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三 : 取るに足らない小者の戦い方 - (10) 想定外な誤算

 大津城主・京極高次、造反――!! この一報は石田三成を始めとする西軍諸将達に大きな衝撃を与えた。

 はっきり言ってしまえば、青天せいてん霹靂へきれきだった。“たかが六万石風情(ふぜい)で何が出来るか”というよりは、“そもそも眼中に入っていなかった”と表現した方が当てまるか。高次が先年せんねんから家康に接近していた事実を誰も掴んでいなかったし、西軍へ加入が遅れたのも去就きょしゅうを迷っていたと本気で受け止めていた。少し調べれば分かる事だけに、西軍中枢の手織りとしか言えない。

 その影響は甚大で、大坂から前線へ運ぶ補給路は大津で寸断されてしまった。軍事衝突は起きていないので弾薬や矢は減らないにしても、人や馬は戦端がひらかれていなくても生命維持に兵糧・まぐさを消費する。入ってこないからと言って止める訳にもいかず、減らしてしまえば士気や働きの低下に直結する。今はまだ予備があるものの、もしこの状況が続くような事があれば兵糧が枯渇こかつする恐れがある。大所帯であるが故に一日の消費量も多く、このままでは戦の前に倒れてしまう。

 決意表明をした翌日の九月四日、高次は鎧を着て大津城天守の最上階に居た。

「翁、反響はどうだ?」

 側に控える翁へ訊ねる高次。戦時ながら頑健がんけんでない身体の翁は平服のままだ。

「東へ放っている細作さいさくの報告では、我等の決起を誰も予想しておらず激しく動揺しているとのこと。その点では最適の時機だったと言えるでしょう」

 翁は最大限の賛辞を贈るも、高次の顔は険しい。翁に背中を向け、城外の方に目をる。

「ただ――」

 こちらも表情がやや強張っている翁が、言いにくそうに続ける。

「よもや、敵方の戦力で最も強い手札てふだを切るとは、思いもしませんでした」

「……あぁ。正に、その通りだ」

 眼下に見えるのは、敵の軍勢。それも、雲霞うんかの如く大津城の周囲を埋め尽くしている。

 高次と翁の見立てでは、京極家追討の兵は大坂から送られると考えていた。理由は二つある。一つ目は、上杉征伐に加わっていた軍勢が尾張・美濃へ進出しており、いつ何時開戦してもおかしくない状況で美濃にある軍勢は動かしづらいこと。二つ目に、余剰戦力は大坂に駐留している軍くらいで、にわかに降って湧いた敵(京極勢)に対処するにはそこからしか割けないこと。以上の点から、追討の兵が大津に到着するまで数日は掛かると踏んでいた。

 しかし、その予想は大きく外れた。兵站維持が危ぶまれる状況を一刻も早く解消せんと、伊勢から美濃へ向かっていた軍勢を大津へ差し向けたのである。大将は毛利家一門の末次すえつぐ元康、副将に同じく毛利家一門の小早川秀兼(ひでかね)(後の秀包)となっている。

 末次元康、永禄三年生まれで四十一歳。毛利元就の八男で、宇田源氏の流れを汲む出雲いずも国の末次家へ養子に入った。山陰方面を任された異母兄いぼけい・吉川元春の下で各地を転戦、毛利家を支えた。天正二十年から始まった二度の朝鮮出兵では甥で主君の輝元の代理で毛利勢を率いて渡海している。

 小早川秀兼、永禄十年生まれの三十四歳。毛利元就の九男で元亀二年〈一五七一年〉一月に備後国の国人・戸坂家、同年五月に同じく備後国の国人・大田家を経て、天正七年に異母兄・小早川隆景の養子となった。大田家に入っていた際は“元綱”、小早川家に入った当初は“元総もとふさ”、天正十一年十月に吉川広家と共に羽柴秀吉へ人質に出された際は“秀包”と改名している。羽柴家では武将の一人として各地を転戦、隆景とは別に所領を持つなど厚遇された。元康と同じく天正二十年から始まった朝鮮出兵にも従軍している。文禄三年に秀吉の甥・羽柴秀俊(ひでとし)(後の秀秋)が小早川家へ養子に送り込まれると秀包は相続権を放棄して別家となった。昨年には“秀直ひでなお”、今年に入り“秀兼”と名を改めている。

