二 : 自らの意志 - (6)戦雲来る
上杉“前権中納言”景勝、弘治元年〈一五五五年〉十一月二十七日生まれで四十六歳。長尾政景(上田長尾家、謙信の越後上杉家とは別)の次男に生まれ、母・綾が謙信の姉という血縁の近さから謙信の養子に入った。始め“顕景”と名乗り天正三年〈一五七五年〉に“景勝”と改名、但し嫡男の扱いは受けていなかった。永禄十二年に北条家と同盟を結ぶに際し人質として越後に送られ、北条家から人質に送られた後に謙信の養子となった“景虎”という対抗馬が存在した為だ。謙信は二人を競わせて器量を見定める方針だったが――天正六年〈一五七八年〉三月九日、春日山城の厠で倒れた謙信は昏睡状態となり、そのまま目を覚ますことなく三月十三日に死去した。謙信が生前に後継を明言しなかった事から、上杉家は跡目を巡り内紛が勃発する。
当初こそ優位に事を進めていた景勝だが、有力家臣の大半が敵に回る上に武田勝頼もこの事態に介入し、一転窮地に立たされた。この状況に景勝は勝頼に大幅な譲歩を提案し、何とか乗り切った。年が明けた天正七年〈一五七九年〉三月二十四日には景虎は妻と共に自害。これで家督を巡る争いは終結した。
しかし、織田家の積極的な攻勢や家臣の離反、さらに同盟を結んだ武田家が滅亡するなど、天正十年六月には絶体絶命の窮地を迎えた。滅亡をも覚悟したが、本能寺の変で信長が横死した事により何とか危地から脱した。
秀吉とは早い段階から誼を通じ、天正十四年六月に上洛した景勝は秀吉の臣下となった。後顧の憂いを絶った景勝は越後再統一を皮切りに庄内地方・佐渡を相次いで奪取した。
嘗て“軍神”と崇められた謙信の薫陶を受け鍛え上げられた将兵に度重なる逆境を撥ね除けた景勝は、信義に厚い性格もあり五大老に名を連ねるに相応の実力と格を有していた。
その景勝だが、会津移封から近隣勢力と摩擦を起こしていた。
豊臣政権下では、転封する際は徴収した年貢の半分を新たに移封してくる者の為に残しておく不文律があった。しかし、慶長三年に上杉家が会津へ移る際には全ての年貢を持ち出し、後任の堀秀治はとても迷惑を蒙った。これは景勝から全幅の信頼を寄せられ家宰を取り仕切っていた直江(旧姓樋口、天正九年に直江家へ婿養子に入り改姓)兼続が懇意にしていた五奉行の石田三成に諮った上で実行しており、秀吉もこれを黙認していた。会津は伊達政宗や最上義光など油断ならない勢力の監視や関東の徳川家康を牽制する難しい立ち回りが求められ、本意ではない転封を受諾してくれた上杉家への感謝料も含まれていたものと考えられる。秀治は景勝に持ち出した年貢の返還を求めるも応じず、秀吉死後に家康へ訴え出た。
また、最上義光とは庄内地方を巡って争い、慶長三年の転封でも佐渡と庄内は引き続き上杉領となった。しかし、ここで一つ問題が起きる。会津領と庄内領は繋がっておらず、出羽の最上領と越後の村上頼勝(義明とも)領で分断されていたのだ。当然ながら地続きでない事に一抹の不安を抱く上杉家と庄内領を取り返したい最上家との間にしこりが残った。
上杉家と摩擦がある秀治や義光は家康派に属したが、年が改まると両名から聞き捨てならない報せが届く。上杉家で浪人を雇ったり兵糧弾薬を集めたりする動きが出ているというのだ。それも前田“慶次郎”利益や岡“左内定俊”・山上道及・上泉泰綱など錚々たる面々が名を連ね、新たな城を築き始めるなど戦の準備をしてると受け取れる情報ばかりだ。
