二 : 自らの意志 - (4)分別者への陥穽
豊臣家中で唯一対抗出来た前田利家は世を去り、何かと噛み付いてきた石田三成も奉行職から追われた。二人の退場で家康に真っ向から物申す人物が居なくなった。三成追放から三日後の慶長四年閏三月十三日には“留守居役”の名目で伏見城へ入って実質的な主になると、二十三日には慶長二年〈一五九七年〉十二月二十二日から翌年一月九日まで行われた蔚山城の戦いで軍目付だった福原長堯・熊谷直盛・垣見一直の三名が“日本の秀吉へ歪曲した報告を行った”と認定し評価のやり直しを決めた。この件は先日の三成襲撃事件を主導した七名が共同で三月二十三日に蔚山城の戦いで軍目付の三名が明軍撃破の戦功を正当に伝えなかったとして五奉行筆頭の石田三成に訴えを起こしたが、三成は『太閤殿下の判断だった』と訴えを斥けていた。三名の内二人は三成の縁者(長堯・直盛の両名は三成の父・石田正継の娘を妻にしている)だった事から“身内を庇うのか!?”と激怒し、騒動の布石になっている。
評価のやり直しは家康が先日七名に約束したもので、三成が佐和山に謹慎となった事で武断派にかなり有利な裁定であった。他の四大老(前田利家の死去に伴い、嫡男・利長が加わっている)は家康の意向に異議を唱えることはなく、誰かが突出して権力を集中させないよう牽制する合議制は早くも形骸化されてしまった。五月には歪曲の罪で長堯・直盛は改易、加えて三名は蟄居処分となった。
「内府様の影響力は日毎増しておられるのう」
三人の軍目付の処分を聞いた高次は、しみじみとした口調で漏らす。
「近頃は内府様への面会を求めて伏見の徳川屋敷には人が殺到しているとか」
翁も補足する情報を伝えると、然もありなんと頷く高次。利家の死去と三成の失脚で豊臣家の実権は家康がほぼ掌握し、五大老の中でも頭一つ抜きん出た存在になっていた。
加えて、家康は自らの味方を着々と増やしつつある。武断派と呼ばれる槍働きで出世してきた者達を自陣営に取り込み、文治派との対立を煽り豊臣家中の分断を促進する。一月に大坂と伏見で緊張が高まった折には血縁や心服から利家方に属していた者達も気を遣う必要がなくなり、家康の伸張を見て接近する者も出始める有様だ。
「さて、内府様は次にどう動かれるかな」
将棋盤を挟みながら高次が投げ掛けた。高次は守りを固めてから徐々に攻めに転じており、それを翁が受ける局面だ。
「やはり、大坂へ居を移す事ですね」
駒を動かしながら翁はゆったりとした口調で答える。
大坂には主君・豊臣秀頼が御座し、諸大名の大多数も詰めている。秀頼の後ろ盾となって権力をより拡大させ、諸大名達の切り崩し工作を進めたい家康にとって大坂へ移る事は何としても成し遂げたいところだろう。
「しかしながら、太閤殿下の遺言に背いてしまうぞ」
ここが攻め時と睨んだ高次は持ち駒を投入しながら訊ねる。
今際の際の秀吉も家康に権力が集中する事を恐れ、政を担う家康は伏見に隔離し秀頼と傅役の前田利家は大坂に移す体制を執った。利家の忠義心に疑いの余地はなく、秀頼が成人するまで楯となってくれる事を秀吉は期待した。ところが、“友”と呼ぶべき利家は秀吉の死から僅か半年余りで後を追うように亡くなったのは大きな誤算で、家康が大坂へ移る隙が生まれた恰好だ。
ただ、他の四大老が家康のさらなる伸張を座視するとは思えない。“太閤殿下の遺言”を理由に阻止する動きが予想され、政争へ発展する可能性もある。奉行衆も親家康派の浅野長政を除く三人は、家康によるこれ以上の暴走を認めたくないだろう。
「大坂入りにつきましては内府様も色々と手立てを講じておられるでしょうし、年頭のような反発は起きないでしょう。ただ、気懸かりなのはその先です」
