二 : 自らの意志 - (1)内府か、治部か
慶長三年十月十五日、五大老の命により朝鮮へ出兵している諸将へ帰国命令が出された。撤収を円滑に進めるべく石田三成や増田長盛・長束正家などが博多へ向かい、受け入れの準備を整えた。戦地にある諸将達には明・朝鮮勢の妨害や交戦などあったが、大きな損害を出す事なく撤収を開始。十一月下旬から順次日本へ帰国した。
戦地から帰ってきた諸将達に秘匿とされてきた秀吉の死が伝えられると、皆沈痛な面持ちになった。そこへ、石田三成がこう言ったとされる。
『皆様の働きを労うべく、伏見にて茶で持て成したい』
この提案に、ガハハと豪快に笑う者が居た。加藤“主計頭”清正である。
『ならば、儂は稗粥で応えようではないか』
慣れない土地での戦いな上に深刻な兵糧不足に苦しみ、疫病や餓死で多くの者が異国の地で命を落とした。下手をすれば戦で死んだ者を上回ったかも知れない。そんな辛く苦しい思いを味わってきた清正からすれば、日本でのうのうと過ごしてきた三成の能天気な発言に我慢ならなかったのだろう。加えて、文禄の役の際に清正が秀吉に無断で“豊臣”姓を名乗ったり(これは清正の母が秀吉の母・大政所と親戚関係だった事が関係する)朝鮮での独断専行が三成から秀吉の耳に入り謹慎を命じられた遺恨もあり、讒言した(と思い込んでいる)清正は三成を深く恨んでいた。
この逸話からも分かる通り、加藤清正や福島“侍従”正則に代表される“武断派”と石田三成や小西行長に代表される“文治派”の対立は最早修復不可能なものになっていた。
そうとは知らない伏見の高次は、十二月に入ると翁を茶室に招いて今後の事について密談を交わしていた。
「どちらに与するべきだと思う?」
問われた翁は迷うことなく即答した。
「考えるまでもありません。内府様です」
「……それはまたどうしてだ」
スパッと返され、理由を質す高次。すると、翁ははきと答える。
「幾つかありますが、豊臣家中で群を抜いた石高、嘗て太閤殿下が十万の兵を率いても負けなかった戦上手、そして何より……治部殿は些か敵を作り過ぎました」
徳川家康を敵視しているのは石田三成など数える程度に対し、石田三成を敵視しているのは武断派を中心に数多く存在する。殺したい程に憎まないまでも嫌っている者も含めればその数はさらに膨れ上がる。人の相性や好き嫌いはあれど、ここまで突出して嫌われる人間も珍しいくらいだ。杓子定規な応対に木で鼻を括る物言いで反感を買ったのもあるが、本人に相手を怒らせる意図が一切無いから余計にタチが悪い。
もし事が起これば“三成憎し”で家康に味方する者は続出するのは目に見えており、戦巧者な家康の兵力が上積みされればその分だけ負ける可能性も低くなる。それ故に『家康が勝つ可能性が高い』と翁は考えたのである。
「今は加賀大納言様という要石がありますから何とか均衡が保たれておりますが、その重石が外れてしまったらどうなるか……」
前田“権大納言”利家。天文七年〈一五三九年〉十二月二十五日生まれで当年六十。若い頃は“槍の又左”の異名を誇った傾奇者で鳴らしたが、身分の低かった秀吉とは友人の間柄だった。清州時代は家が隣同士、安土時代は屋敷が向かい同士、さらに秀吉の妻・寧々と利家の妻・まつも大の仲良しで、主君の信長も『“犬猿の仲”とはよく言うが、犬千代(利家の幼名)とサル(秀吉)は違うらしい』と評したとされる程だ。やがて立場関係は逆転するも、二人の関係は変わらなかった。秀吉は中国方面指揮官、利家は能登一国を治める勝家麾下の将として働く事となる。
転機が訪れたのは、天正十一年四月。前年六月に主君・織田信長が明智光秀の謀叛で非業の死を遂げると、空席となった天下人の座を巡り秀吉と勝家が対立。友と呼ぶべき秀吉と一方ならぬ恩義がある勝家の双方を敵にしたくない利家は両者の仲を取り持とうとするも、信長の後継者として日々伸張していく秀吉とそれを阻止したい勝家、二人の溝は埋め難いものだった。利家の願いも空しく、両雄は賤ヶ岳の地で激突する。美濃の織田信孝が再挙兵しこれを討つべく秀吉が戦地から離れた隙を突き、勝家麾下の佐久間盛政が守りの手薄な大岩山砦を急襲、猛将で知られる中川清秀を討ち取り砦を陥落させた。しかし、岐阜への進軍途中に大雨で増水した長良川・揖斐川で足止めを喰らっていた秀吉はこれを好機と捉え、即時反転を決断。大垣から木ノ本までの十三里〈約五十二キロメートル〉を二刻半〈約五時間〉で走破し戦地へ舞い戻ってきた。