表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/25

三 : 取るに足らない小者の戦い方 - (2) 狼煙、上がる

 東海道をゆるゆると東へ進んだ家康は七月二日に江戸へ到着。奥羽の諸将達に指示を出したり中山道から合流する諸将の到着を待ったりと江戸に暫く滞在。十九日に嫡男・秀忠を大将とする部隊を先発させ、自らも二十一日に江戸をった。

 片や、家康の居なくなった畿内では七月に入り俄かに慌ただしくなってきた。上杉征伐に加わるべく東に向かっていた大谷吉継は途中石田三成の求めに応じて佐和山城を訪れ、その場で家康打倒の兵を挙げる事を明かされた。これに対し吉継は『お主では内府様に勝てない、無謀だ』と思い留まるよう説得するも、直江兼続がこの件に一枚噛んでいると知らされて翻意ほんいさせるのは無理だと諦めた。そして、『お主は嫌われているから安芸中納言(毛利輝元の通称)か備前宰相(宇喜多秀家の通称)を旗頭にし裏方に徹しろ』と助言を送ったとされる。但し、この逸話を裏付ける史料は存在せず、後世の創作の可能性もある。

 七月十二日、長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行は国許に帰っていた毛利輝元へ大坂に来てもらいたい旨の書状を送付。これを受け輝元は十五日に広島を出発し大坂へ向かった。この頃、三成も秘かに大坂へ入って家康討伐の下準備に奔走していたと思われる。

 そして――慶長五年七月十七日、三奉行は家康の専横を糾弾きゅうだんする『内府ちが()の条々』を諸大名へ発布はっぷ。同日、家康から大坂城西ノ丸の留守を預かっていた佐野綱正(つなまさ)を、輝元に先んじて大坂入りしていた毛利家一門・毛利秀元が追放。これにより豊臣家中枢は家康討伐に向けて動き出した。

 家康が天下を掴むか、誰かがそれを阻止するか。日本全土を巻き込む大戦おおいくさの火蓋が切って落とされた――。


 大坂から『内府ちがひの条々』が届いたのを境に、怒涛どとうの勢いで高次の元に情報が次々と飛び込んできた。

「遂に、この時が来たか……」

 翁と二人きりの場で、高次は呟いた。手には家康を弾劾だんがいする書状が握られている。十三ヶ条に渡って家康の専横を批難し、家康討伐に加わるよう呼び掛けられていた。

『・五大老と五奉行の間で誓紙を交わしたのに、奉行二人を失脚させた。

・前田利長は無実を主張していたのに、人質を取り追い詰めた。

・他の大老や奉行にはからず、家康の独断で大名に領地を与えた。

・豊臣家のものである伏見城を自分のものにした。

・多くの大名と勝手に誓紙を交わしたこと。

・北政所様の御住まいである大坂城西ノ丸に入っていること。

・西ノ丸に勝手に天守を造ったこと。

・諸大名から預かっている人質を自らと懇意にしている者達は勝手に国許へ帰らせたこと。

・秀吉の遺命に背き複数の婚姻を結んだこと。

・大老五名でまつりごとり行わなければならないのに家康一人で決めていたこと。』

 羅列される事柄は秀吉の死後以降追及されなかったものばかりだ。家康の反発を恐れて触れられなかったのに畿内を離れた途端にてのひらを返す変わり身の早さには高次もやや呆れる。

「ここ数日で一気に事態が動いたのは、やはり水面下で調整していたからか」

「はい。この条文も一朝一夕いっちょういっせきで考えられたとは思えません。内府様に対抗出来るだけの勢力をまとめ上げたのは治部殿の手腕が大きいでしょう」

 昨年の襲撃事件で失脚させられた三成だが、亡き秀吉も認めた能力の高さは衰えていない。それどころかキレが増しているようにさえ感じる。トントン拍子に家康討伐の機運を醸成じょうせいさせたのは五奉行の事実上筆頭だった三成にる所が大きかった。