会津に移封してきた景勝は前任の蒲生氏郷が大規模に改修した若松城に入ったが、城下町を拡張するには手狭だった事から神指の地に新たな城を築く旨を正月に家臣達へ明らかにした。豊臣政権下では城の新造や改修は公儀への届け出が必要とされていた(後に家康が慶長二十年〈一六一五年〉閏六月三日に“一国一城令”を発したが、天下統一を果たした秀吉も諸大名の力を削ぐ狙いで類似した政策を打ち出したと推察される)が、景勝は届け出を出さないまま二月十日から着工したのである。これと並行して既存の城や砦の改修、街道の整備も行う念の入れ様から、まるで戦が近いと錯覚されてもおかしくなかった。
会津近辺で緊張が高まる中、上杉景勝の名代で藤田信吉が年賀の挨拶をすべく上洛。家康とも対面し信吉へ銀子や刀が贈られた。上方で“景勝に謀叛の兆しあり”と噂される状況を危惧した信吉は帰国すると景勝に誤解を招く行いを止めるよう進言するも、景勝や兼続は信吉が譜代でない事や家康から破格の扱いを受けた事から“篭絡された”と判断、秘かに始末しようと考え始めた。主戦論に傾く上杉家中で一人非戦を説く信吉は次第に孤立していき、肩身の狭い思いに耐え切れず身の安全を危ぶんだ信吉は三月十一日に出奔。家康の元に駆け込み、景勝が戦支度をしている旨を訴えた。
これまでは他家から通報されたものでやや信憑性に欠けたが、直近まで上杉家の家臣だった信吉から齎された情報で家康も確信を得た。家康は景勝へ真相を糺すべく四月一日に伊奈“図書”昭綱を会津へ派遣。同行した相国寺の僧で豊臣家の行政官も務める西笑承兌に弾劾状を持たせ、申し開きの為に上洛するよう命じた。四月十三日に若松へ到着した一行は景勝と対面し、翌十四日付で兼続が承兌へ宛てて返答したのだが――。
「大変な事になったぞ……」
慶長五年五月上旬、大坂城から屋敷に帰ってきた高次は顔を青くして開口一番に翁へそう漏らした。
「これは戦になりますな。既に他の屋敷では慌ただしくなっているみたいです」
あっさりとした口調で補足する翁。
五月三日、直江兼続が認めた返書が大坂の家康の元に届いた。しかし、その内容は周囲の予想を覆すものだった。
『東国に関してあらぬ噂が流れているみたいですが、京と伏見の間ですら色々と誤解が起きるのですから遠国なら推して知るべきかと。
我が主の上洛につきましては、国替え以来ずっと国許を離れて先日ようやく帰ったばかりです。もしまた上洛すれば、いつ政をすればいいのですか。おまけにこちらは雪国で十月から三月まで何も出来ません。疑うのであればこちらの土地に詳しい者に確かめて頂ければ、逆心を抱いていない事が分かるかと思います。
謀叛の意思が無い旨を起請文で出す必要などありません。それより、去年から何枚も出した起請文はどうなっているのでしょうか?
太閤殿下も我が主を“律義者”と認められ、内府様もそう思っておられるなら、疑う必要などありましょうか。世の中の変化が激しいのは承知しておりますが。
そちらには我が主に“謀叛の疑いあり”と訴え出ている者が居るみたいですが、讒言した者の裏取りもされないのではどうしようもありません。それをされないのは内府様に何か別の意図がおありなのではないでしょうか? (中略)
上杉家の(徳川家内での)取次は榊原康政様で、我が主に変な動きがあればそれを伝えるのは康政様の筈。それなのに堀監物(直政、秀治の叔父で堀家重臣)の意見ばかり聞いておられるのは心外です。上杉家の妨害ばかりしている者が忠義者か佞臣か、よくよく見極められた上でお考え願えないでしょうか? (中略)
武器を集めていると指摘されますが、上方の者が茶器を蒐集する感覚で田舎の者は鉄砲や刀槍を集めます。一々《いちいち》そんな事で目くじらを立てるとは、天下人らしくありませんよ?
