第2話 畑を守る風鈴──音で害獣を封じよ
砦から谷へ下る小道は、朝露で白く光っていた。
谷底に、畑があった。ひび割れた用水路、踏み荒らされた畝。人影が三つ四つ、遠くで小さく動く。
近づくと、年配の男が鍬を杖にしてこちらを睨んだ。背は曲がっていない。目がまだ戦える。
「流れ者か。砦の火を見たぞ。盗賊なら、くるぶしから折ってくれる」
「流れ者ですが、盗賊ではありません。昨日、砦で一夜を。……畑、荒らされたんですね」
男は鼻を鳴らす。そばで水汲みをしていた少女が、桶を抱え直した。髪に縄で結った白い布。腕は細いが、手の皮は固い。
「**灰鼬**がね。夜、群れで来る。臭いを撒いて畝を踏み荒らす。罠も効きゃしない。おまけに用水が詰まりかけてる。雨が来たら土が流れちゃうよ」
少女が早口で言い、男が眉を上げる。
「……うちのリロは口が軽い」
「軽いのは被害。口が重ければ畑は戻らない」
僕は砦で拾った棒の頭を地面に刺し、布包みから種唄の風鈴を出した。
透明な玉に朝の光が差し込み、短冊の白木が柔らかく光る。男が息を呑む。
「遺物か。……おい、そんな貴重品、勝手に持ち歩いていいものか」
「説明責任を果たせば、持ち出して使える決まりです」
「は?」
「ええと、簡単に言うと――この遺物が何をし、どういう手順で、どの範囲に効果があり、何を期待して、何を期待しないか。全部、僕が記録して、あなた方にも説明する。そのうえで、この場の責任者が同意するなら、遺物は働きます」
男は目を細めた。
「説明をしなければ?」
「倉庫は僕に貸してくれません」
言って、自分でも可笑しくなる。けれどそれは本当だ。倉庫は気まぐれな神ではないが、手順を美しく欲しがる。
僕は肩から鞄を下ろし、薄い板に紙を挟んだ。砦の灯の鏡面に浮かぶ記録機能を使えれば早いが、ここで光るものをむやみに見せるのは得策ではない。まずは紙だ。手で書く。人は手で書かれた文字に安心する。
「名前を。畑の代表者を」
「この谷の組の長だ。マーグって言う。こっちは姪のリロ」
「リオです。聖遺物管理人。追放になりました」
ぼそりと言うと、マーグの眉間がほどけた。
「……世の中だな。で、その風鈴は何をしてくれる」
「これで灰鼬の行動ルートを変える。完全に遠ざけるのは難しい。けれど畝や水路に入らないよう、谷の縁に“見えない柵”を立てられる。副作用は強い音の連打で人が軽い頭痛を覚えること。だから、鳴らし方の手順があります」
紙の上に、符号と図を描く。谷の等高線と風の通り道、鳴らす音の高さと間、据え付けの向き。
リロがじっと覗き込む。指の節を土で黒くした手が、紙の端を押さえた。
「……三つ置くの?」
「はい。谷の北・西・南に一本ずつ。東は崖で獣が入れない。鳴らすのは夜のはじまりと、夜中の一度だけ。風が止む日だけ、低い音を足す」
「やれるよ。私、夜は強いから」
「待て、リロ。夜に女の子を出せるか」
「マーグさん、据え付けは僕がやります。鳴らすのは交代制にしましょう。当番札を作ります」
「当番札?」
僕は布包みから等価札を取り出した。昨日、倉庫が生成した新顔だ。
針のない金属盤と木札。木札には刻印を押せる空欄がある。
「労の記録票です。『誰が、いつ、何を、どれだけ』したか。紙より腐りにくい。村の共同で使う。これを持つ人は、この谷の市場でパン一斤や塩ひとつまみに交換できる……ように、あとで市場を作る予定です」
「あとで?」