 他にも肥前を地盤とする筑紫つくし広門ひろかどや対馬一国を治めるそう義智よしとし伯耆ほうき国の有力国人・南条元忠(もとただ)、立花親成(ちかなり)の弟・高橋重種(しげたね)(後の直次なおつぐ)など朝鮮出兵に参加していた強者つわものが顔を揃えていた(天正七年生まれの元忠は若年だった為、叔父が代理で朝鮮に渡っている)。

 対する京極勢は約三千。城内にはもっと人が居るが、戦禍せんかから逃れる為に避難してきた者達だ。直近の戦は北条征伐の時だが前線に送られる事はなく、今回の戦が初陣という将兵も少なくない。

 この錚々(そうそう)たる面々の中でも突出して脅威に感じているのは――。

「申し上げます」

 上がってきた近習が、声を掛けてきた。

柳川やながわ左近侍従さこんじじゅう様が面会を求めてこられましたが……如何いかが致しましょうか?」

 来訪者の名を聞いた二人は思わず身構える。共に頭の中に浮かんでいた人物だったからだ。

 引きった表情で見つめる翁に、高次はフゥと息を一つ吐いてから答える。

「……会おう。流石に敵中へ殴り込みに来た訳でもあるまい」

 高次の返答に「……畏まりました」と言い残して近習は階段を降りていく。暫く城の外を眺めていた高次だが、ここに留まり続けてもらちが明かないのは分かっていたので、重い足取りで階段の方へ歩き出した。


 御殿の大広間に着いた高次は驚いた。鎧に身を包んだ家臣達が居並ぶ中、その人は一人で平伏していた。

「まさか、単身で?」

 下げていた頭を上げたその人は、爽やかな笑みを浮かべながら「はい」と応える。長身痩躯ちょうしんそうくながら筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)な体つき、涼やかな面貌めんぼうと、正に非の打ち所がない若武者である。ただ、秀兼と並んで副将を務めるこの男の旗標はたじるしを見つけた時は、高次も翁も『りに選って』と頭を抱えたくなった。読み違えたにしても、この人物を送り込んできた三成を恨みたくなったくらいだ。

 立花“左近侍従”親成(後の宗茂むねしげ)、永禄十年生まれの三十四歳。大友家家臣・高橋鎮種(しげたね)紹運じょううん)の長男に生まれ、天正九年八月十八日には同じく大友家家臣・戸次べっき鑑連あきつら(立花道雪(どうせつ))から特に乞われ立花家の跡取りとして道雪の一人娘・誾千代ぎんちよ婿むこ養子に入った。九州で一大勢力を築いた大友宗麟(そうりん)に陰りが見え始めた事と薩摩の島津義久が九州全土を掌握せんと攻勢に出た事、さらに肥前の竜造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶが伸張してきた事が重なり、筑前における大友領は次々と削られていった。

 天正十四年六月、九州制覇を実現すべく島津義久は二万の軍勢を率いて筑前へ出陣。途中、島津方に与する勢力や国人も加わり、その数は三万を超すまでに膨れ上がった。七月十二日、高橋紹運が籠もる岩屋城に降伏を促す使者を送るも、紹運は拒否。二日後の十四日から城攻めが開始された。高橋勢は一千に満たない将兵で二万(数字は諸説あり、五万とも)の敵を相手に善戦。二十七日の総攻撃でようやく城は陥落させたが、高橋勢七百六十三名全員が討死したのに対し島津勢も四千五百名の死傷者を出してしまった。

