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第3話 一夜の堤──逆潮の杭が歌う

 雲は昼の輪郭を失わせるほど低く垂れ、谷の緑に灰色の膜をかけていた。空の底から、まだ遠い雷が二度、かすかに鳴る。


「測るぞ」


 僕は図板を抱え、北の斜面の水路へ降りる。濁りは消え、流れは細い糸のように蛇行している。マーグ、リロ、タイト、それに何人かの若い男たちが続く。

 杭の候補地には白い粉で印をつけた。安全距離を示す円を描き、子どもたちが踏み入らないよう、縄で囲う。


「なあリオ、逆潮の杭ってのは、どんな働きなんだ」

 タイトが額の汗を拭いながら聞く。


「水の向きを、一時的にだけ変える。杭を打った点を起点に、流れが杭へ吸い寄せられ、場所によっては押し返す。風に向かって歩くと胸が押されるだろう? あれを水でやる感じ。……ただし、時間制限がある」


「どのくらい?」


「今日の雨のピークを越えるまで――三刻。その後は徐々に弱まる。杭は勝手に沈黙する。だから使い捨てだ」


「使い捨て?」

 リロが目を丸くした。


「倉庫は、必要なときだけを好むからね」


 僕は水路に紐を渡し、勾配を測る。高いほうから低いほうへ。数字は思ったより優しい。谷の腹が生きている。

 図板に線を一本引く。杭の点が、三つ、四つ、五つ。

 最後に退避路を描き、見張りの位置を決める。


「説明します」


 全員が耳を傾ける。雨の匂いが濃くなる。僕は紙に書いた手順を読み上げ、公開帳簿に同じ内容を控えた。


「逆潮の杭の据え付けは五本。起点を甲、乙、丙、丁、戊とする。作動は上流から順に、合図で十息ずつ。安全距離は赤縄の外。子ども立入禁止。効果は三刻。停止後は杭を抜かない。抜くと逆流が起きるから。副作用は作動域での足のもつれと、軽い耳鳴り。合図は反射板三点の交信で取る。責任者は僕、共同責任者はマーグ。反対や懸念があれば、今、言ってください」


 沈黙。やがて、年配の女が手を挙げた。

「畑の若葉は持つかい」


「持たせる。水の向きを替えるだけで、畑に泥が乗らないようにする。……もし失敗したら、僕の等価札を全部出して補填する」


 タイトが吹き出し、すぐ真顔に戻る。「失敗しないほうに賭けるさ」


 マーグが短く頷いた。「やる」


 紙の下に、指印が並ぶ。倉庫が、胸の奥で低く鳴った。説明が承認され、手順が倉庫の頁に綴じられた音。

 僕は鍵を握る。回す。世界の紙が一枚、剥がれる。



 倉庫は、今日は重かった。

 棚の奥から、古い木箱が二つ、前に滑り出る。金属の匂いと、湿った地下水の冷気。箱の蓋には、青い刻印が埋め込まれている。未知の印でありながら、どこか懐かしい水の字の気配。