「ええ。今日は畑。明日は水路。市場は三日目か四日目。順番があります」
言いながら、胸の奥で鍵が小さく震えた。説明が一本、倉庫に刻まれる感触。
僕は風鈴を棒の先に結び、谷の北側の丘へ向かった。リロが桶を置いてついてくる。マーグは渋い顔で見送っていたが、やがて後ろから足音が増え、若い男二人が鍬を肩に現れた。
「親方。手伝う」
「勝手に親方にするな」とマーグが苦く笑う。「だが、手は多いほうがいい」
◇
北の丘は、乾いた草が腰まで伸びていた。見晴らしが良い。向こうに林の影、枯れた小川の跡。灰鼬が好きそうな薄暗い帯。
僕は棒を地面に差し、風鈴の位置を調整する。音は高さで届く距離が変わる。
短冊が風を拾った。
チリン。
低い。谷を撫でる音。もう一度、指で短冊の角度を変える。
チリ……ン。
余韻が長く伸び、草むらの端で何かがもぞりと動いた。影が二つ、ゆっくり方向を変え、林のほうへ。その動きは焦っていない。恐れではなく、気を変える程度の誘導が理想だ。
僕はマーグに合図した。
「西へ」
◇
西の丘は、谷の出入口だ。畦道が狭く、獣が通るのにちょうどいい溝がある。そこに風鈴の二つ目を据える。
若い男が、鳴らし方を覗き込んだ。名はタイトと名乗った。腕が太く、笑うと子どものように目尻が下がる。
「合図はどうする。夜中、丘から丘まで声は届かん」
「灯を使います」
鞄から帳簿喰いの灯を出しかけて、やめた。昼間の畑で監査の灯を大っぴらにするのは、まだ早い。
代わりに僕は小さな反射板を作った。鍋の蓋の裏に磨きをかけ、火を小さく揺らして光の点滅で知らせる。
タイトが楽しそうに頷く。「合図番、俺がやる」
「では当番札に刻印を。タイトさん、今夜は西の鳴らし手。報酬はパン半斤。夜は冷えるから、上着を忘れないで」
「パン半斤……」
タイトの喉仏が動いた。マーグが低く笑う。
「こいつは腹が出てるからな。半斤で足りるか」
「等価札は溜まると一斤にもなります。明日の朝、市を臨時に開きます。パンの代わりに、豆でも」
「豆なら出せる」とリロが嬉しそうに言った。
◇
南の丘は、村の墓地の上だった。石が並び、木の十字が風に軋む。ここだけ空気が違う。
僕は帽子を取り、遺物に低く礼をした。
「ここには、昔、僕の知っている風鈴が一つ、長いこと掛けられていました。戦の年、村を守って、割れました」
リロが驚いた顔を向ける。「どうして知ってるの」
「倉庫は、記録を全部、持っているから」
南の風鈴は、反響で音が大きくなる。副作用の頭痛が出やすい。僕は短冊に布を巻き、音の輪郭を柔らかくした。
試しに一度鳴らす。チン。軽い。骨に響かない。
「これなら大丈夫」
マーグが口の端を上げた。「お前さん、ただの遺物持ちじゃないな」
「ただの在庫管理です」
僕は笑って、紙に三つの風鈴設置図を完成させた。
最後の欄に、細い字で責任者と手順、期待する効果、副作用、中止の判断を書き込む。
在庫ログ#0002:種唄の風鈴・三基配備。鳴動手順A。目的:灰鼬の畝侵入率を七割以上削減。記録者:リオ。共同責任者:マーグ。
紙をマーグに手渡す。男は真剣な目で読み、親指の腹で印を押した。
「読めるのか?」
「字は読める。昔、奉公で覚えた。……この紙は谷の長屋に貼る。誰でも見られるようにな」
「公開帳簿。いい習慣です」
◇
日が傾き、最初の夜が降りてきた。
丘に据えた風鈴が、順に鳴る――北、西、南。チリン、チリ……ン、チン。
谷の空気が、わずかに組み替わる。風の通り道が一段浅くなり、獣の気配が谷の縁で躊躇する。
