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二 : 自らの意志 - (3)出来た弟

 正信のはからいで徳川屋敷の一室に通された高次は、弟の到着を待っていた。

 やがてドスドスと荒々しい足音が廊下から聞こえてきた。恐らく、弟だろう。

「お久し振りです、兄貴」

 鎧を身にまと筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)なガッチリとした体格に、涼やかな風貌の男が入室するなり挨拶する。爽やかな笑みを浮かべる弟とは対照的に、高次も笑みを見せるがどこかぎこちない。

 京極“侍従”高知たかとも。元亀三年〈一五七二年〉生まれで二十八歳。高次の九歳下だが一緒に暮らした期間は短い。織田家へ仕官した高次に対し、高知は北近江を治める羽柴秀吉の小姓として仕え始めた。この当時、縁故を頼って長浜に来た虎ノ助(加藤清正)や市松(福島正則)、秀吉が近江で見つけてきた佐吉(石田三成)や紀ノ介(大谷吉継)、人質に預かった松寿丸しょうじゅまる(黒田長政)など似たような年齢の若者が羽柴家につどい、互いに切磋琢磨せっさたくまする環境が整っていた。高知も虎ノ助や市松達に混じって槍働きで名を挙べるべく鍛錬に励んだ。近江国出身者は石田三成や増田長盛・長束正家など算勘に長けた者が多い印象だが、大谷吉継や藤堂高虎・片桐且元(かつもと)といった武辺者も多く輩出している。

 高知は秀吉に従い各地を転戦。秀吉も高知の器量を評価しており、正室に信長の甥・津田信澄(のぶずみ)の娘を、継室けいしつに毛利秀頼(尾張の国衆の血筋、毛利輝元の安芸毛利家と無関係)の娘を娶らせ、文禄二年に義父の秀頼が亡くなると嫡男が居たにも関わらず遺領の内で六万石を高知に与えられて信濃・飯田城主になっている。さらに翌年には長年の戦功を認められて十万石に加増され、図らずも兄の知行を抜いた事になる。

 このような経緯から、高知は戦の才に乏しい京極家には珍しく武人として着実に出世街道を歩んできた。兄は“蛍”と揶揄からかいや嘲笑の対象にされるが、豊臣家中で高知を“蛍の弟”と嘲る声は全く聞かない。仮に言った場合も高知が間髪入れず反撃するだろうし、仲の良い清正や正則の耳に入れば可愛い弟分を馬鹿にされたと介入してくる事が目に見えている。そうした地位や人脈も自らの手で掴み取った弟を、高次は誇らしく思う反面で時々眩しく思う。

 今も非常時とあって戦闘態勢にある高知の装いに対し、常と変わらず平服へいふく姿の高次は内心引け目を感じていた。

 一言二言言葉を交わして腰を下ろした高知は、高次の傍らに控える翁をじっと見つめる。

「……如何いかがした?」

「いえ、あの兄貴の元に“浅井家をの面から支えた凄い方を懐刀ふところがたなに迎えた”と風の噂で聞いていたけど、本当だったんだなぁ……と」

 高次の京極宗家と高知の京極家は完全に別の家となったが、家臣間で交流はあった。しみじみと漏らした高知の声に、負の色合いは感じられない。

「兄貴が内府様の元に駆け付けるとは、正直思っておりませんでした。……もしかして、軍師様の入れ知恵ですか?」

「いや。翁には意見を伺いはしたが、自分の判断で此処ここに来た」

 はっきりと答えた高次に、高知は「へぇー……」と意味深に頷く。

「やっぱり、兄貴は変わられた。きもが据わった感じがします」

「……そうか? 自分ではそう思わないが」

 高次が首をひねるも、高知はまくし立てるように続ける。

「これまでの兄貴なら、火中かちゅうの栗を拾う真似はせず日和見を決め込んでいたことでしょう。どちらかにくみして敵を作りたくない、御家の存続を第一に考えて行動した筈ですから」

