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四 : 大津城攻防戦 - (4) 心を折りにくる敵の奥の手

 九月十三日、日の出前。まだ暗い内に目の覚めた高次は、湯漬けをサッと流し込むと鎧を着て外へ出る。

 戦が始まって以来、ろくに睡眠は取れていない。翁や家老達からは「総大将が倒れたら一大事」と休息を取るよう勧めてくるが、戦で気がずっとたかぶっている所為せいか床に就いても眠たくならない。僅かな時間微睡(まどろ)むか意識が飛ぶくらいで、大半は目をつむって横になっているだけである。寝ている間もあれこれ考えてしまい、余計に目が冴えてしまう悪循環に陥っていた。

 心も体も休まらず疲れも極限まで高まっている筈なのに、高次は不思議なことに辛いとは全く思わなかった。大義の為に一世一代の大勝負に臨んでいる高揚感か、過酷な環境にずっと置かれ続けて感覚が麻痺まひしているのか。いずれにせよ、周囲が心配する気持ちは分かる。

 払暁ふつぎょう薄明はくめいすみに水を足したように闇の黒が時の経過と共に薄くなっていく。東の空が白々(しらじら)と明るくなっていく様を眺めるのも、案外悪くない。高次はそう感じていた。

(取り敢えず、浜町口の欠員は埋めた。でも、他の守り口も日に日に圧力が強まっている。何か手立てを考えないと)

 まだ世界が眠りに就く頃、刻一刻と夜が明けていくのを無心で眺めているこの瞬間だけ、余計な事を考えずに済む。自分の考えを整理するには打って付けの時間だ。

 辺りが暗い中、フラフラと出歩いている事を家老達に知られたら、絶対に止められるだろう。城内に忍びが紛れ込んでいる可能性も否定出来ず、闇討ちされて命を落としては元も子もない。一応、警固の為に近習を連れているが、どれくらい役立つか未知数だ。

(昨日はからくも持ちこたえたが、今日もそうなるとは限らぬ。早晩、破られる。そうなった時、曲輪で応戦するか、それとも本丸に戦力を集めて耐え忍ぶか……)

 楽観的な展望は極力排除し、最悪の事態を考慮する。そうした思考で策を練る。翁や家臣達の意見も聞くが、決めるのは総大将である高次だ。自分で考える力を養っておかないと、家臣達から見放されてしまう。当主は人に囲まれている時間が圧倒的に多く、一人になれるのは布団に入っている時かかわやに入っている時くらい。それ故に、一人で居る時間は貴重だ。

 暫し思惟しゆいの海に沈んでいた高次だったが――遠くから湧いたドンという筒音で現実に引き戻された。ひゅるるると笛を鳴らすような音が木霊こだましたかと思うと、今度は湖の方で大きな音がした。反射的にそちらへ目をると、巨大な水柱みずばしら飛沫しぶききながら崩れていた。

 何が、起きた。困惑する高次は周囲を見回したが、特に異変はない。警戒し身構える高次に、再び筒音が鳴る。

「殿!! お伏せ下さい!!」

 近習の一人が言いながら高次に覆いかぶさる。地面へ倒れる間際、高次は音の正体を視界の端で捉えた。

 空を飛ぶ、黒い球体――。点のように小さかったものが、段々と大きくなっていく。それは、明らかにこの城へ目掛けて飛んで来ていた。

「も、申し訳ございません。咄嗟とっさのこととは言え、殿の上に乗るなんて……」

「構わぬ。私を守ろうとしたのだ。それより……」

 謝ろうとする近習を制するように高次が答えると、すぐに立ち上がった。

「皆を集めよ。喫緊きっきんに講じなければならない事が出来た」

「……はい!!」

 高次から命じられた近習が、小走りに駆けて行く。城内が慌ただしくなる中、高次は南西の方角を睨んでいた。

 寄せ手は、まだ奥の手を隠していた。膠着こうちゃくした局面に一石いっせきを投じるに“それ”は充分過ぎる働きをした。“それ”とは――大筒!!