 蓋を外すと、杭が現れた。腕ほどの長さの黒い棒。表面に走る金属の螺旋が、見る角度で流れの向きを示す。打ち込むための鉄環と、作動を示す細い舌。

 名前は、箱の内側に浅く刻まれていた。逆潮の杭。

 もう一つの箱には、支度品が詰まっている。布巻き、楔、縄、そして印板。

 印板には、簡潔な安全図。作動範囲の楕円。子どもが楽しく塗り絵をしそうなほど、やさしい曲線。

 倉庫は、使い方の説明書まで用意してくる。僕はその律儀さに感謝しながら、箱を抱えて世界に戻った。


「出たのか」


「ええ。五本分、必要な支度もセットで」


「支度まで出るのかよ」


「倉庫は、現場に優しい」


 笑いが起き、緊張が少しほどけた。

 僕たちは杭の一本目、甲を上流の曲がり角に据える。杭の腹の螺旋を、流れの逆へ合わせる。

 槌を持つのはタイト。肩で息をしながら、タン、タンと打つ。金属音が厚い雲に吸い込まれる。

 杭は、最後の一寸で音を変えた。空気の芯が鳴る。

 僕は指で舌を押し、半ばまで起こす。杭の腹に薄い文字が走る。


《甲:準備完了 安全距離:十歩 作動許可:保留》


 同じ要領で乙、丙、丁、戊。

 最後の一本を打ち終える前に、最初の雨粒が頬を打った。

 冷たい。重い。

 空が、開く。



 斜面の上で反射板が光る。僕は砦から返す。光の点が三つ、揃った。

 合図。

 甲の舌を、カチと倒す。杭の腹に、青い線が走った。

 すぐに、流れが杭に寄る。水面がわずかに窪み、漂っていた葉が道を変える。

 乙作動。丙作動。

 水は、手首をひねったみたいに方向を替え、谷の中央を避ける。畝の端に作った土嚢はまだ乾いている。

 雨脚が増す。谷の縁が霞む。

 丁。戊。

 五本の杭の歌が重なり、流れは、短い間だけだが、意志を持ったように動いた。

 風鈴が、遠くで応じる。チリン。獣の鼻は、今夜、谷に届かない。


 僕は灯を低く点し、鏡面に薄文字を見る。


《在庫ログ#0003:逆潮の杭・五基作動。流量偏差:-28%→-41%。畝侵入泥量:推定0。副作用:軽度ふらつき2件(丁・戊)》


 数字は良い。

 だが、まだ終わりではない。



 雨は谷を叩く。空気は水で満たされ、声は布越しに聞こえるように鈍る。

 僕たちは交代で見張りに立ち、舌の角度を微調整する。ほんの一目盛りで、水の筋道が変わる。

 リロの髪が頬に張り付いている。マーグの額を流れる水は、汗か雨か区別がつかない。

 タイトが杭の脇で片膝をついた。

「頭がふわっとする」


「副作用だ。座って目を閉じて。耳鳴りは?」


「ちょっと」


「なら、三十数えたら戻る」


 耳鳴りは三十で戻った。タイトは笑い、「半斤のために死ねねえ」と言って立ち上がる。

 笑い声が雨に薄まる。

 その時だ。谷の上の林で、乾いた音がした。木が折れる音ではない。弦だ。

 僕は反射板を翳し、丘の見張りに合図を送る。返礼の光はない。

 雷鳴に紛れて、丘の向こうに影が走った。

 昨日の密偵とは違う歩き方。数が多い。盗賊か。あるいは、宰相派の別働か。

 狙いは、谷の舌だ。杭の作動を止められれば、水は畝へ流れ、混乱が起きる。混乱は、略奪の合図になる。


「マーグ、リロ、タイト、丁へ。僕は乙を守る。戊の見張りに合図して、鐘を鳴らしてもらって」


「鐘はないぞ」


「風鈴がある」


 リロは頷き、南の丘へ走る。タイトはマーグを肩で押して前へ出る。

 僕は乙の杭の舌を少しだけ上げた。水の道が刃のように細くなり、向こう岸の泥が剝がれる。足場を悪くするためだ。

 雨の帳を割って、三つの影が現れた。顔を布で覆い、刃を泥に向けて低く走る。

 僕は灯を覆い、鏡面をわずかに開く。男たちの影に薄い文字が浮かぶ。


《収支の歪み:借財/命令系統の不明/酒の欠乏》

《収支の歪み:傭兵契約の破棄/食糧の不足》

《収支の歪み:なし(偶発参加)》


 殺す必要はない。足を止めればいい。

 僕は杭の舌を一目盛りだけ下げる。流れが乙の前で渦を作る。

 先頭の男が足を取られ、泥に滑る。二人目が助け起こそうとして、同じ泥に膝を取られる。

 その瞬間、丘の上で風鈴が鳴った。

 チリン。

 チ……リン。

 低い二音の間。合図。

 南の丘、戊の見張りが返す。

 チン。