りながら、治部殿は少々急ぎ過ぎました」

「……あぁ」

 痛ましい表情を浮かべる二人。三成は反家康の狼煙のろしを上げると同時に諸大名へ家康方に加わらないよう圧力を掛けたのだが、ここである悲劇が起きた。

 大名達から豊臣家へ謀叛を起こさない証として妻子を人質として大坂に住まわせていたのだが、挙兵に当たり三成は諸大名の屋敷から大坂城へ身柄を移そうとした。特に、上杉征伐に参加した諸大名の妻子は家康からの離反を促すべく優先して確保に動いた。

 緊迫する情勢の中、長岡忠興の屋敷で騒動が起きた。

 忠興の妻・ガラシャは名の知れた人物だった。元の名は“玉”、“ガラシャ”は吉利支丹キリシタンとなった際の洗礼名だ。父は明智光秀、天正六年八月に信長の仲介で忠興に嫁いだ。光秀と忠興の父・藤孝は元幕臣で仲が良く、両家の結び付きをより強固にする狙いが込められていた。同じ永禄六年生まれの二人は天正七年に長女、翌天正八年〈一五八〇年〉に長男を出産するなど、夫婦仲はとても良好だったが――天正十年六月二日、光秀が本能寺の変を起こすと状況は一変。光秀の寄騎的位置付けだった藤孝と忠興はそれぞれ剃髪し中立を逸早く表示、問題は玉の扱いだ。謀叛人の娘とは離縁し関係を絶つのが定石だったが……その美貌と聡明さから溺愛できあいしていた忠興は領内にかくまい、一時的な別居を選択した。二年後には忠興の元に戻るも、この時期にキリシタン大名の高山“右近”重友から聞いた耶蘇やそ教(キリスト教)の話を忠興伝てから聞いたのをキッカケに、耶蘇教に興味を抱くようになる。天正十五年、玉は強い希望もあり受洗。これより少し前に秀吉が伴天連バテレン追放令を出し耶蘇教は禁教となっていた為に忠興は棄教ききょうするよう勧めたが、ガラシャは頑として拒んだ。

 忠興は千利休から茶の湯の才を認められ和歌や能楽のうがくにも造詣ぞうけいが深い文化人だったが、ガラシャを異常な程に愛し束縛していた。彼女の美しさを他人の目に触れさせたくないのが理由で、屋敷の木の手入れをしていた庭師がうっかりガラシャを見てしまった為に激昂げっこうした忠興はその場で手討ちにした……という逸話がある程だ。忠興は今回の上杉征伐に際し、自らが不在の間にガラシャの身に危険が迫った場合は『(キリスト教の教えで自殺は認められていないので)ガラシャを殺し、屋敷に火を放った上で全員自害しろ』と留守居の者達にきつく命じていた。まさしく常軌じょうきいっした“嫉妬しっと深さ”だ。

 七月十七日、三奉行による『内府ちがひの条々』が発せられた日に、ガラシャの身柄を押さえるべく長岡屋敷を兵が取り囲んだ。このままではとらわれるのは必定ひつじょうという絶望的な状況に、ガラシャは留守居の家老・小笠原少斎を呼んで介錯かいしゃくを頼んだ。少斎はガラシャの胸を刺し、忠興が命じた通り屋敷に火を放ってから自害。長岡屋敷は予め用意してあった火薬に引火し、爆発炎上した。

「確かに、上杉征伐に加わっている者達の妻子を人質に取るのは悪い手ではありません。しかしながら、大坂城へ連れて行くのはいささか強引過ぎました。ガラシャ様のように追い詰められて自害される事や負けを承知で抵抗される事が予想されますから。ある程度の犠牲を呑んだ上で断行すれば多少なりとも効果はあったでしょうが、治部殿はガラシャ様の一件で明らかに腰が引けてしまわれどっちつかずの対応に切り替えられてしまわれた。その結果、敵の戦意は高まり、治部殿の評判は落とされた」

