二 : 自らの意志 - (2)伏見・徳川屋敷
伏見城下にある徳川家の上屋敷は、物々しい空気に包まれていた。甲冑を身に着けた兵が屋敷の周りを警護し、敷地内には様々な家の手勢が待機している異様な光景だった。
そんな中を、高次は翁と供を二人連れて訪れ、玄関で取次の者に家康へ会いたい旨を伝えた。ただ、面会を求める者が多いとのことで高次一行は控えの間に通された。家康派と思われてない高次の登場に驚く者も居たが、流石に“蛍だ”と陰口を叩く者は居ない。
(あれは幽斎殿に如水殿……ほう、出羽侍従殿に有楽殿、それに刑部殿も居られるか)
控えの間に座る面々を秘かに盗み見る高次。自分もそうだが意外な顔も居る。
三成を唾棄する者や家康と婚姻を結んだ者は当然として、その父である長岡幽斎や黒田如水には別の思惑があるように高次は思える。
長岡幽斎。天文三年〈一五三四年〉生まれで六十六歳。“幽斎”は雅号で以前は“藤孝”と名乗っていた。足利将軍家奉公衆の三淵家に生まれ、後に細川家へ養子に入る。十三代将軍・足利義輝に仕えるも、永禄八年〈一五六五年〉の“永禄の変”で義輝が三好三人衆に討たれると、義輝の弟・覚慶(後の義昭)の救出から将軍擁立へ向けて奔走。織田信長の後援を得て義昭が十五代将軍に就くと、藤孝も幕臣として仕えた。しかし、義昭と信長の間に隙間風が吹き始め両者の亀裂が決定的になると、織田家へ鞍替え。この時、幕府から完全な訣別を示す為に姓を“長岡”に変更している。義昭が京から追放されて足利幕府が滅ぶと、藤孝は元幕臣の寄騎に付けられた。藤孝は嫡男忠興に光秀の娘・玉を貰うなど友好的な関係を築いていたが、光秀が天正十年六月の本能寺の変で信長を討ったと知った藤孝は直ちに剃髪、喪に服す姿勢を鮮明にして中立を保った。以上の経緯からも分かる通り、幽斎は時勢を読む事に抜群に長けていた。
黒田如水。天文十五年〈一五四六年〉生まれで五十四歳。嘗て“官兵衛”孝高と名乗り、太閤秀吉の軍師として辣腕を振るった。しかし本能寺の変の報を受けて号泣する秀吉に「御運が開けましたな」と囁いたのをキッカケに恐れられるようになり、身辺から遠ざけられる。それから暫くが経過し、秀吉が若手家臣との夜話の席で「儂の次に天下を取るのは誰だ」と投げ掛けると家臣達は家康や利家の名を出す中、秀吉は「官兵衛よ」と冗談めかして言ったという。それを聞いた官兵衛はすぐさま秀吉に隠居を申し出て剃髪した……という逸話が『名将言行録』に残されている。朝鮮の役では軍監として海に渡り、帰国後は領国の中津に居たが畿内の情勢がきな臭くなったのを嗅ぎ取って上洛していた。
織田“有楽斎”如庵。天文十六年〈一五四七年〉生まれで五十三歳。織田信秀の十一男で信長の弟に当たる。剃髪前は“源五郎”長益と名乗っていたが、信長存命時に取り立てて目立った存在ではなかった。信長の死去後は甥・信雄(“のぶかつ”の説あり)に仕え、信雄が改易されると秀吉の御伽衆に加わった。血縁関係から淀の方の信任が厚く、年々存在感が増していた。千利休から茶の指導を受けるなど文化人の印象が強い。
上記三名は隠居か隠居同然の身ながら……意外に思ったのは次の二人。
最上“二郎太郎”義光(通称“出羽侍従”)。天文十五年生まれで五十四歳。足利将軍家から“羽州探題”の世襲を許された名家で、奥羽の覇権奪取を目論む伊達政宗や庄内郡に侵攻してきた上杉景勝と互角に渡り合った人物だ。出羽山形二十八万石の大身で“羽州の虎将”の異名を持つ義光だが、秀吉に強い恨みを抱いていた。
東国一の美少女と謳われた次女(三女の説あり)・駒姫を関白の座にあった豊臣秀次から側室に差し出すよう強く迫られ、『十五歳になったら嫁がせる』と約束した義光は文禄四年に十五歳にとなった駒姫を京送るも――京に着いて間もない七月十五日、秀次は高野山で自刃。秀次の妻妾達も連座で斬首の刑を言い渡されたが、その中に秀次とまだ会ってすらいない駒姫も含まれてしまった。巻き添えを喰う形で愛娘を喪った衝撃で駒姫の母・大崎夫人も後を追うように亡くなり、義光は悲しみのどん底に突き落とされた。しかし、義光の災難はこれで終わらない。自らの娘を差し出した事実を(渋々という点は斟酌されず)重く受け止めた秀吉は、義光を“秀次と親しかった者”と判断し処罰しようとしたのだ! この疑いは徳川家康の取り成しにより晴らされたが、これを機に義光は家康へ接近する事となる。