「その先、とな?」
果敢な高次の攻めを受け流しつつ、意味深な言葉を発する翁。それに小首を傾げる高次。
大坂に移れば家康は“秀頼の庇護者”の地位を得て地位は盤石になり、四大老三奉行は全力で止めるとばかり思っていたが、翁の見立てはどうやら違うらしい。
一拍の間を挟んだ翁は、持ち駒を高次の陣に打ち込みながら端的に告げる。
「――他の大名達の力を削ぐのです」
サラリと飛び出した爆弾発言に、高次は息を呑む。自陣の僅かな隙を突いて翁に攻撃の起点を作られ、一転して防御に回らざるを得なくなった。
そこへ畳み掛けるように翁は続ける。
「前田家は代替わりしたばかり、毛利は家中に火種を抱え、宇喜多は再建の真っ只中、上杉は国替え以来ずっと国許から離れております。皆、盤石とは言えません」
翁の指摘に「うむむ……」と唸る高次。情勢も局面も非常に難しい状況となっていた。
高次に大老家とは付き合いはないが、口性無い者共の噂話で事情は何となく知っている。
まず、毛利家。当主・輝元は永禄十一年十一月に娶った正室・南の大方や側室・周姫など幾人の側室と関係を持っていたが、長らく嫡子に恵まれなかった事から、叔父・穂井田元清(毛利元就の四男)の次男・宮松丸を養嗣子に据えた。宮松丸は天正二十年〈一五九二年〉四月十一日に秀吉から偏諱を受けて“秀元”と名乗るなど、毛利家の家督を継ぐ前提で物事は進められてきた。
しかし――文禄四年十月十八日、周姫が男子を出産。待望となる嫡男誕生に毛利家は喜びに沸いたが、一方で十七歳となった秀元は一転して微妙な立場に置かれた。継承権を返上した秀元だが、文禄の役に続き慶長の役でも輝元の代理で朝鮮に渡り毛利勢の大将を務め、領土の分配については一旦保留となった。
秀吉も後継と認めていた秀元の扱いについて、慶長三年八月一日に出雲・石見(石見銀山を除く)を与える事とし、本来その地を治めていた吉川広家には(前年六月十二日に亡くなった)小早川隆景が毛利領内に保有していた旧領を充てる案を示したが、秀吉の一方的な裁定に秀元・広家・輝元の三名は不満だった。程なくして秀吉の容態が悪化し帰らぬ人となった為、裁定は先延ばしとされた。
年が明けた慶長四年一月、秀吉の死去で棚上げされていた秀元の所領について三成が広家の代替地を後回しにした上で決定。さらに三成が失脚すると四月に今度は家康が見直しを表明したのだ。家康は輝元へ秀元に渡す所領を増やすよう求めたが、明らかな内政干渉で輝元は応じなかった。この後、六月に秀元へ父・元清の旧領を与え、広家には本領安堵、旧隆景領は輝元へ返還という形で決着したが、家康の介入で毛利家中の結束に罅が入った。
次に、宇喜多家。秀家の父・直家は有力国人を傘下に取り込む手法で版図を拡げてきた背景があった為、全領土に占める宇喜多家直轄領の割合は少なく家臣の発言力が大きい弊害を抱えていた。こうした状況を打開したい秀家は家老の長船綱直や正室・豪姫と共に前田家から移ってきた中村次郎兵衛を重用し、領内の検地や治水事業・岡山城下の改修など積極的な改革で“秀家を頂点とする集権体制”への転換を図った。しかし、大掛かりな普請で出費が嵩んでいるところに二度の朝鮮出兵で宇喜多家の財政は火の車にあり、それに加えて権力の集約で発言力が弱まる有力国人の間には秀家から冷遇されている事と合わせて不満が蓄積されていた。