 岩屋城を落とした島津勢は筑前で唯一残る大友方の立花山城に狙いを定め八月に進軍、統虎以下三千の立花勢に圧力を掛けたが……八月中旬になり統虎は島津勢に対して降伏の意思を伝えた。開城に向けて詰めの協議が行われる中、大友家から救援要請を受けた豊臣秀吉の命で島津征伐の先遣隊を任された小早川隆景・吉川元春の軍勢が長門ながと赤間(あかま)関(下関しものせき)まで迫っている事が島津勢に伝わり、岩屋城で大損害を出していたのもあり一時撤退を決断。八月二十四日から撤退を開始した島津勢を統虎は反撃を開始、島津方の高鳥居城を攻め落としただけでなく空き城となっていた岩屋城の奪還にも成功した。後に対面した秀吉は比類ない働きをした統虎を『その忠義、鎮西ちいぜい一。その剛勇ごうゆう、また鎮西一』『九州の逸物いつぶつ』と絶賛したとされる。翌天正十五年六月二十五日に行われた島津征伐の論功行賞で筑後柳川八万石が与えられ、豊臣家直臣となる。

 また、天正十八年の北条征伐にも従軍、二月一日には諸大名達の前で『東の本多忠勝・西の立花統虎、東西無双』と評している。本多忠勝は徳川家の家臣(秀吉の陪臣ばいしん)ながら武田家家臣・小杉左近が狂歌きょうかの落書きで『家康に 過ぎたるものが 二つあり からの頭(当時輸入品で貴重だった“ヤク”の尾毛、かぶとや槍の穂先に付ける装飾で人気だった)に 本多平八(忠勝)』とうたわれ、織田信長から『花も実も兼ね備えた武将』と称賛され、徳川家中から『蜻蛉とんぼ(忠勝の愛槍“蜻蛉切とんぼきり”)が出ると 蜘蛛くもの子散らすなり 手に蜻蛉 頭のつの(忠勝の兜“鹿角脇立兜”)の 凄まじき 鬼か人か しかと分からぬ 兜なり』とまれた川柳があり、この先を含めた生涯五十七回の戦で掠り傷負わなかったという勇将で、秀吉も『日本第一、古今独歩ここんどくほの勇士』とたたえた人物と二十四歳の若さで肩を並べた事は、それだけ統虎の器量や才覚を高く評価している表れでもあった。天正二十年から始まった朝鮮出兵にも統虎は参加。渡海前後に“鎮虎しげとら”と、また“宗虎むねとら”と改名している。

 文禄二年一月二十六日、宗虎の勇名を轟かせる出来事が起きる。

 天正二十年四月十二日に一番隊の宗義智・小西行長の軍勢が釜山プサンに上陸したのを皮切りに始まった朝鮮出兵は、朝鮮王朝(李氏りし朝鮮)内部の権力闘争や日本軍侵攻の兆しがありながら備えをおこたるなど幾つかの要因が重なり、序盤から圧倒。応仁の乱以降、百年以上に及ぶ乱世で鍛え抜かれた日本勢は平和慣れしていた朝鮮勢の敵ではなく、破竹の勢いで北へ北へ突き進んだ。開戦から二十一日後の五月二日には首都・漢城府ハンソンフを陥落、五月二十七日には開城クソン、六月十五日には平壌ピョンヤンを制圧し、七月二十三日には咸鏡道ハンギョンドへ逃れていた王子二人(臨海君イメグン順和君スンファグン)を加藤清正が捕虜にし、七月から八月にかけて加藤勢は一時明みん領の兀良哈オランカイに達するなど、快進撃を続けた。