 戦国期における銃火器は火縄銃が主流だった。これは天文十二年〈一五四三年〉八月二十五日に種子島へ漂着した大型船に乗っていた南蛮の商人から火縄銃二挺を買い求めたのを機に(これ以前に明や琉球りゅうきゅう・朝鮮を経由し非公式の内に伝来したとする説もある)我が国へ伝わったが、誰でも簡単に使える手軽さ(火薬の原材料である硝石は国内で産出されず海外からの輸入に依存しているが故に高額・貴重だった点を除く)や日本刀や槍などの鍛冶かじ技術が鉄砲の鋳造ちゅうぞうに応用可能などの要素が重なり、戦国乱世の武器需要と相まって爆発的に普及した。野戦・城の攻防に暗殺と汎用性が高いのも普及の後押しとなった。鉄砲が戦で一般的に用いられ始めると。城を造る際も敵の弾が届かないよう濠の幅を広げたり土塀どべいに厚みを持たせたりと鉄砲を前提とした縄張りがほどこされるようになる。

 ただ、主流でないにせよ重火器も戦国時代に我が国へ渡来していた。天正四年、豊後の大友宗麟が南蛮商人から仏狼機砲二門を購入したのが公式記録上の初出しょしゅつで、天正十四年に居城の臼杵うすき城(丹生にう島に築かれた城)が島津勢に攻められた際にはこの大砲を活用し追い払う事に貢献している。その並外れた威力から“国崩し”の異名を付けられたが、家臣達の中には“自分の国を崩す”と忌み嫌う者も居たとされる(実際、宗麟の耶蘇教(キリスト教)入信に端を発した領民の改宗・仏教弾圧や宗麟が家臣の妻に手を出すなど不行跡ふぎょうせきも重なり家臣の離反を招き、竜造寺・島津勢に大敗したのを境に没落の一途を辿った末に改易されている)。

 この時代の大砲は青銅せいどう製の“石火矢いしびや”と鉄製の“大筒”の二つに分類されるが、元々石火矢は(台座の付いたバネ仕掛けの弓)の一種を差していた事に呼称が混同されていた為に、分類が定着するのはもう少し先のこととなる。仏狼機砲など石火矢は大きな口径から砲弾を発射する破壊力、大筒は入手が簡単な鉄で鉄砲技術を応用可能な利点はあったが、持ち運びに難点があったり火薬の調合が難しかったり(多過ぎれば筒内で爆発、少な過ぎれば威力が出ない)、使う火薬量に対して威力がそこまで高くない等の理由から日本で定着しなかった。

 見方が変わったのは、朝鮮出兵の時。明勢が仏狼機砲を活用し日本勢を大いに苦しめた経験から見直され、国内で製造する動きが出てきた。関ヶ原の戦いでも石田三成が持ち込んだ大筒数門で押し寄せる敵勢に撃ったとされ、これより先の大坂の陣でも家康が南蛮から購入した石火矢で大坂城を砲撃させるなど徐々に取り入れられていく。

 天正年間に築城された大津城は鉄砲の対策こそされていたが、まだ一般的ではなかった大砲の攻撃については考慮されていなかった。当初の予想に反して京極勢が善戦している事を受け、親成はまだ馴染みの薄い大筒を投入する事を決めた。寄せ手の中に石火矢や大筒の有用性を知っていた大友家旧臣の立花親成が寄せ手に加わっていた点、鉄砲製造の一大生産地である国友村が同じ近江国内にあった点、国友村が豊臣家直轄領で奉行衆の裁量で便宜べんぎを図れた点の三つが揃っていたのが大きかった。逆に京極家からすれば不運としか言いようがないが。園城寺おんじょうじ(別名三井寺(みいでら))の後ろにそびえる長等山に大筒を運び上げ、高所から撃ち込んだのである。新たに加わった遠距離からの砲撃を止めさせるには十重とえ二十重はたえと取り囲む敵勢を突破する必要があり、人数で劣る京極勢には奇蹟でも起こさない限り不可能だった。

