二 : 自らの意志 - (5)嵐の前の静けさ
前田家討伐を契機に、家康は四大老四奉行に諮らず独断で決裁する事が増えてきた。慶長四年十月一日には豊臣家へ隠居を申し出た堀尾吉晴に隠居料として越前府中五万石を与えたり、島津義久に薩摩・大隅国内の豊臣蔵入地など五万石を加増している。何れの地も豊臣家直轄領や他大名の所領を削って与えられており、家康の懐は全く痛んでいなかった。
「まるで内府様は天下人のようだな」
十一月上旬、前田家討伐で一時ざわついた畿内の情勢も沈静化し、大坂城の出仕を終えて京極屋敷に戻ってきた高次はしんみりと語った。京極家でも前田家討伐を前提に派遣する将兵の選定や兵站の受け入れ準備などを進めていたが、中止になった事で内心ホッとしていた。結果的に空振りとなったものの、平時に慣れている京極家にはいい訓練となった。
近頃では秀頼が居る大坂城本丸ではなく家康が政務を行う西ノ丸へ先に詣でる者も出ていると聞く。家康は着実に味方を増やすのと共に政権基盤を固めつつあった。
「しかし、あれだけ内府様に噛み付いていた治部も、先日の前田家討伐に兵を出す意向を示すなど、すっかり大人しくなったのう。てっきり“捏造だ!”と異議を唱えるばかり思っていたが……」
家康が前田家を討伐する計画を表明すると、三成は石田家から兵を出す事を伝えてきた。反石田の面々は三成が今回の戦の発端となった家康暗殺未遂に“反駁するのでは?”と危惧していたが、拍子抜けした恰好だ。
ポツリと漏らした高次へ「そうとも限りませんよ」と答える翁。
「治部殿も勝負は“今でない”と判断したのでしょう。従順を装いながら起つべき時機を探っておられるのかと」
意味深な発言に高次も興味を惹かれる。武断派の騒動に巻き込まれる形で隠棲させられた三成は反撃の機会を窺う雌伏の時を過ごしていると翁は言うのだ。
確かに、あの三成が豊臣家に成り代わり天下を奪おうとする家康の独走を許す筈がない。今は家康に反抗しても潰されるだけで、起死回生が狙える時を待っているとも受け取れる。
「……治部が動くとなれば、いつになると思う?」
高次が投げ掛けると、翁は「時期は分かりませんが……」と前置きした上で答える。
「内府様が長らく畿内を空ける状態になれば、恐らく動かれるかと」
今の大坂は家康の独壇場になりつつある。幼君・秀頼を抱える状況を維持し続ける限り、家康に敵対する者は“豊臣家に仇なす存在”と見做される。その“玉”を手放した時こそ、反家康の旗を掲げる好機と翁は睨んでいた。
その点については家康も重々承知していると思われる。自らが天下を掴む為には敵対する勢力に勝利し一掃しなければならない。三成が挙兵しても勝てるよう慎重に情勢を見極めている筈である。
「もしも前田家討伐が現実になっていた場合、治部は起ったと思うか?」
ふと湧いた疑問を高次がぶつけると、翁は首を横に振った。
「大坂から加賀では、些か距離が短いです。太閤殿下のような大返しを行えば三日で近江まで戻れますから。予め琵琶湖に大量の船を用意させておけば、京までさらに早く戻って来れます。治部殿は二度の大返しを事務方で経験されており、内府様率いる軍勢が加賀で前田勢と交戦するか長期の足止めを喰らわない限り、勝機が薄いと理解されていた筈です」
天正十年六月二日に起きた本能寺の変の報せが備中高松に在陣する秀吉の元に届いたのは、翌三日夜。秀吉は亡き主君の仇討ちをすべくその日の内に対峙する毛利家と講和を結ぶと、四日には畿内へ向けて出発した。徒士の武器や装備品は兵糧物資と共に船で輸送し、軽装で兎に角走らせたのもあり、六日夜には中国攻めの拠点である姫路城まで戻れた。約二十三里〈約九十キロメートル〉を二日で移動したのは当時だと驚異的な速度だった。この“中国大返し”を成功させた秀吉は仇敵・明智光秀を打ち破り、信長の後継候補一番手に躍り出た。
天正十一年四月、近江・木ノ本で柴田勢と睨み合いをしていた最中、一度は降伏した美濃・岐阜城主の織田信孝が再挙兵。これを受け秀吉は大軍を率いて岐阜へ向かうも、途中の長良川・揖斐川が大雨で増水した影響で足止めを余儀なくされた。二十日、柴田方の佐久間盛政が中川清秀の守る大岩山砦を奇襲したと報せが入ると、秀吉は直ちに木ノ本へ引き返す事を決断。未の正刻〈午後二時〉に大垣を出発した軍勢は戌の初刻〈午後七時〉に先頭集団が木ノ本に到着する速さで一気に駆け通した。柴田方の想定を遥かに上回る速さで戻って来た事で主導権を握った秀吉は賤ヶ岳の戦いで勝利を収め、天下人の座を確固たるものにした。
