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四 : 大津城攻防戦 - (1) 混沌と化す地方の戦

 美濃・尾張に両陣営の主力が集結する一方、地方でも各勢力がしのぎを削っていた。

 上杉勢の南進に備えて宇都宮に留まっていた徳川秀忠と徳川家臣団の軍勢は、南下の兆候が見られない事から結城秀康を大将とする一万の軍勢を押さえに残し、中山道を西へ進んだ。秀忠率いる別動隊は九月二日に信濃国小諸(こもろ)へ到達したが、ここで一つ問題が浮上する。上田の真田昌幸の動向が掴めないのだ。

 真田“安房守あわのかみ”昌幸、天文十六年生まれの五十四歳。真田家は信濃国小県(ちいさがた)上野こうずけ利根(とね)郡にまたがる六万五千石(内、上野領二万七千石は嫡男・信幸名義)と決して大きな勢力ではないが、昌幸の名が一躍有名となるのは、天正十年六月のことである。

 天正十年六月二日に織田信長が本能寺の変で亡くなると、甲信一帯に激震が走る。赴任して日の浅い滝川一益は所領を捨てて伊勢へ逃れ、信濃国内に転封してきた者達も驚天動地きょうてんどうちの大事件の余波を避ける為に旧領の尾張や美濃へ逃げ帰った。そして、甲斐を与えられていた河尻秀隆は武田家旧臣を主体とした土民に襲われ、自害。こうして、甲斐・信濃・上野の三ヶ国は統治者不在の空白地帯と化し、その所領を巡って“関東の覇者になりたい”北条・“信濃の旧領を取り返したい”上杉・“どさくさに紛れて勢力拡大を図りたい”徳川による三つ巴の争奪戦に突入した。

 どさくさに紛れて周辺の勢力を吸収した昌幸は三つの勢力を渡り歩き、最終的に徳川へ味方した。これにより信濃で優位に立った家康は甲斐・信濃の二ヶ国を手に入れる事になる。後に“天正壬午(じんご)の乱”と呼ばれる争乱で昌幸の名は一躍有名となった。

 これでめでたしめでたし……とならないのが戦国乱世だ。徳川・北条の間で取り交わした同盟の条件に『上野は北条領』とされたが、上野国沼田領は真田家の領土。それを家康は何の断りもなく勝手に決めた昌幸は忿怒ふんどし、家康の要求を拒んだ。そして、将来的な離反に向けて動き出した。

 天正十三年四月、北条家から沼田領譲渡の履行りこうを迫られた家康は昌幸へ従うよう命じるも、拒絶。そればかりか七月十五日に次男・信繁を越後へ人質に送り、上杉方に鞍替えしたのだ! 虚仮こけにされた形の家康は激怒し、八月に真田討伐の為に七千の軍勢を送った。

 うるう八月二日、上田城攻めを開始した徳川勢は数的優位を活かして二ノ丸まで攻略するも、昌幸の策もあり少なくない数の死傷者を出した徳川勢は上田城攻めを断念。対する真田勢の犠牲は四十名程度で、二千の手勢で精悍と知られる徳川勢七千に完勝と呼べる内容だった。前年に勃発した小牧・長久手の戦いで大軍を擁した秀吉に負けなかった家康に(自ら指揮を執ってないにしても)土を付けた事で、昌幸の武名はより高まる結果となった。

 この後、昌幸は豊臣家へ臣従し、秀吉の差配により徳川家の寄騎に付けられた。家康も昌幸の嫡男・信幸に本多忠勝の娘・小松姫を自らの養女とした上で娶らせるなど懐柔かいじゅうするも、強大勢力の間をのらりくらりと渡り歩く姿から“表裏比興(ひきょう)の者”と呼ばれるようになった昌幸とは水と油の関係は変わらなかった。

 その昌幸だが、上杉征伐に従軍したが、下野しもつけ犬伏(いぬぶし)の地で西軍挙兵の報を知ると、信幸・信繁の息子二人と今後の去就きょしゅうについて密談。本多忠勝の娘を正室に持つ信幸は東軍に、大谷吉継の娘を正室に持つ信繁は西軍に属すべきと主張し、昌幸は西軍に与する事を決めた。両陣営に属せばどちらが勝っても真田の家は存続出来る、そういう判断があった。

 十五年前に煮え湯を飲まされた記憶は徳川家中にまだ残っており、上田城に籠もり反抗の意思を見せる昌幸を苦々しく思っていた。どう対処すべきか検討している最中、昌幸の方から徳川勢へ接触してきた。

『到底(かな)いそうもないので、降参する』

 あの食わせ者の昌幸が戦わずして白旗を上げるか? といぶかしむ見方も家中にはあったが、降参すると言っている以上は受けざるを得ない。秀忠は昌幸の申し出を受諾したものの……城の明け渡しを求めると『城を掃除する』『ちと具合が悪い』とあれこれ理由を付けて応じようとしない。先を急ぎたい秀忠はさっさと渡せと使者を通じて迫ると、九月四日になり昌幸はこう返した。――『力づくでどうぞ』と。たばかられた! と分かった秀忠は怒髪天どはつてんき、徳川家の威信にけて攻め落とせと厳命。城攻めが決定した。

 九月六日。徳川方・牧野康成(やすなり)挑発で真田勢は城から打って出たが、待ち構えていた徳川勢の反撃に遭い城の中へ退却。逃げる敵を追って徳川勢は城内に突入するも、今度は城方の猛反撃に遭った。一旦態勢を立て直すべく城から出ようとするも後退しにくい城の造りや後方から押し寄せる味方と入り乱れ移動に難渋なんじゅうしている間も損害を重ね、トドメは渡る時には水量が少なかった神川で鉄砲水が起きて溺死者続出……。まるで前回と同じように多数の死傷者を出してしまった。