大谷“紀ノ介(平馬とも)”吉継(通称“大谷刑部”)。秀吉子飼いの将の一人だが、その秀吉から『百万の兵を預けて戦わせたい』と激賞された人物で知られる。しかし、それ程までに高い評価や能力がありながら敦賀五万石(敦賀は日本海を船で運ばれてきた荷を揚げる重要な港で、その地を秀吉が任せるだけの信頼が吉継にはあった裏返しとも言える)で無役なのは深い理由がある。
癩病(ハンセン病)――業病の一種として忌み嫌われていた不治の病だ。前世の業で発症すると信じられ、接触や体液の侵入等で伝染すると人々から恐れられていた(癩菌が原因で、伝染する可能性はゼロではないものの自然免疫で防げる程に感染力は非常に弱い)。吉継がいつ発症したか定かではないが、天正十五年頃には皮膚が壊死する程に悪化し視力も相当落ちていた。それでも秀吉は奉行の一人として遇し、吉継もその任に応えていた。
この吉継、豊臣家中ではかなり珍しく三成と懇意にしていた。いや、“友”と呼べる程に親しい間柄だった。天正十五年に大坂城で開かれた茶会の席で秀吉の点てた茶を参加していた者達が一口ずつ回し飲みしていたが、吉継の番で顔から膿が一滴垂れて茶の中に入ってしまった。吉継の後の者達は癩病に感染するのを恐れて口を付けるフリをして避けていたのだが、三成は恐れるどころか全て飲み干してしまったのだ。自らの不調法を詫びた三成は秀吉にお代わりを所望し、場を丸く収めたとされる。普段なら“気が利かない”と不評を買う三成には希少な機転に感銘を受けた吉継は、終生この男の味方でいる事を胸に誓ったとされる。
このように、それぞれが別の思惑を持ち伏見の徳川屋敷に終結した次第である。同床異夢の面々は有事の際に果たして家康に味方するか。腹の内の探り合いといったところか。
控えの間に通された者達は順々に呼ばれて退室していくが、高次の番は一向に回ってこない。寧ろ高次より遅れてやって来た者が先に呼ばれる有様だ。明らかに扱いが低いけれど、世間の評判を鑑みれば致し方ないと高次は割り切っていた。
徳川屋敷に入って半刻〈一時間〉を過ぎた頃……ようやく、その時が訪れた。
「大津宰相様、お待たせし申し訳ありません」
呼びに来たのは小姓ではない。褐色肌で皺くちゃな顔をした小柄な老人である。
(ほう……本多佐渡か)
高次は現れた人物に少し驚いた。
本多“佐渡守”正信。徳川家康の懐刀にして謀臣である。天文七年生まれで六十一歳。今でこそ重用されているが順風満帆に出世街道を歩んできた訳ではない。
一度は家康の家臣になるも、三河で発生した一向一揆で敵方に属した為に戦後出奔。各地を流浪した後、徳川家へ復帰している。家康の身代が大きくなる中、諸大名の切り崩しや敵家中の不和を誘発させるなど“武器を用いない戦い”の大切さを身に沁みて知らされ、武辺者の多い三河武士の中で松永久秀から(徳川家に詳しくないと前置きした上で)『徳川家は武辺一辺倒の者ばかりだが、正信は剛でも柔でも卑でもない非常な器である』と評した正信は打って付けの人物だった。
因みに、家中から蛇蝎の如く嫌われていた正信だが、それでも家康は正信のことを“友”と呼び、自らの寝所へ入る許可を与えた程に信頼していた。
この家康の最側近とも言われる人物が高次を呼びに来るとは、破格な扱いとも捉えられる。若しくは、かなり待たせた後ろめたさから他の者達と釣り合いと取る為に出てきたか。……恐らくは高次が“従三位・参議”の高位にあるが故の対応なのだろう。
翁を伴って廊下を歩いた高次は正信に案内され、書院の間に通された。