 人質にする予定だったガラシャの死及び長岡屋敷の顛末てんまつに、反家康の面々も動揺。これ以上の犠牲者を出す事態になれば脅しどころか反骨心をあおる結果になりかねないとして、大坂城への収容を諦め屋敷の外を厳重に囲い逃れられないよう見張る方針に転換せざるを得なかった。家康に味方するのは損だと揺さぶりをかける当初の目的は大きく後退し、上杉征伐に参加した大名の妻が国許へ逃れる例が幾つも出る事になる。

 高次の妻・初は上杉征伐が始まると大津へ移っていた。これは高次に限った話ではなく、真田昌幸の嫡男・信幸の妻である小松姫も沼田に戻っており、この件については『内府ちがひの条々』でも指摘されている。もし大坂に留まっていれば初に怖い思いをさせていたと思うと、胸が張り裂けそうになる。

「他人の不幸をいたんでばかりもいられません。我等にも間もなく対応を迫られます」

 翁の言葉に、険しい表情で頷く高次。

 相手方の陣容がまだ見えないが、それが固まり次第東へ兵を進めるのは確実だ。第一目標は鳥居元忠が守る伏見城、その次は高次の大津城だ。近江は豊臣家の蔵入地もあるが佐和山の石田三成・水口の長束正家など敵方ばかり、家康に味方しているのは高次くらいで、戦となれば孤立無援になるのは明白だ。

「伏見城にはどれ程の兵が籠もっているか?」

 高次が気になるのは、第一の防衛線である伏見城の守りだ。

 三成が挙兵すれば先ず最初に畿内から家康の影響力を排除して弾みをつけたいだろうし、家康も東国から戻るまでの時間を稼いでもらいたい思惑がある。そして、高次も敵が押し寄せるのは一日でも遅い方がいいので、伏見城の動向は特に注視していた。

 しかし、翁の表情は暗い。

「大坂城西ノ丸を退去させられた者達も合流しましたが、それでも二千前後かと……」

 明かされた数字に、高次は愕然がくぜんとした。徳川家だけで六万を超す兵を動員出来るのに、たった二千とは。これでは見捨てられたようなものではないか。

 可能な限り長く持ちこたえて欲しい高次だが、徳川家の方にも事情があった。

 六月十六日、大坂から出陣した家康は伏見城に入ると、その日の夜に守将の鳥居元忠と二人きりで酒をみ交わした。駿府へ人質に出された際にも同行した股肱の臣とは思い出話に花を咲かせたが、夜も更けてくると家康が置いて行く兵の少なさを詫びると、元忠は『これからの戦で勇士は一人でも多く必要ですからこれで充分』と答えたとされる。

 徳川家から見れば美談かも知れないが、その次に控える大津城の高次からすれば敵の進軍を遅らせる為に、もっと兵を入れておいてもらいたかった。完全な誤算である。

「……どれくらい持ちこたえられると思う?」

「相手の規模にもよりますが、四・五日耐えれば上出来かと」

 言いにくそうに答える翁。それを受け、高次は思わず天を仰いだ。

 いつ開戦になるか、どれくらいの軍勢になるかまだ分からないが、予想される顔触れから数万は下らないだろう。二千程度では間違いなく相手にならない。元忠もやれる限りは抵抗するにしても、大津へ敵が迫るのは時間の問題だ。

 上杉征伐が発表されてから、高次もきたるべき戦に向けて準備は進めてきたつもりだ。しかし、現状ではとてもじゃないが間に合わない。城の守りを固めるのも、兵糧や弾薬を揃えるのも、兵を集めるのも、まだまだ途中の段階にある。今日明日に来ないとしても、一月後に戦えるかと言えば、難しい。

 このままでは、家康の求めに応えられない。厳しい現実を前に、高次は一つ重たい溜め息をいた。

「……殿」

 心中を察した翁が声を掛ける。我に返った高次はパンパンと両手で両頬を叩いて気合を入れると、明るい表情で答えた。

「まだ始まっておらぬのに落ち込んでどうする。やれる事を一つ一つやろうではないか」

 自らへ言い聞かせるように語る高次に、翁もにこやかに応じた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