この“美濃大返し”に慌てたのは盛政で、まさか落とした翌日に秀吉が戻って来るとは予想だにせず大岩山に留まったままだった。勝家も盛政の奇襲を許可したものの深入りする危うさを認識しており、目的を果たしたら速やかに戻るよう念押ししていた。盛政は夜中に撤収を開始、羽柴勢の猛攻を凌ぎながら後退していた。それを援護すべく勝家も陣を前に出し、利家にも前進するよう促した。友情か、恩義か。利家が下した決断は――戦線離脱。“親父”と呼んで慕っていた勝家に刃は向けられないが、味方する事は出来ない。利家の苦しい胸の内を表した行動だが、突如味方が兵を引いた事に柴田・佐久間勢は激しく動揺。嵩に懸かって攻め立てる羽柴勢を支えきれず、勝家は敗走するに至った。賤ケ岳の勝利を決定づけた利家を秀吉は丁重に遇し、戦後は加賀二郡を与え、丹羽長秀の死後は北陸方面を任せると共に重臣として扱われた。
利家の石高は(嫡男・利長名義分も含め)能登・加賀・越中八十三万石と関東二百五十五万石の徳川家康に遠く及ばないが、その人徳は秀吉やその家臣達からも慕われていた。官職も家康に次ぐ従二位・権大納言を授けられたのみならず、秀吉の信任の厚さから秀頼の傅役も任された。また、武断派・文治派の双方から信頼されており、激しく対立していた子飼いの臣達も利家からの注意は素直に聞いただ。三成は嫌いでも利家の意向なら従う……という者も少なくない。秀吉亡き後の豊臣家が分裂しないのも、利家が睨みを利かせていたところが大きかった。
「しかし、加賀大納言様は近頃病がちと聞いているぞ」
高次が不安そうに言う。
還暦を迎えた利家も今年に入り体調を崩す事が多くなり、四月二十日には草津へ湯治に出ている。風の噂では寝込む日もあるとかで、豊臣家の者達は特に心配していた。
「えぇ。だからこそ、内府殿も色々と仕掛けておられるみたいです」
翁は『隠遁していた時の伝手から聞いた』と前置きを述べた上で話し始める。
堺の商人・今井宗薫が豊臣恩顧の大名の元を訪れて『縁談の話がある』と薦めているとか。話を伺ってみたら『内府様の意向だ』と明かした――と。
「他にも、内府様は太閤殿下が身罷られてから諸大名の屋敷を訪ねておられるとか」
今年の九月以降、家康は島津義弘や長岡忠興・増田長盛などの屋敷を訪問していた。政治的な話題は一切なく、「今まで疎遠だったから話をしたかった」と茶飲み話に終始した。
「わ……私の所にも来たぞ」
吃驚する高次。十月に伏見の京極家屋敷に家康が訪ねて来たのだ。本当に雑談をしただけで帰っていったが、家康は京極家も自陣営へ引き込もうというのか。
「まぁ、地理的に押さえておきたい思惑は多少なりともあるでしょうなぁ」
あっさりとした口調で翁も認める。
高次の居城・大津城は京の入り口・逢坂に近い。畿内から東へ向かう際に必ず通過する事から、東へ兵糧弾薬などの物資を運ぶ兵站拠点の役割が大きい。逆に言えば、大津城が敵方に渡れば物資を東へ送るのが難しくなり、前線の補給が滞ってしまう。反対に東国から京へ向かう際は大津城が最前線となり、畿内へ攻め込む前線基地になる。家康としては、先々の事を見据えて大津の地を治める高次を味方に引き込みたいと大なり小なり思っているだろう。
「どうしよう……この事が治部の耳に届いたら……」
オロオロとする高次に、翁は「心配ありません」と言い切る。
「何も『徒党を組もう』と誘われた訳ではありませんから、問題はないでしょう。幾ら治部殿であっても内府様が訪問しただけで詮議にかけたらキリがありません」
これは秀吉が文禄四年八月に諸大名へ遵守すべき取り決めを『御掟』という形で出したものだ。第一条に秀吉の許可なく大名間で婚姻を結ぶことを、第二条に大名間で誓紙を交わすことを、それぞれ禁じている。他にも喧嘩口論があった時や讒言があった時など三ヶ条で計五ヶ条、さらに後日九ヶ条が追加され、これを基に五大老五奉行が豊臣政権を運営していく流れが構築された。
婚姻を結ぶこと・誓紙を交わすことで大名達が徒党を組み政権の転覆や気に食わない人物を排除する集団が生まれるのを阻止する狙いがあり、家康の近頃の行動は御掟に反して自分の味方を増やそうとしていると捉えられてもおかしくない。反家康の急先鋒である三成が噛み付きそうではあるが、秀吉亡き後に五大老・五奉行の間で誓紙を交わすなど(双方が暴走しないよう牽制する目的もあり)形骸化しつつあり、私的な訪問くらいで責められなかった。
「何れにしましても、加賀大納言様が健在な内は内府様も事を起こされないでしょう。……それがいつまで続くかは分かりませんが」