 対する朝鮮王朝第十四代国王・宣祖ソンジョの要請に応じた明から援軍が到着すると、それまで圧倒していた日本勢の勢いにかげりが見え始める。文禄(天正二十年十二月八日に改元)二年一月六日、小西勢の居る平壌城に明の軍人・李如松りじょしょう率いる明勢五万が急襲。明勢の用いる仏狼機フランキ砲などの強力な大砲や事前に進められていた偽りの講和交渉で小西勢が油断していたのもあり、形勢悪しと判断した行長は平壌城から撤退を決定。朝鮮半島の北部まで侵攻していた事で兵站線が伸び過ぎ、朝鮮海軍や義勇兵の妨害で兵糧や弾薬が前線まで届かない状態が常態化しており、行長達は開城も放棄し漢城で防衛線を敷く方針を固めた。明勢は開城を回収し、地元民による『日本勢の精鋭は平壌で大半を失い、主力でない者達が漢城に残っている』とする誤った情報を信じ、首都を奪還すべく南下。これを阻止すべく日本勢は一月二十六日に碧蹄館ピョクチェガン(“へきていかん”)の地で迎え撃った。

 この戦で先陣を任された立花宗虎・高橋宗一(むねかず)(現在の重種)兄弟の手勢二千が序盤から猛攻を仕掛け、敵を圧倒。途中、敵の新手七千が加わると損害が拡大するも何とか踏み留まり、明勢を押し返した。疲労著しい立花・高橋両勢は一旦後方へ退がるも、一刻〈約二時間〉後に再び戦へ加わり獅子奮迅の活躍を見せた。この戦いで立花勢は少なくない将兵を失ったが、明勢撃破に大きく寄与した。合戦後、宗虎は馬も含めて血(まみ)れ、刀は歪んでさやに戻せなかった逸話が残っている。碧蹄館に勝利した事で明に“日本勢侮りがたし”とする意識を植え付けさせ、同年四月の講和交渉に繋がった。この時一緒に戦った小早川隆景は『立花勢の三千は他家の一万に匹敵する』と高く評価したとされ、秀吉も宗虎の比類ない働きを喜び文禄年間に領地移動という形で加増している。文禄四年までに“正成まさなり”、次いで“親成”と名を改め、今日こんにちに至る。

 親成と立花勢は、数多ある大名家の中で最も強いと皆認めているし、高次もそう思っている。秀吉が『東西無双』と同列に評した本多忠勝は忠勝個人の武勇に重きが置かれ、将として無双の働きが出来るのは精々五百くらいだ。対する親成は個人で圧倒的な強さを誇るだけでなく数千の将兵を手足の如く動かせる将の才も兼ね備えていた。先代・道雪の薫陶を受け鍛え抜かれた将兵達も親成を信望しんぼうしており、実力を如何いかんなく発揮し視力を尽くして働いてくれた。今の敵方で最も敵に回したくない相手が来てしまったのは、痛恨事つうこんじとしか言えない。

 目の前に座る四歳下の親成は、高次と対照的な生き方をしてきた。恵まれた体格に端正な顔立ち、天賦てんぷの才も持ち、地位も名誉もおのが手で勝ち取っている。羨ましくないと言えば嘘になるが、これ程までに差があると嫉妬の気持ちさえ芽生えてこない。