 谷の上に、風の網がかかる。盗賊は顔を上げ、音の方向を探そうとして、足元の泥を忘れ、また滑る。

 タイトが棒を振るった。刃ではない。木の棒は男の手首を正確に叩き、刃を泥に落とさせる。マーグは足をすくい、肩で押し倒す。

 リロが叫ぶ。「入るな! 赤縄の内側は逆流する!」


 盗賊の一人が縄を跨ごうとして、耳を押さえた。小さな耳鳴りがバランスを崩す。彼は縄の手前で座り込み、吐き出すように息をついた。

 争いは短かった。雨は何も言わない。

 男たちは逃げた。最後に振り向いた一人が、泥に落ちた刃を拾わなかった。拾えなかったのだろう。

 僕は乙の舌を元に戻した。渦はほどけ、流れは再び歌を取り戻す。



 雨量は極に達し、そこからゆっくりと細っていった。

 三刻。

 杭の腹の青い線が弱まり、舌の下の印が暗くなっていく。

 畝は、立っていた。

 水は、畦を越えなかった。

 風鈴の音が、遠くで嬉しそうに鳴った。


 僕は灯を見た。鏡面には、薄い報告が踊っている。


《在庫ログ#0003:終了。畝侵入泥量:0。被害:なし。副作用:軽度耳鳴り4件、ふらつき3件。敵対接触:1件(未損耗)。補正案:次回、戊の位置を-2歩後退》


 マーグが泥だらけの手で僕の肩を叩いた。

「やったな」


「みんなで、やりました」


 タイトが腹を押さえ、「腹が減った」と笑う。

 リロは風鈴の短冊を撫で、頬を上気させている。雨の跡が涙に見えた。


「市場、明日もやる?」

 リロが尋ねる。


「やる。今日の労を、等価札に刻む。半斤じゃ足りないなら、豆を足す。水路の上に橋もいる。子どもが通れるやつ」


「私が測る!」

 リロが胸を張る。マーグが笑い、肩をすくめる。


「相手が人のとき、どうしてわざわざ棒で叩いた」

 マーグが、さっきの立ち回りを言う。


「刃は、在庫にならないから」

 僕は答えた。

「傷は借金になる。返すのに時間がかかる。棒なら、今日の話で終わる。……終わらない相手もいるけど」


 マーグは黙って頷いた。

 丘の上、反射板が最後の合図を送る。終わりの合図。

 僕は返し、灯を覆った。



 夜、雨は止んだ。

 砦の中庭では、濡れた板の上にパンと豆が並び、人々が等価札を円盤の上に置いては、受け取っていく。

 子どもが札を透かして見て、光の中に見えない価値を探している。

 西丘のタイトが、今日二度目の半斤をもらって照れ笑いをした。

 南の丘の見張りがやってきて、風鈴の短冊を撫でて帰った。

 マーグは公開帳簿を長屋の壁に張り、濡れた紙の角を釘で押さえた。誰でも読める位置。誰でも指を置ける高さ。


 その輪の外、砦の門の影から、昨日の密偵がこちらを見ていた。

 彼は革鎧を脱いでいた。肩の力は抜け、顔から怒りが抜けている。

 僕は彼の前に半斤のパンを置いた。等価札の盤も一緒に。

 彼は黙って札を受け取り、パンを二口、よく噛んでから言った。


「俺は、帰る。賃金は、もうどこにもない。あんたが言った通りだ」

「帰り道で、誰かに会ったら伝えて。『谷は、在庫で守る』って」


 彼は笑いも怒りもしない顔で頷き、空を見上げた。雲は切れ、星がいくつか、湿り気の上に明滅していた。



 深夜、砦の隅で灯だけを低く点し、僕は鍵を広げて歯を数えた。

 欠けていたはずの場所に、微かな出っ張りが生まれている。今日、説明した手順が一本、歯になった。

 倉庫は、説明に応じる。説明を求める。

 ――なら、僕は毎日、説明する。

 在庫が納得し、人が納得するまで。


 灯が静かに揺れ、鏡面に新しい候補が薄く浮かんだ。


《候補:眠らぬ街路灯(夜間巡回・士気維持・事故減少)》


 胸が、軽くなる。

 谷には夜がいる。眠りと見張りの折り合いをつける灯り。

 明日はそれを出す。

 夜を、安全にする。


 僕は鍵を握り、目を閉じた。雨上がりの石の匂い。新しい泥の匂い。遠くの風鈴が、もう一度、短く鳴った。


「在庫、合っています」


 誰にともなく、囁く。

 倉庫は応えるように、歯を一つ、きらりと光らせた気がした。


――――

読んでくれてありがとう!面白かったら**ブクマ&☆☆**で在庫に応援をください。次回「盗賊、無血の撤退──眠らぬ街路灯」へ。

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