 やられっぱなしでは腹の虫が収まらない秀忠へ、さらに驚きの事態が起きる。東海道を進む父・家康から『(決戦の機運が高まっているので)急ぎ美濃へ来るように』とする手紙が届いたのだ。ただ、大雨の影響で川は増水し道も泥濘ぬかるんでいたが為に家康の元から秀忠の元まで到着するのに想定以上の時間が掛かってしまい、手紙で指定された日はすぐそこに迫っていた。これには秀忠も大いに慌て、城攻めを中断し上田城に押さえの兵を置くと大急ぎで中山道を西に進んだ。しかし、平地が多い東海道と比べ整備が進んでおらず山間地を通る道である上に悪天候も重なり、行軍は思うようにはかどらなかった。結局、秀忠率いる別動隊は決戦に間に合わず、九月二十日に父・家康が居る大津に到着した。家康は遅れた事よりも無理な強行軍で将兵を困憊こんぱいさせた(疲弊した状態の将兵は使い物にならないから)事を叱責したとされる。

 他方、奥羽方面でも動きがあった。北の伊達家への対処を完了させた上杉家は、かねてから庄内地方の領有権を巡って対立してきた最上家を片付けるべく九月八日に侵攻を開始。二万五千の将兵を率いるのは執政しっせいを務める直江兼続。対する最上勢は七千とおよそ三分の一の数に加え、上杉勢が米沢・庄内の二方面から攻めてきた事、上杉はまず厄介者の伊達政宗を始末してから最上家に矛先向けると想定していた事が重なり、最上勢の対応は後手に回った。

 最上領を次々と侵食していく上杉勢は快進撃を続け、義光の居城・山形城最後の防衛線となる長谷堂はせどう城に肉薄にくはくした。畑谷はたや城は城主・江口“五兵衛”光清あききよ以下将兵・避難してきた住民を合わせて五百名が撫で斬りにされたが、畑谷城攻略に上杉勢も凡そ千人の死傷者を出すなど奮闘。長谷堂城が上杉の手に渡れば義光は窮地に立たされることから、九月十五日に嫡男・義康よしやすを自らの甥・伊達政宗のもとへ送り援軍を求めた。政宗もこれを受け、叔父である留守政景まさかげを送る事を決定した。奥羽戦線は重大な局面に差し掛かっていた。

 片や、九州方面でも事態の進展が表れた。九月八日、毛利家の支援を受け旧主・大友義統(よしむね)が旧領である豊後へ上陸。翌九日には御家再興を目指して旧臣に参集するよう呼び掛け、一部の旧臣がこれに加わった。約二千の軍勢に膨れ上がった大友勢は、十日夜に長岡忠興の飛び地・木付城に押し寄せた! 木付城は長岡家が治める丹後から遠く離れている上に、九州は肥後の加藤清正・豊後の黒田長政(と如水)を除けばほぼ全てが西軍に与したことから予め厳しい戦いになる事は想定され、城を任されていた松井康之(やすゆき)は直ちに黒田家へ救援を求めた。

 九日に義統が旧臣に参集を呼び掛けている事を知った如水は大友勢がまず狙うのは孤立する木付城と予想、二千の兵を先遣隊として送ると共に自らも軍勢を率いて出陣した。途中、西軍方で留守を預かる城を降伏させながら向かった。対する大友勢は木付城二ノ丸まで落とすも長岡勢の猛反撃に遭い、城攻めを一時中断。そこへ黒田勢が迫っていると知らされ、石垣原の地で迎え撃つ事を決めた。

 九月十三日、石垣原の地で両軍激突。序盤は大友家旧臣・吉弘よしひろ統幸むねゆきが釣り野伏せで黒田勢の先遣隊に損害を与えるも、黒田本隊の参戦などで形勢は徐々に逆転。統幸が討死したのが決定打となり、大友勢は敗走。翌十四日には義統は降伏した。この石垣原の戦いは後年“西の関ヶ原”と称される程の激戦だった。

 そして、北陸方面でも動きが現れた。金沢へ戻っていた利長が九月十一日に再び兵を率いて南下を開始。十八日には利長の異母弟いぼてい・犬千代(後の利常としつね)を人質に差し出して丹羽長重と和睦した。この時のことを利常は『(当時七歳だった自分に)長重は自ら梨をいて食べさせてくれた』と思い出話で語ったとする逸話がある。小松の丹羽家をくだした利長は越前を南へ進んでいくこととなる。

 そして、丹後でも決定的な出来事が起きた。落城寸前に追い込まれた長岡幽斎を何とか救おうと八条宮智仁親王や弟子の公家達が必死に説得を試みるも、幽斎は頑として首を縦に振ろうとしなかった。困り果てた関係者は後陽成天皇へ幽斎に講和へ応じるようちょくを出して欲しいと奏請そうせい。帝も幽斎の才を高く評価していたのもあり、勅命ちょくめいを出した。三条西実条・中院なかのいん通勝みちかつ烏丸からすまる光広みつひろの三名が帝の命を伝える勅使ちょくしとして田辺城へ派遣され、幽斎も勅を重く受け止め従う意向を示した。九月十三日、田辺城は西軍に引き渡され、丹後での戦いは終結した。

 ここまで、九月十五日前後までの状況を述べた。そう、十五日に何があったか知らないまま、各地で生き残りを賭けた戦いが繰り広げられるのであった――。



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