「おぉ、大津宰相殿。此度はよくぞ駆け付けて下さりましたな」
高次の姿を目にした家康は即座に立ち上がったかと思うと、にこやかな笑みを浮かべて高次の手を自らの両の手で包み込んだ。
徳川“三河守”家康。正二位・内大臣。天文十一年十二月二十六日生まれで当年五十七。前田利家と並ぶ五大老筆頭にして次期天下人の最有力候補である。ただ、今日に至るまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。
三河国を治める松平家の嫡男に生まれた竹千代(家康の幼名)だが、幼少期は織田・今川家へ人質に出された。今川義元からその器量を買われて自らの姪である瀬名を正室に与えられるなど厚遇されるも、その義元は永禄三年五月に田楽狭間で織田家の奇襲に遭い討死。将来を悲観した家康は義元の追い腹を切らんとするまで追い込まれるも、正気を取り戻し独自の道を歩む事を決めた。
三河で発生した一向一揆で家中を二分する争いや武田家の侵攻で窮地に立たされるなどの逆境を乗り越え、天正十年には三河・遠江・駿河の三ヶ国の太守となる。その御礼参りに安土・畿内を訪れるも、天正十年六月に本能寺の変が発生。絶望的な状況に家康は自害を決意する程に追い込まれたが、伊賀越えで三河へ帰還。その後、混乱に紛れて空白地帯と化した甲斐・信濃の二ヶ国を手に入れた。
山崎・賤ヶ岳の戦いを経て天下人候補筆頭に躍り出た秀吉からその存在を危険視されていると感じた織田信雄は同盟相手の家康に協力を仰ぎ、これ以上秀吉の伸長を好しとしない家康もこれに応じ天正十二年三月に一万の軍勢を率いて出陣。公称十万の軍勢を率いてきた羽柴秀吉相手に負けなかった事から、世間で“戦巧者”の評判が高まる結果となった。
その後も豊臣政権と一定の距離を保っていた家康だが、天正十四年四月に秀吉が妹・朝日姫を正室に差し出し、十月には母・大政所(なか)を“朝日の見舞い”として送る旨を通知。これ以上拒否すれば攻め滅ぼされると悟った家康は大坂へ赴き、秀吉に臣従した。
天正十八年二月に北条征伐が開始されると、家康は北条家と結んでいた同盟を解消した上で従軍。終盤に秀吉から関東移封を打診され、家康は受理した。五ヶ国百五十万石から関東二百五十五万石へ大幅加増となったので一見栄転に思えるが、一揆を起こされたりすれば改易の対象にされるので失敗は許されなかった。民や国衆の反応を窺いながら政を進めていくこととなる。
隠忍自重の連続だった家康の人生は、秀吉の死でようやく自分の番が巡ってきた。年齢を重ねた影響で下腹が出るやや肥満な体型をしているが、肌の色艶はとても良い。家康は自ら薬を調合したり武芸や鷹狩で体を鍛えたりして健康に気遣っており、肉付きの割に筋肉があるので体の動きにもキレがある。そして何より――威厳や自信が家康の体から滲み出ていた。
「いや、申し訳ない。我が屋敷に駆け付けて下さる方が思いの外に多く、時間が掛かってしまいました。大分お待ちしたでしょう?」
「いえ、とんでもありません!!」
家康から詫びの言葉が出てきて思わず恐縮する高次。世間に“律儀者”で通っている家康は、官位も役職も立場も下の高次が相手でも腰が低かった。
会見の場には家康と正信、それに高次と翁。お互いに腹臣だけが同席する形だ。
「ところで、そちらの方は?」
正信が訊ねてきたので、高次は簡潔に紹介する。浅井長政の軍師で姉川の合戦の折にも帷幕に居た事を聞かされた家康は、感慨深そうに目を細めた。
「左様か……あの戦の備前守(長政の官名)殿はそれこそ鬼神が乗り移ったような戦い振りだった。“勇将の下に弱卒なし”とはよく聞くが、正にそれを体現しておられた。正直、あの時の相手が朝倉で良かったと胸を撫で下ろしたものだ。もし浅井勢とぶつかっていたら、今ここに儂は居らなかっただろう」