 砲弾の中に火薬を詰める技術はまだ無かったので着弾しても炸裂さくれつする事は無かったが、巨大な発射音と空気を裂いて接近する音は城内の人々に恐怖を与えるに充分だった。寄せ手も天守という分かりやすい標的があるので、それを狙い発射していた。京極勢も天守が狙われていると察知し、広場に陣幕を張って臨時の本陣として高次もそこから指揮を執った。

 しかし、届けられる報告はどれも良くないものばかりだった。

「申し上げます。浜町口、敵勢に突破されました」

 伝令の報告に、高次は唇を噛む。

 矢弾の消耗を恐れず雨霰あめあられのように浴びせ掛けていた事で敵を寄せ付けなかったが、開戦六日目にして遂に食い破られてしまった。浜町口は前日に死傷者を多数出して鉄砲狭間を閉じる決断を下しており、弓矢や鉄砲で敵の出足をにぶらせる事が難しくなった。塀を乗り越えられて来られると同士討ちの危険があるので飛び道具は使えず、侵入した敵の対処に人員を割かれて外への手当てが薄くなり、別の箇所から敵の侵入を許す悪循環に嵌まってしまった。

 京極勢は城内への侵入を絶対阻止する水際作戦を採用しており、外周に将兵を厚く配置していた。それは即ち……。

「申し上げます。三ノ丸、陥落致しました」

「伝令、三井寺口・尾花川口・京町口からも敵が侵入してきました」

 どんなに強固な堤防ていぼうでも、僅かな穴が穿うがたれれば水流の勢いで穴は拡げられ、決壊を招く。手持ちの数が少ない京極勢は城内の拠点に押さえの将兵を振り分ける余力などなく、敵に外壁を越えられれば難なく制圧されてしまう。そして、浜町口の防衛線が機能不全に陥れば、他の箇所にも影響が及ぶ。綻びが綻びを呼び、京極勢の守りは崩壊しつつあった。

「翁、如何いかがする」

 次々と飛び込んでくる悪い報せに、高次は翁に意見を仰ぐ。この難題に翁は複雑な表情を浮かべ、言い辛そうに答える。

「……城内を連絡する橋を落とし、残る戦力を本丸に集約させましょう。それで幾分か時は稼げるかと」

 大津城の中にも水濠が各所に設けられている。敵の侵入を許しても三ノ丸や二ノ丸などの拠点で進軍を阻む目的で、入口となる橋を焼くなり壊すなりすれば渡り入られる事が出来なくなる。琵琶湖の水を活かす工夫を凝らした縄張りだ。戦力を分散させて各個撃破されるだけなら、最後の砦である本丸に兵を集めて徹底抗戦すべきだと翁は言うのだが……。

「待て! それでは外周や他の曲輪に居る者達はどうなる!?」

 慌てた様子でただす高次に、翁は無言で首を振る。

 ギリギリまで収容し、間に合わない者は見捨てる――非情とも言える進言に、高次は拒絶反応を見せる。

「ならん! 皆の為に戦ってくれている者達を斬り捨てる真似は出来ん!」

「しかしながら、殿や奥方様・領民など大勢の命を守るにはある程度の割り切りも必要です。何卒なにとぞ、御決断を」

 高次が拒否しても翁は一歩も引かない。綺麗事や耳当たりの良い話ばかり言うのではなく、自分が憎まれうとまれようとも諫言かんげんしようとする姿勢は高次もありがたく思うが、それとこれは別問題だ。命に優先順位などない、斬り捨てる命など存在しない、その一線はどうしても譲れなかった。

 侃々諤々(かんかんがくがく)の激しいり取りが二人の間で交わされる中、巨大な衝撃音が起きた。何事かと音の生じた方へ目を向ければ、天守の一部が欠落していた。敵が放った砲撃が天守をかすめるように通過し、直撃した箇所が吹き飛ばされたのだ。瓦や木材の破片が上から降り注ぎ、逃げ惑ったり頭を覆って地面に伏せたりと周辺は大混乱に陥った。