道や船橋を整備するのは、治政者として当然のこと。越後は元々上杉の本国ですから秀治程度を叩き潰すのにわざわざ道を造る必要などありません。会津は様々な国と接していて各方面に道を造っておりますが、騒ぎ立てているのは堀監物のみ。戦の事など全く知らない無分別者と捉えていいでしょう。もしも戦を企んでいるのであれば道を塞いで堀や柵を設けるのが普通では? 各方面に通ずる道を造った上で謀反を起こしたならば、敵がそれを使って攻め寄せれば一溜りもありません。我等が攻めるとすれば一方向(恐らく南)しかないのですから、阿呆としか言えません。疑うようでしたら使者を送って頂き検分して下さい。きっと分かって頂けることでしょう。
今年三月には不識庵(謙信の戒名)様の追善供養があり、それを済ませて我が主は夏頃に上洛する予定です。国にある内に必要な政務を進めていたら、我が主に逆心があるから潔白を証明すべく上洛しろと内府様は仰られる。相手の訴えをこちらへ伝えてからちゃんと調べてもらえれば我が主に他意などない旨が分かるかと思います。然れど、叛心は無いと言っているのに“疑いを晴らす為に上洛しろ”とは、道理が成り立ちません。昨日謀叛を考えていた者が上洛して知らぬ顔をしたら褒美を貰える世の中は、我が主に合いません。そうした気が無いのに疑われる中で上洛すれば、先祖代々受け継いできた上杉家の誇りを捨てるようなもの。だからこそ、讒言した者と同席して調べて頂かなければ、我が主は上洛出来ません。元上杉家家臣の藤田信吉が七月(三月の誤り)中旬に出奔した後にそちらへ向かったのは把握しております。我が主が間違っているのか、内府様に別の思惑があるのか、世間はどういう判断をするでしょうか。
言うまでもありませんが、我が主に叛心などございません。ですが、上洛出来ないよう仕組まれてはどうしようもありません。内府様が仰るように上洛しなければ太閤殿下の遺言に背いて豊臣家へ刃を向ける事となりましょうが、我等の方から戦を起こして天下を獲ったとしても悪人呼ばわりされるのは必至であり、それは末代までの恥です。そんな事は一切考えておりませんのでご安心を。ただ、我等を貶める証言を前提に話を進められるようでしたら、致し方ありません。誓いも約束も要らないでしょう。(中略)
何分遠国なので重ね重ね申し上げますが、どうかありのままを聞いて下さい。本当の事が嘘のようになってしまいます。この書状を読まれるみたいですので、真実を承知の上で書かせて頂きました。多少お見苦しい事も書きましたが、こちらの言い分を分かって頂きたくて遠慮なく認めさせてもらいました。
直江“山城守”兼続』
俗に“直江状”と呼ばれる返答は簡潔に訳せば『濡れ衣を着せるなら受けて立つ』と宣言したもので、家康も激怒したとされる。あまりの完成度の高さに“後世の創作では?”と疑う説もある(原本が発見されていない)が、他の史料から兼続より返書が送られてきた事や家康が兼続に激怒した事は確認されているので、内容は違ってもそれに近い文面だった事は間違いない。
暗に家康を『表裏者』と揶揄したり『(戦っても勝てるから)天下を獲ったとしても』と言及するなど、かなり挑発している。但し、これは差出人の兼続が無礼な訳ではなく、喧嘩を売る時の常套手段のようなものだ。実際、天正十二年の小牧・長久手の戦いの折には能筆家で知られた榊原康政に『それ筑前(秀吉)は野人の子。馬前の従卒。君恩忘れた悪逆の徒なり』と痛罵する高札を各所に立てさせ、激怒した秀吉が康政の首に十万石の懸賞を付けている(後に家康が関東へ転封すると奇しくも康政は館林十万石になっている)。
「しかし、会津中納言(上杉景勝の通称)様は何故これ程まで強硬に出られたのか……」
「噂では、治部殿と直江山城守様は昵懇の間柄とか」
高次の疑問に翁はそう答える。