そして、決定的な事態が起きる。今年に入り秀吉からの信任も厚かった綱直が死去、それを機に後ろ盾を失った外様の次郎兵衛に対する不満が一挙に爆発した。一月五日、有力家臣の宇喜多詮家・戸川達安などが結託し、次郎兵衛を始末すべく大坂の宇喜多屋敷を襲撃。次郎兵衛は辛くも前田家へ逃れるも、秀家のやり方に不満を抱いていた家臣達はそのまま屋敷に立て籠もってしまったのだ。当初秀家は騒動を起こした者達を処罰しようとしたが、家臣達の反発は予想以上に大きく、第三者である大谷吉継と榊原康政に調停を依頼した。
吉継と康政は沈静化に向けて精力的に奔走したが、伏見在番期間を過ぎても国許へ帰らない康政に徳川家中で支障が出てきた為、家康は注意を与えた上で関東に帰らせた。康政が手を引いた事から吉継も手を引かざるを得ず、武力衝突の恐れが出てきた為に家康が仲裁に入った。騒動を起こした者達は他家預かりの上で蟄居処分が下され、一部の家臣は宇喜多家から出奔した。これで一応解決したものの、有力家臣の大量流出で宇喜多家は大きく弱体化した。因みに、詮家や達安などは後日徳川家へ仕官していた事から、裏で家康が支援していた可能性が高い。
最後に、上杉家。文禄四年の蒲生氏郷死去に端を発した御家騒動で蒲生家が会津若松九十二万石から下野宇都宮十二万石へ減封、その後釜に上杉家が慶長三年に据えられた。会津は伊達政宗や最上義光など奥羽の油断ならない勢力の監視と関東の徳川家康への牽制という非常に重要且つ重大な役回りが求められる地で、景勝以外に適任が居ない事から秀吉が特に乞うて国替えを了承してもらった事情がある。移るに当たり旧領の佐渡と越後・庄内の一部の領有を認め、さらに伊達政宗の国替えで空いた旧伊達領の一部も加増するなど、最大限の誠意を示している。特に佐渡は金山があり、産出される金で上杉家の財政を潤わせていた事から引き続き領有を認められたのは大きかった。
しかしながら、入領して間もなく秀吉の体調が悪化し京・大坂に留まらざるを得ず、内政面は自然と後回しにされていた。幸い地侍や百姓から上杉家の統治に不満の声は上がらず一揆が起きる気配はないが、この先の事を考えれば不安材料に変わりはない。
「確かに、付け入る隙はあるな」
そう言うなり高次は「参った」と投了を宣言すると、翁も無言で頷く。
「いきなり戦に発展する事はないでしょうが、今後も内府様と他の大老方の動向は注視しておくべきでしょう」
翁の忠告に「分かった」と答える高次。天下を巡る暗闘は新たな局面に移った事を痛感する高次であった。
慶長四年八月、家康は昨年から長期間に渡り京・大坂に留まっていた四大老に対し、帰国するよう促した。利長は父から『三年は大坂から離れるな』と遺言されていたが、秀元に譲渡する領地への根回しをしたい輝元・山積している内政に取り掛かりたい秀家と景勝の三名が受諾する中で一人断るのはよろしくないと考え、利長も応じる事にした。四大老は順次大坂を離れ、領国へ帰国していった。
九月七日、二日後に迫る重陽の節句で主君・秀頼に挨拶すべく家康は大坂へ到着。九月九日、大坂城に登城した家康は秀頼へ祝意を述べた後に西ノ丸で暮らす北政所(秀吉の正室・寧々。天正十三年に秀吉が関白に就任した折、朝廷より従三位が贈られ“北政所”の号が与えられている)とも面会し、北政所から『西ノ丸を譲りたい』旨の申し出があった。豊臣家の政権維持には家康の力が不可欠と捉えていた北政所は、家康が伏見で政務を執っている事は差し障りがあると考え、秀頼の居る大坂城の西ノ丸を譲る提案に繋がった。当然ながら大坂へ移りたい家康の側から事前に働きかけはあったものの、北政所が自らの意向を汲んでくれて内心ホッとしていた。北政所は側近の孝蔵主などと共に西ノ丸から退去し、秀吉が晩年に京で建てた京都新城へ移り、二十八日に空いた西ノ丸へ家康が入った。