三成は主君・秀吉が飛躍する足懸かりとなった二度の大返しに携わっている。沿道の住民に握り飯や草履の提供、松明の設置を要請、武具の輸送の手配、協力してくれた方々への謝礼や代金の支払いなど、迅速な行軍が滞りなく進められるよう裏方として支えたのだ。秀吉が大返しを出来たのは子飼いの優秀な行政官が揃っていたのも大きな要素で、三成もその内の一人だった。
武将としての実績に乏しい三成だが、二度の大返しを経験しているので“この距離なら一番早くてこれくらいで戻ってくる”という見込みが立てられた。自慢の計算能力で弾き出した結果、加賀に居る家康は数日の内に畿内へ戻る可能性が高いと捉え、勝負の時ではないと判断したと翁は分析した。
「ただ、内府様も“豊臣家の筆頭大老”の地位で満足されると思えません。天下を手中に収めるべく、全てを失う覚悟で動かれる事でしょう。……いつ戦になっても狼狽えないよう、心の片隅にこの事を留めておいて下され」
翁から釘を刺され、表情を引き締める高次。
前田家が事実上降伏する事で戦は回避され、一先ず政情は落ち着きを取り戻した。しかし、それはあくまで一時的なものに過ぎず、大きな衝突が将来的に起きる事は明らかだった。秀吉によって達成された泰平は辛うじて保たれた状態で、波乱を含んだまま慶長四年は暮れゆくのだった……。
年が明け、慶長五年〈一六〇〇年〉。大坂・京極屋敷。
「明けましておめでとうございます」
新年の挨拶を述べにやってきた翁を、高次と初は揃って応対する。
「今年も頼むぞ、翁」
高次から言葉を掛けられた翁は「ははっ」と応じて、頭を上げる。その表情はとてもニコニコとしていて、何か良い事でもあったのかと思わせるくらいだ。
「……如何した?」
疑問に思った高次が訊ねると、翁は面映ゆいといった感じで明かしてくれた。
「いえ……浅井家に仕えていた頃、こうして年賀の挨拶を述べに参った際の初お嬢様のことを思い出しまして、つい」
その言葉に「ほう」と興味津々の高次。一方、何の事かサッパリ分からない初は翁の口からどんな内容が飛び出すかハラハラしながら聞いている。
「あれは、元亀四年でしたな。浅井家で迎えた、最後の正月のことになります」
遠い目をしながら、どこか懐かし気に語る翁。さらに言葉を紡ぐ。
「あの時、茶々お嬢様は五歳、初お嬢様は四歳。江お嬢様はまだ小谷の方(お市の方)様のお腹の中でした。私が誰かよく分からない殿(長政)は紹介して下さいましたが、茶々お嬢様は『戦場にも立てぬ軟弱者奴が』と蔑まれた目で見ておられましたが、初お嬢様は違いました。『凄いな! これからも父上に良い策を授けて下され!』とそれはもう活き活きとした表情で頼まれまして……家中でもなかなか評価されない私を純粋に『凄い!』と褒めて下さった時はもう嬉しくて嬉しくて。今でも正月が来ると必ず思い出します」
顔を綻ばせながら語る翁は、本当に幸せそうだった。
戦国の世に於いて命を懸けて戦い武功を挙げてこそ一人前とする考え方が一般的で、戦場に立てない裏方や謀を巡らす者を過小な評価をされていた。初は四歳にして翁の実力を認め率直に称賛するのは子どもだったとは言え、なかなか出来ることではない。
翁の想い出話に気持ちをほっこりさせた高次は、やや表情を引き締めて言った。
「……これから難局が続く展開となろう。翁の力はまだまだ必要となる。今後も頼むぞ」
「はっ。微力ながら、尽くさせて頂きます」
恭しく応じる翁に、横から初が口を挟んだ。
「翁。揚げ足を取るようで悪いのだが、“微力”では困るぞ。そこは“力の限り”と言ってもらわないと」
「おやおや、これは一本取られましたな」
初の思わぬ指摘に、肩を縮こませながら詫びる翁。その様子に場の空気はさらに和んだ。
年が明けてからも家康の専横は続く。慶長四年二月には長岡忠興へ丹後十二万石の他に豊後国木付(後の杵築)六万石を加増、森忠政に信濃国川中島十三万七千石へ転封加増を決めている。さらに、三月十六日に豊後国黒島へ漂着した阿蘭陀商船の乗務員達と三月三十日に引見するなど、家康はまるで天下人のような振る舞いを見せていた。
これと前後する形で、東国から退っ引きならない報せが届く。会津へ帰国していた上杉景勝が戦支度を始めているというのだ!!