 高知の指摘に、高次も「確かに」と頷く。そうした点では、翁との出会いを機に変わったかも知れない。

 京極家は家督を巡る内紛で衰退し、浅井家の台頭もあり落魄らくはくした暮らしを経験してきた高次からすれば、隆盛も大切だが御家を後世に繋ぐ事こそ最優先にすべきと捉えていても不思議でない。大名の地位に復帰し、京に近い要衝・大津城を任される現状を維持すべく危ない橋を渡らない選択も、他者から非難されるいわれはない。先祖代々脈々と受け継いできた血筋や家を絶やす事こそあくなのだ。

れど、兄弟揃って同じ方に付くのは共倒れの恐れもありますぞ」

 淡々とした口調でズバっと斬り込む高知。高次も弟が来ている旨を伝えられた時、喜びよりも懸念が先に浮かんだ。家康が天下を獲れば京極家は安泰だが、もし敗れれば共に改易される危険性をはらんでいる。御家を次代に託す事を考えれば、敵と味方でそれぞれ属すのが最も望ましかった。これならどちらが勝っても生き残れるからだ。

それがしは別に潰れても構いません。兄貴の家臣になればいいのですから。……内府様が危うくなるか、兄貴の身が危うくなったら、躊躇なく鞍替えして下され」

「しかしながら、それでは双方の心象を悪くしないか?」

 かなり早い段階から家康に接近しておきながら、自らの立場が危ういと見て三成の方に転じた場合、家康も三成も“保身に走る腰の定まらない輩”と苦々しく見るに違いない。そうなれば、当然の事ながら快く思う筈がない。高次はそれを危惧していた。

 憂慮ゆうりょする高次に対し、「心配()りません」と断言する高知。

「兄貴には“御方様おかたさま”に“たつ”という守り神が付いております。例え負けた方に属していたとしても御方様を通じて嘆願すれば、家名を残すくらいは出来るでしょう」

「……私は初やたつの“オマケ”なのか」

 閨閥に頼れとさとす弟の言葉に意気消沈する高次。しかし、高知は首を振る。

「やれ“閨閥”だ“蛍”だとおとしめるのは、持たざる者のねたみやひがみに過ぎません。使えるものを使って何が悪い。かの太閤殿下だって総見院(織田信長の戒名かいみょう)様の御子おこを貰い受けたではありませんか」

 天正元年に北近江を治める大名になった羽柴秀吉だが、正室・寧々との間に子はなく、側室との間に産まれた石松丸いしまつまるも天正四年〈一五七六年〉に夭逝ようせいするなど、跡継ぎに恵まれなかった。そこで秀吉は主君である信長の五男・於次丸おつぐまるを養子にしたのだ。家臣には厳しい信長も血を分けた我が子には甘いところがあり、於次丸を養子に迎える事で羽柴家の継続を図った。この案は寧々の献策とされる。後に元服し“秀勝”と名乗ったが、天正十三年十二月十日に十八歳の若さで病死している。

 主君の秀吉でさえ血縁を利用しようとしたのだから他人がかく言われる筋合いはない、高知はそう言うのだ。

く言う某も年若としわかながら“従四位下・侍従”の位にあるのは兄貴の恩恵を受けたからに他なりません。繋がりやえんは強みであり、恥じるところなどありましょうか。使えるものを使わないで滅ぶ方がよっぽど恥ずかしい」

 秀吉子飼いの臣の多くは武断派・文治派に関係なく“従五位下じゅごいげ”に留められる中、高知は他の者達より高い“従四位下”の位にあるのは“従三位”である兄・高次の影響が大きい。位階だけなら高知は三成よりも上になる。

 それを“兄の血縁のお蔭だ”と胸を張って言い切る高知。その姿からは後ろめたさや引け目は一切なく、堂々としている。そうした割り切りが出来る弟を、高次はうらやましく思う。

「兄貴」

 突如背筋を正した高知が、高次の目を見つめながら呼び掛ける。それに釣られて高次も背筋を伸ばす。

「“守り神”に頼りたくない気持ちは分かりますし、過信して欲しくもありませんが、これだけは言わせてくれ。兄貴はおのが信じた道を貫いて欲しい。生き残りの為の工作なら全て終わってからでも十分に間に合う。他人はあれこれ言い立てるし刻一刻と移り変わる情勢に目がくのは理解しているけれど、軸がブレるのだけは勘弁してくれ。みっともなくて見てられない」

