三 : 取るに足らない小者の戦い方 - (9) 一世一代の大芝居
美濃・大垣城に詰める石田三成から要請を受けた敦賀の大谷吉継は、金沢へ引き揚げた前田利長に南下の動きが見られない事を確認し美濃へ向かう事を決定。自らは小川祐忠(伊予今治七万石)・平塚為広(美濃垂井一万二千石)・戸田勝成(越前安居二万石、一万石とも)・赤座直保(越前今庄二万石)・朽木元綱(近江高島九千石)等と共に八月下旬に出発、九月二日には脇坂安治(淡路洲本三万三千石)を加えて美濃国山中村に布陣した。一方、前田勢の南下に備えて兵力を増強すべく吉継は高次に対し越前へ向かうよう指示。これを受け、高次は九月一日に大津城から越前へ向けて出陣した。
だが――翌日、越前国東野まで進んだ高次の元に、急使が飛び込んできた。
「湖賊、とな?」
留守居を任せた翁から齎された一報に、高次は思わず反復する。
日ノ本で最も大きな湖である琵琶湖は古代より湖に生息する魚介類を獲って生計を立てる漁師が存在するなど“淡水の海”のような認識だった。やがて律令制が定められ租税制度の施行により地方で納められた税や収穫物が朝廷へ運ばれるようになると、船を用いて琵琶湖を横断する需要が発生した事で南北若しくは東西を繋ぐ人や物の往来を担う仕事に就く者が生まれた。やがて都が平安京に遷り日本海航路の確立で琵琶湖船運の需要がさらに高まると、地方から都へ運ぶ租税や価値の高い物を載せた船を標的とした賊が出没するようになる。平安時代には瀬戸内海を中心に海賊が出没するようになるも、こちらは“警固料”さえ払えば複雑な潮の流れや岩礁の所在を熟知している賊が案内と共に別の賊から守ってくれる“水先案内人”の役割も果たしてくれた。海賊は時代が進むにつれて武力組織となり“水軍”へと発展を遂げていくが、琵琶湖の“湖賊”は数も少なく掠奪のみを行っていたが為に“湖上交通を妨げる害悪”として為政者から討伐の対象とされた。天正年間になると近江を治め安土に城を構えた織田信長が“人や物の往来が活性化すれば巡り巡って税収が増える”という考えを持っており、それを邪魔する湖賊の存在を認めず徹底的に取り締まり退治した結果、琵琶湖を拠点とする湖賊は絶滅。以降、琵琶湖の治安は保たれ続けてきたのだが……。
「はっ。昨今の不安定な情勢を嗅ぎ取り、鳴りを潜めていた不逞の輩が稼ぎ時と乗じて現れた模様」
大津城から遣わされた急使が滔々と述べる。これには高次のみならず家臣も頷く。
「それはいかんな」
説明を受けた高次は驚いたような表情を浮かべて言った。
「我等は亡き太閤殿下より琵琶湖の水運を守る役目を託されておる。たかが賊かも知れぬが“一事が万事”ともある。美濃で戦の機運が高まる以上、兵站に支障を来しては他の方々に申し訳が立たない……誰か」
高次の呼び掛けに一人の武者が「はっ」と応じる。
「我等は直ちに大津へ戻り、自由な往来を脅かす賊の討伐を行う。その旨、大谷刑部殿へ遣いを出すように」
「畏まりました」
高次の命に、同席する家臣達は揃って頭を垂れた。その反応から、高次の決定を誰も疑っていなかった。それから吉継への使者の選定や軍の反転準備で陣内が慌ただしくなる中、高次は一人秘かに拳を握っていた。
京極勢は近江へ戻ると海津から船で琵琶湖を渡り大津へ帰還した。その際も海津の港に非戦闘員を含めた全員が乗れるだけの船が予め用意されていたり、懸念されていた湖賊の気配が全くしなかったり、湖沿いの町に襲われた形跡がなかったりと、色々首を傾げる点はあったが、それを指摘する者は居なかった。
