返す。倉庫の灯がやることを、人間の言葉でやる」
ミナは呵々と笑い、塩と油を並べ直す。「じゃあ、こいつも公開だ。塩の仕入れ値と、雨での運賃割り増し。書いて釘付けにしてくれ」
僕は薄紙に数字を書き、釘で打つ。釘がいい音で板を貫く。
数字は、風の前で揺れない。揺れないものを、人は一度は嫌うけど、二度目からは頼る。
◇
日が傾く頃、鐘の音が遠くで鳴った。灯ではない。本当の鐘。
街道の向こうから、鎧の影が近づいてくる。布で覆った軍靴、割れた紋章、泥を飲んだ旗。
先頭の男は、鍛えた体を無理にまっすぐに立てている。肩が落ちない。目の奥は疲れているのに、歩幅は揃っている。
彼は砦の前で立ち止まり、僕に視線で挨拶してから、市の隅に視線を走らせた。灯、幌、秤、鍋、盤。
「……秩序がある」
声は低い。金属の奥から響く、鍛冶場の音みたいな声。
ミナが片眉を上げる。「客か? それとも税を取りに来た偉い人か?」
男は兜を外し、深く礼をした。
「失地騎士団、団長ガロン。……仕事を、ください」
市が、一瞬、静かになった。
リロが柄杓を持ったまま硬直し、タイトが棒の先を地面に軽く落とす。
マーグが僕を見る。僕は鍵を握った。歯が、微かに触れ合う。
秤の鈴が、一回、鳴った。
僕は頷く。「規律を売ってください。在庫で買います」
ガロンの目の奥に、火が入った。
市は、また息をした。鍋がぼこりと湯を吐き、豆の匂いが辺りを満たした。
◇
日暮れ。
最初の市は、過不足なく終わった。事故ゼロ、喧嘩一回(未発)、偽札一件(道普請で代替)。
僕は公開帳簿の下に、今日のまとめを書き添える。
《市#0001:成立。札流通:94枚(当番札含む)。交換:豆64/塩41/釘70束/布12幅/粥120椀。税:入市札片32/道普請参加17人(延べ半刻×17)。偽札:1束→破棄せず保管。秤使用:3件(成立2/差戻1)。事故:0。》
《補正案:札穿孔器の導入/屋台の列整理縄/鍋増設/長屋角の灯を+一握り》
倉庫の鏡面に、薄い文字が寄ってくる。
《在庫ログ#0005:終了。秤の副作用:渇き(記録者)。水摂取を推奨。
候補:等価札穿孔器(列速度+12%)/教育遺物“読み書き盤”(市の表示改善)》
喉が乾いていることに、ようやく気づいた。柄杓で水を飲む。体に重さが戻り、世界の輪郭がくっきりする。
遠くで風鈴が短く鳴った。夜が来る。眠らぬ街路灯の根元の舌を一目盛り起こし、見張り表を書き換える。
ガロンが鍋の前で粥を受け取り、礼をし、当番札を受け取った。
「規律は明日の朝から。まずは列だ。列は秩序の最小単位。……その前に、この粥の順番が先だな」
笑いが起きる。
僕は鍵を握った。歯の隙間に、小さな角がまた一つ、生まれていた。
説明は歯になる。歯は、次の噛み合わせを待っている。
灯が揺れ、湯気が立ち、豆の匂いが夜へ混じる。市の一日は、静かに、けれど確かに、在庫の中に記録された。
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