「……分かった」

 弟の心からの願いに、高次もしっかりと受け止める。

 それから体を翁の方に向けた高知は、「寿至斎殿」と声を掛ける。

「意気地なしで優柔不断な兄はかなり頼りないかも知れませんが、やる時はやる男です。どうか、どうか兄の事を、よろしくお願い致します」

 言うなり高知は深々と頭を下げる。兄を想う気持ちがヒシヒシと伝わる誠意ある姿に、翁もかしこまってから「承知した」と応じる。

「……そういうやりとりは、本人が居ないところでやってもらいたいな」

 当の本人が居る目の前で散々な言われようをされ、不満顔で抗議する高次。それに対し高知は「おっと、失礼しました」と首をすくめてペコリと軽く詫びる。兄弟の関係性を如実にょじつあらわしていると、翁は微笑ましく見つめていた。


 伏見・大坂の間で緊張が高まるも、それぞれの旗頭である家康も利家も衝突を望んでいなかった。家康は先述した通り武断派の一部も利家方に参じている状況から“まだ勝負を仕掛ける時ではない”と捉えていたし、利家もまた“無闇に争乱を起こすべきではない”と考えていた。石田三成は『天下への野心を見せ始めている家康を生かせば将来豊臣家に危害が及ぶ』として利家に騒擾そうじょう覚悟で討伐すべきとくも、利家はこれを聞き入れなかった。この判断は病におかされ我が命はそうながくないと利家が悟っていた事も影響していたと思われる。健康体なら豊臣家の為に大勝負へ打って出た可能性もあっただろうが、跡を継ぐ利長が家康と対峙するにはあまりに役不足で、前田家の存続を優先したと考えられる。

 慶長四年二月二日、家康と四大老・五奉行の間で誓紙を交換。家康は誤解を招く行動をした事を謝罪し、互いに戦う意思がない旨を確認した。これにより事態は沈静化し、伏見と大坂でも落ち着きを取り戻した。

 秀吉が亡くなってから往来が途絶えた事が遠因えんいんの一つと捉えた利家は、伏見の徳川屋敷を訪問。返礼に家康も大坂の前田屋敷を訪問したが、病を押して伏見へ赴いた無理がたたり利家は床から離れられない程に衰弱していた。利家は最後の気力を振り絞って家康との会談に臨んだが、もし家康に怪しい動きがあれば布団の中に隠した刀で差し違える覚悟だった。しかし、会談はつつがなく終了、利家は家康が帰る間際に『利長を頼む』と伝えたとされる。

 そして――うるう三月三日、前田利家死去。享年六十一。嫡男の利長に『前田勢一万六千の内、半分を大坂に、もう半分は金沢に置くように。(利長は)大坂から三年間離れるな。もし大坂で戦が起こりそうになったら(次男・利政としまさは)国許の兵を率いて駆け付けよ』と遺言を残したとされる。武断派と文治派の双方から信頼を得ていた重鎮の死に、たがが外れた豊臣家中は急転直下で思わぬ方向に転がっていく事となる――!!


 慶長四年閏三月三日、昼。利家死去の訃報から程なく届いた情報に、高次は驚愕きょうがくした。

「治部を憎む面々が、石田屋敷に押し掛けた……だと?」

 大坂の京極屋敷で利家の通夜に参加すべく準備していた高次に慌てた様子で現れた翁から伝えられた内容に、息を呑んだ。

 小姓時代から生じていた亀裂は朝鮮のえきを境に顕在けんざい化した三成と武断派の対立だが、まさか押さえ役の利家が亡くなった当日に排除へ乗り出すと思っていなかった。それだけ恨みが深い証拠だが、こんなに早く実行するとは。

「はい。主計頭かずえのかみ(加藤清正の官名)殿、清州侍従(福島正則の通称)殿、丹後侍従(長岡忠興の通称)殿、甲斐守(黒田長政の官名)殿、左京大夫(浅野幸長(ゆきなが)の官名)殿、吉田侍従(池田輝政の通称)殿、左馬助さまのすけ(加藤吉明の官名)の七名が手勢を率いて襲撃した模様」

 急いで来た翁は紅潮こうちょうした状態で答える。

 主君・豊臣秀頼のお膝元である大坂で仇敵きゅうてきの石田三成を始末するべく兵を連れて押し掛けるとは政変も同然の行いで、到底許されるものではない。ただ、気になるのは……。