九月二日、夜。大津城・奥御殿にある高次の寝室に、人目を忍ぶように訪れた者が居た。
高次も寝間着姿ながら来訪を待ち侘びていたらしく、その者の顔を見ると顔を綻ばせる。
「遅くなりました」
「なぁに、構わぬ。待つことには慣れておる」
詫びる相手に鷹揚な態度で応える高次。そして、相手に下げている頭を上げるよう促す。
顔を上げたのは――翁である。
「支度の方は?」
「万事、整っております。あとは殿の下知を待つのみ」
恭しく答える翁の言葉に、高次は満足気に「うむ」と頷く。ただ、高次の表情は心なしか固くなっている。
「……如何なされましたか?」
それに気付いた翁が訊ねると、高次はやや照れたように打ち明けた。
「いやなに、怖気付いた訳ではないのだが……背負うものの大きさを今更だが感じて、な」
心境を吐露する高次の顔には、葛藤が滲んでいる。
大名家の当主は、決して楽なものではない。家臣達に傅かれ、衣食住に困らない生活を送る一方で、一族郎党に奉公人とその家族を路頭に迷わせないよう保障し、御家の舵取りは当主一人に委ねられる。失敗の責任を取り最初に腹を切るのは大概当主、その命は家の中で最も軽いかも知れない。恵まれた地位や生活の裏で重圧や責務で辛く苦しい思いをしているのだ。変われるものなら変わりたいと思っている者も一人や二人では済まないだろう。
「私が一歩踏み出せば、二度と後戻りは出来ない。失敗は許されない以上、見落としが無いか不安になる」
自分が誤った判断をした場合、本来なら生きる筈だった者が命を落とす恐れがある。責任を負っているからには、万に一つの抜かりがないか慎重になってしまう自分が居た。独り善がりな考え方かも知れないが、悲しい思いをする者は一人でも少ない方がいいからだ。
「大丈夫です」
高次の心配を和らげるように、穏やかな声で翁は言う。
「私も八方手を尽くして情報を集め、それ等を総合的に分析した上で成功すると判断しました。……ですから、大丈夫です」
翁は重ねて“大丈夫”と語り掛ける。何か確証がある訳ではないが、翁の言葉に高次も少しだけ安心したような気分になった。
「……ありがとう」
感謝を口にした高次に、翁は静かに頭を下げた。顔を上げた翁は「明日も早いですので、これにて」と断ってから、高次の前から辞して行った。
明日。そう、明日こそ高次にとって大事な日なのだ。三十八年の生涯で最も重要、それこそ今後の人生を大きく左右すると言っても過言ではなかった。翁の励ましもあってか、高次はやれるような気になった。
九月三日、辰の正刻〈午前八時〉。大津城下に太鼓の音が響いた。城の櫓に備え付けられている太鼓が叩かれた時は家臣に緊急で登城を知らせる合図、皆驚きながらも城へ向かう。
登城した者達は本丸の広場に集められたが、誰も今回招集された理由を知らない。石垣の上に立つ重臣達でさえ聞かされていなかった。さらに異例だったのは、重臣達と並んで奥方の初や妹の竜子、さらに侍女達も同席している点だ。
皆が顔を見合わせ声を掛け合いザワザワとする中、城から高次が小姓を伴って登場した。主君の姿を目にした一同は会話を止めてその発言に集中する。
この場に居る全員の耳目が集まるのを、肌でヒシヒシと感じる高次。正直、注目を浴びるのは苦手だ。緊張で頭が真っ白になる。でも、今日は不思議なことに自然体そのもので、寧ろ気持ちは満ち溢れていた。
全体を見渡した高次は、息を思い切り吸い込んでから声を発す。
「京極高次だ!! 今日は皆に伝えたい事があって集まってもらった!!」