僕は砦の上に立ち、反射板で目印の点滅を送った。西の丘で小さな火が揺れ、タイトの影が手を振る。
――最初の一時間、畝の端は静かだった。
やがて、林から鼻を擦る音が来た。灰鼬だ。十、十二、数え切れない。群れが谷の底を覗き込み、鼻をひくつかせ、音の気配に気づく。
北の風鈴が二度、規定どおりに鳴った。灰鼬の頭が同じ方向に傾き、群れは左に切れる。
西の風鈴が一度、短く鳴る。灰鼬は畦道の溝に足をかけかけ、やめた。別の道を選ぶ。
南の風鈴が低く答える。墓地の木々がざわめき、灰鼬は林のほうへ、飽きたように去っていく。
畝は踏まれなかった。水溜りは濁らなかった。
マーグの肩が、目に見えて下がった。リロは両手を胸の前で合わせ、足踏みした。
「やった……!」
「まだ一晩目です。明け方にもう一度、巡回を。音がずれていたら調整します」
僕は砦へ戻り、灯を低く点す。鏡面に薄い文字が浮かぶ。
《在庫ログ#0002:実行中。侵入痕:0/12。副作用:軽度頭痛1件(西丘当番)。補正:短冊角度-5°》
西丘のタイトが額を押さえて笑っている姿が浮かぶようだ。明日、短冊に布をもう一巻き足そう。
灯の下で、僕は紙に当番表を書いた。リロ、タイト、マーグ、ほかに志願した二人の名。
等価札の盤に、きちんと刻印を入れる。当番一回=半斤。夜の見回り追加で塩一摘み。
それは、誰かにとっては少ない報酬かもしれない。けれど約束だ。明日の市場を開くための、信用の小さな芽だ。
◇
夜半。
砦の石の隙間から、低い笛のような音がした。風ではない。
僕は身を起こし、灯を覆う。明かりを紙一枚ぶんだけ漏らす。
砦の外壁の影に、人の影が一つ。灰鼬のように低く、壁を撫でるように動く。盗人か、偵察か。
胸の奥で鍵が、小さく……違う。硬く鳴った。倉庫の別の棚が微かに軋む音。
耳を澄ます。外の影は、用水路のほうへ向かう。汚水の溜まる北の斜面。臭気が獣を呼ぶ場所。
そっと砦を出る。足音を石の継ぎ目に落とし、影の後ろへ回り込む。
薄い月明かりに、革鎧の肩が浮かんだ。肩紐に、王都の小さな紋章。
彼は用水路に手を突っ込み、石を抜こうとしていた。詰まりを作るつもりだ。水が腐れば、畑はまた匂いを放つ。獣が戻る。風鈴が柵を作っても、内側が腐れば終わりだ。
「――何をしてるんです」
僕は声をかけなかった。代わりに、石を拾って水面に落とした。彼がびくりと肩をすくめ、振り向く。
僕は彼の背後に立っていた。帳簿喰いの灯を、革の袋ごしにそっと開いた。
光は漏れない。鏡面だけが彼の影を舐め、薄い文字を僕に見せる。
《収支の歪み:賃金の未払い/命令系統の虚偽/身分偽装》
――王都の密偵。賃金を払われず、騙されてここへ来た。
僕は石をもう一つ、水に落とした。音に乗せて、低い声を作る。
「水が濁る。獣が来る。君も噛まれる。……どうせ賃金はもらえない」
男はわずかに身を固くした。
逃げる気配はない。腹が決まっていないのだろう。その隙に、僕は選択肢を渡す。
「明日、谷で市場を開く。パン半斤。労の札で。水路の石を戻すなら、札を一枚、君に渡す。戻す気がないなら……風鈴の音は獣を遠ざけられるけど、人の足音は遠ざけられない」
男は舌打ちし、手を引いた。
水路の石は、戻った。
影が林へ消える。
僕は灯の鏡面を覗く。歪みの文字は薄れていなかった。彼が抱える問題は、今日のパンでは終わらない。
けれど、谷の水は守られた。今夜は、それでいい。