翁は難しい表情で締める。太閤秀吉が齎した泰平の世は、砂上の楼閣に等しい危ういものであることを高次は再認識させられた。
年が明け、慶長四年〈一五九九年〉元日。伏見城にて年賀の礼が執り行われ、諸大名は新年の挨拶を秀頼にすべく出仕した。秀頼の傍らには傅役の利家が病を押して控えていた。そして、「太閤殿下の遺言を遵守する」として一月十日に秀頼が大坂へ移る事を宣言した。これに対し寒さや期日が迫っている事などから反対する意見も挙がったが、亡き太閤殿下の意向を楯に利家は斥けた。一月十日、利家は秀頼を伴い大坂城へ入り、諸大名達もこれに倣って大坂へ移った。秀吉が心血を注いで築き上げた鉄壁の大坂城なら守りの面で安心なのもあるが、伏見で政を任された家康の影響力を削ぐ狙いも込められていた。
しかし……大坂へ移ってから程なくして、家康が公儀に無断で複数の大名と婚姻を結んでいた事が発覚。伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則・加藤清正・黒田長政といった面々で、何れも家康と繋がりが薄く自らの派閥へ引き込もうとする魂胆は明白だった。これを知った三成は利家へ訴え、事態を重く見た利家は一月十九日に五大老と五奉行の仲裁役となる“三中老”の堀尾吉晴・生駒親正・中村一氏を問罪使として伏見へ派遣。しかし、家康は「亡き太閤殿下より政を託された儂を追い落とそうとする言い掛かりか!?」と逆に恫喝し追い返してしまった。
この開き直りとも取れる家康の態度に三成は激怒。一方、大坂から詰問の使者が来たと知った諸大名の中には「すわ、戦か!?」と捉え、家康の元に駆け付ける者も出始めた。すると「伏見に軍勢が集まっている」と誤解し今度は大坂の利家の屋敷に一部の諸大名が集まる騒ぎとなった。
「大変な事になってきたぞ、翁」
伏見と大坂の間で戦の機運が高まる中、大坂の屋敷にある高次も動揺しながら言った。
「町の者の中には、戦に巻き込まれる事を恐れて避難する動きも出ているとか」
既に伏見や大坂の市中では家康と利家の対立が伝わり、家財道具や貴重品を載せた台車を曳いて郊外に逃れようとする者が続出している、と翁は言う。民の目から見ても武力衝突が起こるかも知れないと危惧しているのだ。
「どうする、翁。我等は様子見でも構わないよな?」
伏見の徳川屋敷や大坂の前田屋敷に駆け付ける者は居たが、皆が皆そうではない。寧ろ、静観や双方に介入せず中立を保っている者の方が圧倒的に多かった。この時期、家康を“次の天下人”と見て接近する者や、反対に“豊臣家を守りたい、家康の天下にしたくない”と明確な意思を持っている者を除けば、大半が成り行きを見守っていたのだ。
その為、高次が様子見する意向を示すのもおかしな話ではなかった。
「手堅さを求めるならば、そうでしょうなぁ」
どこか含みを持たせた言い方をする翁。高次はその態度が気になり先を促す。
「然れど――こういう時だからこそ旗幟を鮮明にされる事で、歓心を買えましょう」
翁はサラリと言ってのけると、高次の顔が途端に青くなる。
「……私に、どちらかへ与せよ、と?」
「博奕を打てない者に大きな飛躍なぞ望めません。勝勢が固まってから擦り寄っても有象無象と一緒くたにされて御終いです。当然、心証もよろしくありません。今だからこそ高く買ってもらえるのです」
背中を押すように力説する翁。その言葉に思う所のある高次は、暫し考え込む。
そこへ畳み掛けるように翁は続ける。
「それに……大坂でも伏見でも多くの兵が常駐している訳ではありません。双方が軍勢を出してぶつかる可能性は低く、あったとしてもまだ先です。それ故、今回は顔を出すだけで目的は十分に果たせるかと」
日ノ本が統一されて豊臣家を頂点とする体制が確立し、諸大名達は移動に際して身の安全を守る為に大勢の兵を連れて歩かなくても済むようになった。大坂でも伏見でも、謀叛や抗争を避ける為に兵を多く置いていない。双方の屋敷にも大名とその警護の兵が詰め掛けているだけで、実際に事が起きるのは地方から兵を呼び寄せてからだと翁は睨んでいた。
「……本当に、顔を出すだけでいいのだな?」
高次が念を押すように訊ねると、翁は「はい」と即答する。
「誰も殿に腕っ節の強さなど求めておりません。万一の時には味方になってくれる、そう思わせるだけで充分にございます」
はっきりと言われて少々傷ついたが、これで高次の肚も固まったみたいだ。フウと息を一つ吐いたらすくと立ち上がる。
「どちらへ?」
「決まっている。――伏見だ」