不躾ぶしつけながら、大津宰相殿にはそれがしを殺せないと確信しておりますので」

「……それは私が人一人殺せない程に臆病と思っておられるからか?」

 はっきりと断言した親成に、高次はやや意地悪な返しをする。半分本音なのは自分が卑屈ひくつになっているからか。

 高次の複雑なはらの内に気付いていない親成は「いえいえ」と否定してから続ける。

「破れかぶれになっての暴走ならいざ知らず、時機をはかっての挙兵で使者を殺す事に何の得などありませんから。特に、此度のように時を稼ぐのならば尚更なおさら

 ニコニコと笑みをたたえながら核心を突く親成。王道をく武辺者と思いきや、なかなかの食わせ者かも知れぬと高次は認識を改めた。

 計略や騙し討ちが横行している戦国乱世にあっても、交渉の為に敵地へ赴いた使者に危害を加えるのは御法度ごはっととされてきた。それが例え攻め寄せて来た敵方の将であっても、だ。多くは利害関係のない第三者、近在の寺の僧などが使者役を務め、“殺されるかも知れない”という危険の中えも敵中を訪れた勇気に敬意を示さなければならない。武士もののふは自らの信念と矜持の為に最終手段として刀を抜くのであって、無闇矢鱈(やたら)に人を傷付けるのはただの殺人に悦楽えつらくを覚える猟奇りょうき殺戮(さつりく)者だ。それを承知で敢えて使者に危害を加えるのは、相手へ“一切の交渉に応じない”とする意思表示を示す目的がある。この場合、蛮行ばんこうおかした側は“生き残るつもりはない”玉砕を覚悟し、された側も撫で斬り等の厳しい対応で報復するのだが、激しい戦いになるのは確実だった。

 親成は京極家追討軍の副将と相応の立場にある。単身敵中に乗り込んできたからと血祭ちまつりに上げようものなら、その強さは島津家に引けを取らない強さを誇る立花勢や義兄弟のちぎりを結ぶ小早川秀兼勢が黙っていない。ただでさえ兵の数でも質でも劣るのに損害覚悟で力攻めに出られたら、大津城は二・三日もたない。出来るだけ落城まで時間を引き延ばしたい高次にとって、親成を殺すのは百害あって一利なしの愚策だ。

「いやー、此度の挙兵はお見事としか言えませんな。主要な街道や琵琶湖が一点に集中する大津が止まる事の重大性を、くいう某も含めて何方どなたも認識されておられませんでした。そして、大津宰相殿の動向も。よくよく調べてみれば、昨年一月に伏見と大坂の間で緊張が高まった折には徳川邸に馳せ参じておられる事を始め、内府様に接近されておられる事は明らか。我等が大津宰相殿を見縊みくびっていたと言われても仕方ありません」

 いっそ清々(すがすが)しいといった具合に朗々(ろうろう)と自らの落ち度を語る親成。敵ながら天晴あっぱれ!! と今にも褒めたたえん勢いだ。

 どう返せばいいか分からず口をつぐむ高次へ、親成はズバッと切り込んできた。

「――無理を承知の上で相談なのですが、開城して頂けませんか?」

 声色こわいろを落とし真剣な表情で親成が持ち掛ける。顔が強張った高次へ、さらに続ける。

「我等の調べでは、弟君が内府様と行動を共にされておられるとか。今なら『弟君にそそのかされた』と言い訳が立ちます。相手の者を寝返らせる調略は敵味方やっており、宰相殿から“軽率だった”と一言詫びて頂ければ不問ふもんとされましょう。何なら、大津宰相殿や京極家の者達の身の安全を不肖ふしょうながら某が大蔵おおくら大輔たいふ(末次元康の官名)に掛け合ってもいい」

 そうでないと分かりつつも、親成は取引を提案してきた。敵方に属す弟に罪をなすり付け、高次が謝れば全て丸く収めるというのだ。

「もし内府様への体裁ていさいを気にしておられるのでしたら、から鉄砲を撃ち合って一戦交えた風を装ってからくだるのもアリかと。万を超える軍勢に囲まれたとなれば、内府様も責められますまい。但し、開城した後には大津宰相殿には別の所へ御移りしてもらい、城代を置かせて頂きますが」

「……どうして、そこまで便宜べんぎはかって下さるのですか?」

 ここまで無言を貫いていた高次が訊ねると、親成は事も無げに答える。

「別に大津宰相殿を贔屓ひいきしている訳ではございません。弓矢を交えず口舌こうぜつのみで解決するならそれに越したことはありませんから」

 孫子そんし兵法へいほうに、こういう一説がある。『百戦百勝は善の善なる者にあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』、百回戦って百回勝っても最善ではなく、戦わず降伏させる事こそ最善である――戦を行えば大なり小なり死傷者は出るし矢弾も消費する、それも積み重なれば見過ごせない損失となる。故に、戦をせずに相手をくだすのが最も理想的だ。親成はそう言うのである。