そして、重陽の節句で秀頼に祝意を述べに大坂城へ出仕した高次は、ある噂を耳にした。
「おい、聞いたか。内府様を暗殺する企てがあったみたいだぞ」
控えの間に詰める大名達が、声を潜めて話し合う。それに高次は聞き耳を立てる。
「あぁ。幸いな事に内府様がその情報を掴まれたらしく警戒を強めたから事無きを得たが、それでも重大な事案に変わりはない」
事情を知っていると思しき相手も訳知り顔で応じる。話はまだ続く。
「下手人は誰だ?」
「何でも大野“修理亮”と土方“河内守”で、指示役は奉行であらせられる浅野“弾正少弼”様とされるが……」
意味あり気に言葉を一旦切る。
大野“修理亮”治長、永禄十二年〈一五六九年〉生まれで三十一歳。淀の方の乳母だった大蔵卿局の長男で淀の方とは浅井家時代から付き従っていた関係から信を置かれ、秀吉が亡くなった後に頭角を現しつつあった。土方“河内守”雄久、天文二十二年〈一五五二年〉生まれで四十七歳。尾張で生まれた雄久は始め信長に仕え、後に信雄付の家臣となり、その信雄が天正十八年に改易されると秀吉の直臣となった。領国は越中国新川郡野々市二万四千石で、越中を治めていた前田利長とは良好な関係を築いていた(利長の母・芳春院(まつの出家名)と血縁関係があるとする説もある)。長政も嫡男・幸長が利家の娘・与免を側室に迎える約束を取り交わしており(与免夭逝により実現せず)、前田家と近い関係にあるので紛れていても不思議でない。しかし、当の本人は生粋の家康派で、その家康を襲うなどまず有り得なかった。
「……ここだけの話だが、この件には黒幕が別に居るらしい」
「ほう、その黒幕とは?」
興味津々という風に訊ねる者へ、相手は扇子で耳を覆いながらボソッと明かした。
「――前田“権中納言”様よ」
飛び出した名に、明かされた者も耳を欹てていた高次も仰天した。
前田“権中納言”利長。言わずとしれた五大老の一人である。そんな人物が同じ大老である家康を害そうとしたとならば、大事件だ。
「まさか……」
正体を明かされ言葉を失っているところへ、秀頼公へ対面する時間を告げる奏者の声が掛かる。高次も半信半疑のまま、立ち上がった。
同日、家康へ増田長盛・長束正家から驚愕の事実が齎された。
『家康が重陽の節句で登城するのを狙い、暗殺する計画がある――』
伝えられた家康は驚きを見せたが、予めこうした密告がある事は知っていた。何故ならば、家康が流した情報だからだ。
大坂へ向かう段取りを進める傍らで、家康が抱えている忍びを使って『家康の暗殺を企んでいる者が居る』と京や大坂の市中にばら撒いた。言わば狂言を打った訳だが、それだけに留まらない。
額に汗を滲ませながら経緯のあらましを伝える両名に、家康は「ほう……」と漏らす。人を介している間に尾鰭が付いて長政の名も加わっていたからだ。
『そうか……かの御仁(前田利長)がそんな大それた事を企てるとは思えませぬが、事が事だけに厳しく詮議せねばなりませぬな』
弱ったと言わんばかりに、いけしゃあしゃあと自らの思いを述べる家康。これには同席する二人の顔も真っ青になる。
同じ大老の職にある利長が家康を排そうと計画した。これを家康は“豊臣家の天下を揺るがす大罪”と受け止め、罰する姿勢を示したのだ。俄かに降って湧いた疑惑に、大坂は大いに騒がせることとなる。
「本日、内府様より前田家討伐の内示が発表された」
慶長四年十月二日。大坂の京極屋敷に帰ってきた高次は翁を呼ぶと、開口一番に伝える。