元亀元年六月の姉川の合戦では、家康も兵を率いて参戦していた。合戦前の軍議の場で信長から『三河殿(家康)は浅井と対峙してもらおう』と提案されたが、家康は固辞し『朝倉を受け持つ』と宣言した。遠路遥々駆け付けたのだから強い方と戦いたい、ある種見栄を含んだ提案だったが、結果的にこの選択は正しかった。浅井勢の猛攻を織田勢が凌いだのは兵数で上回り十三段の構えがあったからで、兵数で劣る徳川勢では到底持ち堪えられなかっただろう。徳川勢が兵を引けば余勢を駆った浅井勢は朝倉勢と対峙する織田勢にも襲い掛かり、信長も負けていた。そうなれば信長の天下は無かっただろうし、当然のことながら秀吉の天下統一も家康の飛躍も存在しない。間違いなく歴史は引っ繰り返っていた。それくらい、信長にも秀吉にも家康にも運命を変える一戦だった。
昔を懐かしんだ家康だったが、それも束の間ですぐに表情を引き締める。
「皆々様には儂の身を案じて下さり、大変嬉しいのですが……亡き太閤殿下から後事を託された者同士で争い世を騒がせる事は本意でありません」
神妙な面持ちで明かす家康。ただ、額面通りに戦を望んでないと受け取るのは少々違う。
緊張の高まりで伏見の徳川屋敷に駆け付ける者も多く居たが、大坂の前田屋敷にも同じく人が集まっていた。毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の三大老に石田三成・増田長盛・長束正家・浅野長政・前田玄以(美濃前田家、利家の前田与十郎家とは無関係)の五奉行、さらに三成と親しい小西行長や佐竹義宣、西国の有力者である長曾我部盛親や立花親成(後の宗茂)、さらに三成を唾棄している加藤清正や長岡忠興・加藤吉明(後の嘉明。三河生まれで父・教明は元松平家臣。清正とは無関係)も含まれていた。利家を慕う清正や利家の娘・千世が嫡男・忠隆の正室である忠興は前田家との繋がりを優先し、殺したい程に憎んでいる三成と呉越同舟の道を選んでいる。
大坂の面々を見るに、家康の方が些か分が悪い。利家を含めた四大老・五奉行に実力者も揃い、先述した以外にも多くの大名が前田屋敷に駆け付けている。そして何より、利家方には“秀頼”という玉がある。もし伏見と大坂で武力衝突に発展した場合、家康を警戒する淀の方が秀頼に代わり討伐の命を出す事も十分に考えられる。そうなれば家康は“秀頼に刃を向けた逆賊”と見做され、天下獲りどころではなくなる。
「宰相殿は幸いにも伏見・大坂の双方に顔が利かれる。この先戦が起こりそうな空気になった折には、是非とも中立の立場で仲立ちをお願いしたい。真に勝手な事かと思いますが、引き受けて頂けないでしょうか?」
心底弱った表情の家康が頼んできた。この展開は高次も予想しておらず、それでいて自分以外に適任の者も居なかった。
今は家康方に属しているものの、妻・初は淀の方の妹であり家康の嫡男秀忠の妻・江の姉でもあり、妹・竜子は北政所(秀吉の正室・寧々の別称)と親しく、大坂の豊臣家と接点を持つ。淀の方・北政所の両名も戦になるのを望んでおらず、両者の間で和平を働きかけるなら高次が動くのが現実的な線だろう。
豊臣家分断を焚き付ける一方、水面下で旗色が悪くなった時の備えも用意しておく。その抜け目の無さに、戦国乱世の荒波を乗り越えてきた家康の強さを高次は垣間見た気分だ。
「畏まりました。その役目、僭越ながらお引き受け致します」
慎重に考え、高次は丁重に受けた。ここで引き受ける事で家康に恩を売れると判断したのが決め手だった。
「そうか、忝い……」
そう言うなり、上座から下りた家康は高次の元に歩み寄ったかと思うと、その手を包んで何度も頭を下げて感謝を示した。これには高次も恐縮しきりだった。
ホッとした表情を浮かべた家康は「頼みましたぞ」と言い、席を立った。慌てて平伏し見送る高次へ、正信が「弟君も参られておられるので、会われては如何か」と言い残し、家康の後を追うように退室していった。
時間にして四半刻〈三十分〉の半分くらいか。あっという間に終わった会談に、高次は上首尾な内容に手応えを感じていた。