三成は上杉家とまだ関係を築いていない頃に取次を務め、上杉方の交渉役を兼続が務めた。互いに理知的な性格で書物を好んで読むなど共通点も多かった事から、二人は意気投合したとされる。天正十三年八月に佐々成政を降すと秀吉は三成と僅かな護衛を連れて越中国境に程近い上杉領・勝山(“落水”とも)城を極秘訪問、景勝も兼続と少人数の供廻りを連れてこれに応じた。秀吉は富山城に閏八月一日に入った際に景勝へこちらに来て会談するよう提案したものの、富山城へ行けば臣従するも同然だった事から景勝も兼続も難色を示した為に、秀吉の方から出向いた形だ。相手の懐に危険を顧みず飛び込むのは“人蕩し”たる秀吉が若かりし頃からよく使っていた手法だが、天下人に近い立場で大胆な手に出たのはそれだけ景勝を信頼し頼みとしている裏返しだった。秀吉の行動に景勝も応じ、同盟締結を決めた。この“落水盟約”の翌年に景勝が上洛する為に西上した折には三成が金沢まで赴いて応対したとされる。その後上杉家の取次は北陸方面担当の前田利家に引き継がれたが、三成と兼続の交流は続いた。
「……然れば、此度の山城守(兼続の通称)が内府様を煽ったのは、治部が一枚噛んでいると見て間違いないのだな?」
訊ねた高次へ「はい」と頷く翁。
「会津へ向かった内府様の軍勢は直ぐに戻ってはこられません。畿内を離れた隙を突いて治部殿は復権し、内府様討伐の兵を挙げると考えてよろしいでしょう」
はっきりと断言する翁に対し、不安そうな表情を浮かべる高次。
「……そうなれば内府様は東と西で挟まれる事になる。勝てるのだろうか?」
武略に疎い高次でも、これくらいは分かる。豊臣家に謀叛を企てた上杉景勝を討伐する筈が、“専横が目に余る”として自らが征伐される対象にされる恐れがあるのだ。おまけに、“玉”である幼君・秀頼は三成が握っているので、家康の方は大義の面で些か分が悪い。そして、当代きっての戦巧者である家康でも、前の上杉と後ろの三成の両面から攻められれば対処が難しいのは明白だ。
「確かに、時を同じくして前後から襲われれば内府様でも一溜りもありませんな」
高次の懸念に翁も認める。息を呑んだ高次へ「しかし」と言葉を継ぐ。
「内府様もその点は留意されておられる筈。上杉家が南進しないよう大崎侍従(伊達政宗の通称)様や出羽侍従(最上義光の通称)様などに牽制を求め、南へ進むのを遅らせる事も考えられます」
現状では上杉家が自領内に敵を引き込み迎え撃つ構えだが、家康率いる軍勢が反転すれば上杉方も追撃に出る恐れがある。だが、会津の北には天下の野心を諦めてない伊達政宗や庄内地方を巡って長年対立してきた最上義光が虎視眈々と控えている。家康を討つつもりが空白になった会津領を奪われては元も子もない。両名の脅威を取り除かない限り上杉家は南へ進めないのだ。
「上杉が足止めを喰らっている間に西へ取って返し、治部と無二の戦に臨む、か」
「はい。天下を我が物にすべく内府様は全てを擲つ覚悟で大勝負に出られましたから」
上杉家が戦も辞さない構えを鮮明にした時点で、家康は天下を掴む為に賭けへ打って出る事が決まった。三成の方も家康を豊臣家の天下を脅かす存在と認識しており、上杉家が家康の付けた難癖に受けて立つ姿勢を露わにした以上は見殺しにする事など出来なかった。“両雄並び立たず”の故事にある通り、共存する道は最早有り得なかった。
「いよいよ……か」
緊張で顔が強張る高次。翁も黙って頷いた。
天下人の座を手に入れたい家康、豊臣家の統治を守りたい三成。そこに様々な思惑を抱いた者達が与すれば、日ノ本を二分する大きな争いになる。過去に前例のない規模の戦が、始まろうとしていた。
既に家康へ接近している高次にとっても他人事ではない。近江源氏の流れを汲む名門・京極家を栄えさせるか絶やすかは、高次の腕に懸かっている。“蛍”と嘲った輩達を見返る為にも、絶対に勝たなければならない。
「翁」
「はい」
「私は、私の矜持と私を信じて付いている者達の為に、勝つ。力を、貸して欲しい」
そう語る高次の表情からは緊張が消え、やる気に満ち溢れていた。肚を括った高次の姿を、翁は目を細めながら無言で頭を垂れた。
月は改まり、慶長五年六月二日。上杉征伐の陣触れが正式に発表。主に東国の大名が招集されたが、黒田長政や加藤吉明・藤堂高虎など家康に近い西国の大名も加わっていた。
六日に大坂城西ノ丸で評定が開かれ、八日には後陽成天皇から派遣された勅使から晒布百反が贈られ、十五日に秀頼と面会した家康は黄金二万両と米二万石を下賜されるなど戦に向けた機運は着実に高まっていった。六月十六日、家康は大坂城から出陣。遂に、天下を左右する戦の幕が上がった――。