同日、家康は先月九日に自らの殺害計画があった事を公表。容疑者の名前が挙がった大野治長は下総国結城へ、土方雄久は常陸国水戸へそれぞれ流罪、浅野長政は自ら隠居を申し出た事が考慮されて武蔵国府中で蟄居の処分となった。そして、首謀者である前田利長は“家康を排する事は豊臣家に刃を向ける事と同義”として征伐する意向を明らかにしたのだ。この翌日には前田家と領地を接し仮に戦となれば最前線となる加賀国小松城主・丹羽長重に先鋒を命じるなど、前田家を討伐すべく着々と動き出していた。
しかし、伝えた高次の方は解せないという顔をしている。
「あの前田権中納言(前田利長の官名)様が、そんな途轍もない事を企てるとは思えぬが」
「有り得ませぬな」
高次の疑問に、キッパリと否定する翁。
「今の内府様を本気で始末したければ、“御家が滅ぶ覚悟”と“刺し違えてもやり遂げる胆力”を持ち合わせていなければなりません。然れど、率直に申し上げて権中納言様に前田家八十三万石の大身を擲ってまで勝てるかどうか分からない賭けに出るだけの気概はありませぬ。大納言様や能登守(利長の弟・利政の官名)様ならいざ知れず、あの御方の性分では断じて無いかと」
聞き方次第では“勝負に出れない意気地なし”と捉えられかねないが、高次がもし利長の立場なら今の地位を保つ事を優先したであろうから、他人事のように思えなかった。
前田“権中納言”利長、永禄五年一月十二日生まれの三十八歳。成長すると安土城の信長に仕え、天正九年八月に父・利家が能登一国を授かると利長は旧領の越前国府中三万三千石を受け継いだ。同年、信長の四女・永姫を正室に迎え、信長も織田家の将来を担う有望株と期待していた事が窺い知れる(但し、永姫は天正二年〈一五七四年〉生まれの八歳とまだ幼かった)。
天正十年六月、信長の招きを受けて永姫と京を目指していた途上、近江国瀬田にて本能寺の変の報を受ける。利長は護衛を付けて永姫を前田家所縁の地である尾張国荒子へ避難させるべく送り出すと、自らは近江国内で数少ない明智方に与しなかった蒲生賢秀の日野城へ入り立て籠もった。変後の混乱を乗り切った利長は無事に領国へ戻り、父・利家の指揮下に入った。
天正十一年二月、賤ヶ岳の戦いでは父と共に従軍。羽柴勢の猛攻を凌いでいる佐久間勢や羽柴勢の圧力に耐えている柴田勢が奮闘する最中、戦線から離脱。府中城に籠もったものの秀吉率いる羽柴勢が現れると降伏した。利家は(賤ケ岳の報せを受けて能登から駆け付けた)正室・まつの護衛に利長を残したが、「私の事は構わないから武功を挙げてきなさい」と母に促され北ノ庄城攻めに加わった。戦後、利長は父・利家が加増された加賀へ転封となる。
天正十三年七月十一日に関白に就任した秀吉は五月四日から弟・秀長を総大将にした四国征伐の目途も立ち(七月二十五日に長曾我部元親が降伏)、予てから秀吉の事を快く思っていなかった佐々成政の征伐を決めた。八月六日に先鋒を任された前田勢が侵攻を開始すると、総勢七万の軍勢に勝ち目はないと悟った成政は八月二十六日に降伏した。この戦で前田家は勝利に大きく貢献したとして閏八月一日に利長へ越中国の内で砺波・射水・婦負の三郡三十二万石が与えられた。この後、利長は九州征伐・関東征伐に従軍し勝利に貢献。文禄四年には上杉家の国替えで上杉領の越中・新川郡も利長に与えられ、越中一国を治める存在になった。
「権中納言様は亡き権大納言様が後半生に得られた分別を、能登守様は前半生の気性を、それぞれ受け継がれました。何より、権中納言様には全てを失ってまで天下を獲りたい野望がございません。あらぬ疑いを懸けられたとしても、“誇りを守るべく断固戦う”のではなく“誤解を解く”選択をされるかと」
「……では、戦になる可能性は低いということか」
「余程に許容し難い扱いや要求をしなければ、の前提はありますが。ただ、予断は許されません」