「……して、治部の安否は?」

 襲撃の一報を受けたものの、三成の所在について翁は言及しなかった。とらえたか始末されれば必ず襲撃した側から発表がある筈だ。

「事前に襲撃の兆候ちょうこうを掴んでいたらしく、既に避難されたよし

 利家死去を知った武断派の面々はまとめ役である加藤清正の屋敷に集結し三成の屋敷へ向かう手筈を整えていたが、隣接する屋敷の主が秘かに三成へ通報した事で難を逃れられた。しかし、空振りに終わった武断派の面々は三成の行方を捜索する為に手分けして諸大名の屋敷を訪ね始めた。

 この時、三成は懇意こんいにしている佐竹義宜の屋敷に潜伏していたが、高次や翁は知らない。

「治部が姿をくらましたとなれば、しらみ潰しに探すだろうなぁ……」

 自らの屋敷にも来るかも知れないと考えた高次はゲンナリする。槍働きで頭角を現してきた武断派の面々は思慮深いとは言いがたい者が多く、加えて頭に血が上っているので殺気立っている。三成は犯罪人ではないのでかくまっていても何の問題もない上に武断派の面々に何らかの権限がある訳でもなく、屋敷の中に踏み込んで捜索する事は出来ない。そうと分かっていても、恨みを晴らす為に手段を選ばない面々に話や道理が通じるとは思えない。全くの無関係である自分に火の粉がかぶる形で迷惑をこうむるのは勘弁願いたいものだ。

 武断派の将が来た時のことは一旦置いておいて、高次は翁に訊ねる。

「今回の件、どういう決着になるのだろうな」

 何処どこに匿われているか知らないが、一つ一つ調べていけばいつか辿り着かれる。三成と懇意にしている者は限られるのでそちらへ優先して人を割いているにしても、出て来ないとなれば付き合いの薄い者達にも矛先が向けられるかも知れない。そうなれば偶発的な衝突が起きる可能性もいなめない。

 本来であれば私怨しえんもとづく法的根拠を持たない実力行使に踏み切った武断派七名の行動は処罰の対象となるのだが、そのさばきを下す者が不在だった。秀頼は幼君で、その任を代行するのは五奉行の役割だがその内の一人である三成は当事者になっている。五奉行がダメなら上位の位置付けに当たる五大老が担うべきであるのに対し、前田利家は死去し他の四大老は静観に徹している。興奮状態にある武辺者を押さえられるのは五大老筆頭の家康くらいだが、果たして……。

「流石に治部殿が討たれる事はないと思われますが、何が起きてもおかしくないかと……」

 渋い表情で答える翁。現状で仲裁に乗り出す者が居ない以上、どうなるか見通しは全く立たなかった。

 暗澹あんたんたる気持ちが溜め息となって高次の口から吐き出される。いずれにせよ、秀吉が築いた天下泰平の世はいつ崩壊してもおかしくない事を改めて突き付けられた形だった。


 佐竹屋敷にも武断派の手が迫っていた事から、三成は伏見城にある自らの屋敷(治部少丸)へ避難した。この時『敵視している徳川家康の屋敷に逃げ込んだ』とする逸話が有名だが、それを裏付ける史料は発見されておらず近年その信憑性は疑問視されている。ただ、二月に行われた前田利家との会談で伏見城の支城に当たる向島むかいじま城へ入るようすすめられた影響で伏見は家康の勢力下にあり、屋敷へ入るに際して三成側から家康へことわりを入れたと推察される。

 翌、閏三月四日。伏見に三成が居る事を掴んだ武断派七名は家康の元を訪ねて身柄の引き渡しを求めたが、拒否。武断派の行動は私怨にるところが大きく、法による統治の下では到底認められるものではなかった。代わりに家康は三成の隠居と私怨の原因となった朝鮮の役での不当な扱いについて再検証する事を約束し、武断派の面々も納得し引き下がった。この裁定で三成は命を落とす危機から脱したものの、その代償として今回の騒動の責任を取り全ての役職を辞して居城の佐和山城で謹慎する事となった。

 一連の騒動で政治的な対抗馬である石田三成を事実上失脚させた家康は、豊臣政権の中で影響力を増していくこととなる。



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