◇
明け方、風鈴の最後の鳴動が過ぎ、谷に鳥の声が戻る。
砦の上から畑を見下ろすと、畝の線は昨日と同じ位置にあった。足跡は外側で途切れ、用水に濁りはない。
マーグが両手を腰に当てて笑った。笑うと十歳若く見える。
「一晩、畝が生きたのは何日ぶりだろうな。……谷の者、集める。朝のうちに市場をやるぞ」
「臨時です。豆とパン、それから釘と麻紐。等価札との交換を見せます。見張りも一人つけてください。札を焼くやつが必ず出る」
「焼く?」
「価値は、約束です。見えないものは、時々、燃やしたくなる」
リロが首をかしげる。「燃やされたらどうなるの」
「倉庫が怒る」
「倉庫が?」
「怒ると言っても、雷が落ちるわけじゃない。……在庫が減るだけ。必要な時に必要な物が出てこない。怒りの形は、いつも不足です」
リロは真剣に頷き、当番札を胸に下げた。「焼かせない」
「ありがとう」
僕は鍵を握る。歯が一つ、わずかに伸びた気がした。
倉庫は説明を受け取り、手順を納得した。
今日の生成枠は、畑と水路の次の一手に使う。杭が欲しい。水の向きを一時だけ変える杭――逆潮の杭。
倉庫の奥で、昔見た鋼の青がちらりと光った気がした。
◇
臨時市場は、砦の中庭で開いた。
薄い板を並べ、豆の袋、焼けたパン、塩の壺。等価札の盤が中央に置かれ、僕は一枚一枚、刻印を押した。
誰かが笑い、誰かが疑い、誰かが札を光に透かして見た。疑いは正しい。正しく疑うことは、信用の最初の友だ。
西丘のタイトが当番札を差し出し、パン半斤を受け取る。頬張って、涙目になって笑う。
「うめえ……」
彼の笑いにつられて、子どもたちが寄ってくる。リロが豆を計って配り、マーグが監視する。
その間、僕は短冊の角度を**-5°調整し、南の風鈴の布巻きを一巻き増やした。
砦の門の外では、昨日の密偵が、林の影からこちらを見ていた。彼は何もせず、ただ見ていた。やがて、肩の力を抜き、街道のほうへ歩いていった。
収支の歪みは、すぐには消えない。けれど彼の足は、今は谷を出る**。それでいい。
市場がひと段落した頃、空の端に雲が溜まり始めた。重い、熱のある雲だ。
マーグが空を睨む。「今夜、降るか」
「降ります。だから、今日の午後は水路です。詰まりを取って、堤を補強する。……それから、もし間に合えば」
「間に合えば?」
「一夜の堤を、立てる」
マーグが目を丸くする。「一夜で?」
「一夜で。杭があれば」
胸の奥で、鍵が静かに鳴った。倉庫が、遠い棚の奥で、重い箱を少しだけ前に出す音。
僕は灯を手に取り、鏡面に小さく問いを投げた。光が薄く返る。
《在庫:生成スロット 本日0/1 未登録遺物:0 候補:逆潮の杭(準備手順:水路測量・杭位置図・安全距離)》
準備手順が先に出た。倉庫は、僕より先に段取りを知っている。
僕はうなずき、紙を取り出した。測量の図を描き、杭の位置に印をつける。
リロが不思議そうに首を傾げる。「何を描いてるの」
「説明。杭を出すには、まず説明がいる」
「倉庫に?」
「倉庫に。――そして、みんなに」
午後の陽が砦の壁を白く照らす。
風鈴は、静かに鳴った。谷の空気は、昨日より少しだけ強くなっている。
僕は図板を抱え、谷の北の斜面へ歩き出した。雲は厚く、遠雷がかすかに鳴った。
在庫と、説明と、少しの勇気。
それだけで、二日目を始めるには十分だ。
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