 九州制覇に向けて波に乗る島津勢に屈せず、異国の地で十倍以上の敵を圧倒し、その武勇は広く知れ渡る当代随一の勇将は、戦う事に偏っていなかった。稀代きだいの才や強大な力を有しながら過信せず、遠回りでも最善の道を追求する。持たざる者の高次からすればとても意外に感じた。

「身も蓋も無い言い方をすれば、我等はきたるべき決戦に備える為に一刻も早く大津を片付けて美濃へ向かいたい。大津宰相殿も兄弟揃って内府様に与しては万一の際に共倒れになる。こちらに付いておけば家名を存続する道が繋がる。……如何いかがです? お互い悪い話ではないでしょう。一度起った体面たいめんもございましょうが、ここは一つ折れて頂けませんか?」

 最後のダメ押しとばかりに親成は迫る。同席する家臣達の中には「もありなん……」と頷く者も見受けられる。生き残る可能性があるなら、そちらに託したい気持ちは分かる。

 しかし――。

「――断る!!」

 空気を震わせる程に強い声で拒否する高次。ビックリする家臣達に対しつゆ程も動じない親成を尻目に、さらに続ける。

「確かに、理屈で考えれば柳川侍従殿の申す通りである。精鋭揃いの万を超える軍勢が押し寄せ、我等に勝機は薄い。加えて、天下を真っ二つにする大戦おおいくさでどちらが勝つか分からぬ以上、家名の存続を見据えてくだる選択も間違いではない。……れど!!」

 そこで言葉を区切った高次は、親成を見据えて毅然きぜんと言い放つ。

「今ここで屈すれば、筋の通っていない変節漢へんせつかんに成り下がってしまう!! 亡き太閤殿下よりお預かりしたこの城を、我が身が危ういからと易々(やすやす)他人に明け渡しては、泉下せんかの殿下に顔向け出来ぬ! って、武士もののふとして譲れぬ一分いちぶんを守る為に、戦う所存!!」

 大見得おおみえを切り堂々と宣言する高次。言っている事が支離滅裂しりめつれつな気がしないでもないが、果たして親成の反応は如何いかに。

 降伏を促してきた親成に高次は敢えて喧嘩を売る真似をした。席を蹴って即座に開戦となってもおかしくないのだが……親成の体は小刻みに震え出す。

「ふふふ……ははは……わーっはっはっは!」

 遂にこらえ切れなくなった親成は突然大きな声で笑い出した。哄笑こうしょうする親成を、ポカンと見つめる京極家の面々。

 暫く豪快に笑っていた親成は、スッキリとした顔でおもむろに口をひらく。

「失敬。損得や打算で弊履へいりてるが如く変節する輩がちまたあふれ返る中、愚直ぐちょくなまでに純粋だったので、つい……大津宰相殿の仰られること御尤ごもっとも。武士もののふたる者こうでなくては」

 言い終わるなり親成は居住まいを正すと爽やかな笑顔を浮かべて述べる。

「これ以上の論は不要。正々堂々、お互いの誇りに賭けて存分に戦いましょうぞ」

 直後、「御免ごめん」と言い残して席を立った親成は、颯爽と去って行った。その姿を見送った高次は「もしかして、一番厄介な人物に火を点けてしまったのでは?」と少し後悔したが、今更どうする事も出来なかった。

 この会談の後、大坂から淀の方が初へ、京都の北政所から竜子へ、それぞれ降伏を促す使者が送られてきたが、二人は揃って拒否。せめて城から退去して欲しいと求めたが、あくまで城に留まる意思を示した。

 説得も不調に終わり、これ以上の日延ひのべは無意味と判断した元康は、九月七日から城攻めを行う事を決定。大津城を舞台にした高次の誇りを取り戻す戦いが、いよいよ始まろうとしていた――!!



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