 急を要する事態が目の前で発生し、一先ひとまず議論は脇に置いて対応に追われた。巻き込まれた者が居ないか確認し、怪我人の搬送や治療、瓦礫がれきの撤去など目まぐるしく指示を出したり確認したりしていた高次だったが、その最中にも二ノ丸が敵の手に落ちたと知らされた。これで残すは本丸のみとなり、京極勢は完全に追い詰められてしまった。

 幸か不幸か、日没が迫っていた事から敵勢の攻撃は停止。命拾いしたとは思えない高次は、引き続き天守欠落の事後対応に奔走した。


 前日に砲弾が掠め崩落した天守は、今の京極家が置かれた状況を象徴してるようだった。

 城内への侵入を許すと、そのままの勢いで三ノ丸が陥落。対応策を協議している最中に敵の砲弾が天守に当たり、その混乱下に二ノ丸も失ってしまった。残すは本丸のみ、人数こそ多いが大半は非戦闘員だ。周りには万を超す軍勢、打開するのは困難。高次以下京極勢は、絶体絶命の窮地にあった。

「伊予」

「はっ」

「今、どれくらいの兵が残っている?」

 高次から訊ねられた黒田伊予守は一瞬言い淀んだが、隠している訳にもいかず答える。

「……千、あればいい方かと」

 力ない声で明かされ、高次は天を仰いだ。他の家臣達も唇を噛んだり俯いたりしている。

 連日の激戦でかなりの数を減らしていると覚悟していたが、三分の一以下も残ってないとは高次も思っていなかった。他の曲輪が敵の手に落ち本丸だけとなった京極勢は守る面積こそ少なくなったが、本丸には避難してきた民や京極家の奥の者に怪我人を収容していて人も密集し過ぎて逆に動きが制限されていた。仮に一千の将兵が居ても、十倍以上の相手が猛攻を仕掛けてくれば一溜ひとたまりもない。

 この絶望的な状況で、京極家に残された選択肢は二つ。降伏するか、玉砕するか。

 どんなに激しい戦いを繰り広げていても、追い詰められた相手に対し降伏を促す使者を送るのが武家のならいである。『貴殿はここまでよく戦った!』と奮闘をたたえた上で『死力を尽くされたのですから、矛を収めましょう』と提案する。武士は快楽殺人者ではなく、失われる命は最小限に留める。だからこそ、あと一押しで完勝という状況にあっても、譲歩の姿勢を示すのだ。実際、この降伏開城の勧めを受けた例も存在している。

 しかし、情けを掛けられても応じるのはまれで、相手方の厚意に感謝を述べた上で拒絶する事が圧倒的に多かった。先述した通り、武士は“武士である事”に誇りを持って生きている。その誇りをけがされてのうのうと生き延びるくらいなら、矜持を貫いて華々しく散った方がいい。武士にとって誇りは命よりも重かった。生きる道を自ら断ち、武士として戦いの中で死ぬのは最高のほまれだった。寄せ手もそれを重々承知しており、断られると分かっていながら申し入れる儀式的な要素も多分に含まれていた。場合によっては男達の意地に巻き込まれる非戦闘員や女子達を城から出す例もあったが、奥方は自らの意思で城に残り城主と最期を共にする事も珍しくなかった。

 どちらを選ぶかは、城主であり当主である高次の胸三寸だ。

 場が重苦しい空気に包まれる中、近習が近付いてきた。

「申し上げます。新庄東玉(とうぎょく)殿と木食もくじき応其おうご殿が面会を求めて参りました。如何いかが致しますか?」

 落城目前の段階でつかわされたとなれば、降伏を勧める使者に違いない。高次がはなから応じるつもりが無ければこの時点で拒む事も有り得るので、家臣達は固唾を呑んで見守る。

「――分かった。会おう」

 間を置かず即答する高次。一先ずは面会を受けた事に、ホッとする者も家臣の中に居た。

 ただ、使者のフリをして城内の様子を探られるかも知れないので、帷幕いばくを張ったり会見場周辺を片付けたりするよう高次は命じた。その姿は武家の棟梁と呼ぶに相応しいくらい毅然きぜんとしており、一部の老臣は見違えった主君の姿に目頭めがしらを熱くしていた。



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