安心する高次を諫めるように、翁が膝を寄せる。
「もし加賀へ討伐の兵が送られた場合、大津は北陸方面へ物資を送る兵站拠点となりましょう。それから、内府様へ与したからには兵も出さねばなりません。万一の事態に備えて家中の者達に支度を進めさせて損はないかと」
翁から指摘を受け、ハッとさせられる高次。
加賀へ軍を送るとなれば、東と南から攻める事が想定される。この内、前田家討伐の総大将を務める家康は大軍を率いて大坂から北上するだろう。仮に大坂から前線へ兵糧弾薬等を輸送する際、陸路より湖を船で運んだ方が効率は良い。そうなれば、琵琶湖の南端に位置し京からも近い大津城が兵站基地となるのは容易に想像がつく。
運搬の計画や指示は豊臣家の奉行が行うが、物資の管理や実務は現場である京極家の仕事だ。人員や船の手配、食事や宿泊場所の確保や準備と、やるべき事は沢山ある。
「……そうだな。決まってから慌てるより、予め出来る事はしておこう」
前田家討伐が正式に決まれば京極家からも数百から千の兵を出さねばならない。そちらも命じたら直ぐに集まる訳ではなく、前もって準備をしておく必要がある。戦になる可能性がある以上、用意を進めておくに越したことはないだろう。
素直に耳を傾ける高次に、翁は好感を持って頷いた。
謂れの無い罪を捏ち上げられた前田家は驚愕すると共に憤慨した。火の無い所に無理矢理煙を立たせる家康の遣り口に流石の利長も抗戦へ傾きかけたが、母の芳春院から『今の家康は公儀そのもの、それでも勝てるとお思いですか?』と窘められ、頭を冷やした利長は先ず潔白を証明すべく自らが最も信頼している府中時代の利長に仕官した横山長知を弁明の使者を送る事にした。
夜を日に継ぎ大坂へ駆け通した長知は旅塵を落とさず大坂城へ登城。謀叛の疑いがある前提で詮議しようとする家康に対し、長知は疑惑を真っ向から否定し主の無実を主張した。重箱の隅を突いて利長に“その気があった”と解釈されては一大事なので長知は一語一句変えず同一の内容を述べ続け、揚げ足取りは無理と根負けした家康はある提案を要求した。
『本当に潔白なら、それを証明する為に芳春院殿を人質に差し出せ』
討伐が回避されたのは実質的な勝利だが、その代償として家康が出した要求に長知も絶句した。芳春院は只の母堂ではない。利発な性格で織田信長からもその才覚を認められ、前田家の繁栄は芳春院が居なければ存在しない程に存在の大きな女傑だった。諦めたと見せかけて無理難題を吹っ掛けられ、家康の執念というか用意周到さに長知も舌を巻く思いだった。ただ、前田家の代表とは言え家臣の身で答えられる内容ではない為に一旦持ち帰る旨を伝えると、家康もそれを了承した。
蜻蛉返りで金沢へ大急ぎで長知が戻ると、前田家中はまたしても沸騰した。濡れ衣を着せられただけでなく証左として人質を出せとは盗人猛々しいにも程がある、おまけにあろうことか母堂様とは。憤る家臣達は屈辱的な条件を持ち帰って来た長知にも非難の矛先が向けられ、利長も受け容れれば徳川の風下に立つも同然の扱いに逡巡したが、当事者である芳春院が『前田家が救われるなら私は何処でも参ります』と宣言した事で決着を迎えた。
こうして、芳春院と利家が若かりし頃から仕えてきた村井長頼と数名が大坂へ送られた。その後、家康の裁定で前田家から預かった人質を江戸へ移し替えた。豊臣家へ出された人質を独断で自らの領国へ移す決定に奉行達は異議を唱えるも、今の家康を敵に回すと失脚させられる為に唯々諾々と従う他なかった。
戦こそ回避されたが、五大老の一角を担う前田家が徳川の軍門に降った事実に変わりなく、家康の影響力はより高まる結果となった。