この時代の“名”は親や主君など目上の立場の者しか呼ぶ事を許されない“実名敬避俗”が常識とされてきた(人の名前は魂と深く結ばれている為に、他人から呼ばれる事で魂を奪われるのを避ける“忌み名=諱”の説もある)が、高次はそうした習慣を持たない者達にも分かってもらう為に敢えて諱で名乗った。
今話しているのが京極家の殿様だと分かり、驚きの表情を浮かべる者がちらほら見受けられる。一方、石垣の上に控える重臣達の中には、高次の大きくはっきりとした声を発した事に目を丸くしている者も居た。腹の底から声を出さなければ後方の者まで届かないが、この場に居合わせる全ての人の中で聞こえてない者は居なかった。文人肌の頼りない主君の意外な一面に、普段から接する機会の多い者達は驚嘆していた。
そうとは知らない高次はさらに続ける。
「昨今『湖賊が復活した』と噂されておるが、あれは私が流した嘘だ!!」
突然の告白に、聴衆からどよめきが起こる。言い終わると高次は騙していた事を詫びるように皆へ向かって頭を下げる。
言われてみれば、おかしな話だ。天正年間に信長が徹底的に駆逐した賊が、多少の政情不安で出てくるとは考えにくい。琵琶湖沿いには五奉行の石田三成の佐和山城や豊臣家直轄の長浜城があり、湖上交通を脅かすような輩が出ないよう監視もされていた。捕まり罰せられるのが目に見えているので、わざわざ危険を冒すとは思えなかった。
嘘を吐いていたと明かした以上に衝撃的だったのは、大多数の家臣達に向けて当主自ら頭を下げて謝罪した事だ。武士は自らの命より矜持を優先し、例え自らに過ちがあったとしても安直に認めず謝ってはならないという価値観があった。今回の件でも『部下の間違いだった、私は何も悪くない』と開き直っても文句は言われない筈なのに、家臣へ罪を擦り付ける事はしなかった。高次は京極家の頂点に立つ者、下っ端から見れば雲の上の存在に近く、そんな人が直々に謝った事実に皆息を呑んだ。
暫く頭を下げていた頭を上げた高次は騒然とする空気を裂くように声を上げる。
「皆を欺いたのは理由がある!!」
そこで一旦言葉を切る高次。全員がその先にある言葉が何か固唾を呑んで待っている。
さぁ、ここからが正念場だ。高次は腹に力を込めて宣言する。
「その理由は――内府様を支える為だ!!」
力強く言い切った高次に、皆があっと驚く。畳み掛けるように高次は言葉を継ぐ。
「大軍が大津に迫っていた為に心ならずも内府追討の軍に加わったが、それも是切。敵の主力が東へ移った今こそ、我等が起つ絶好の機会。これを逃さず、挙兵する!!」
高らかに謳った高次の言葉に、家臣達がざわめき立つ。重臣達も高次の深慮遠謀に舌を巻く思いだった。
この決定は昨日今日に決めた事ではない。西軍に降ると決めた時から、高次が秘かに温めていた策だった。
内府追討の兵が挙がった時点で、大津の京極家は周囲に味方が居らず孤立していた。畿内には数万の敵勢が居て、その中には朝鮮での戦を経験した精兵が多く含まれていた。湖の水を活かしているものの守りが堅いとはお世辞にも言えない大津城で戦の経験に乏しい京極家の少ない兵では太刀打ちなど難しい。真っ向から挑めば一日足らずで落とされるだろう。たかが一日足止めしても誤差の範疇に過ぎず、大勢に影響を与えられないのでは単なる犬死だ。
ならば、どうせ戦うなら最大限に恩を売る為にはどうするか? ……敵が最も嫌がる時に反旗を翻すのである。
西軍の兵糧弾薬などの補給物資は、大坂から前線へ運ばれる。戦線が畿内から美濃へ移り、物資は街道を利用した陸路と船を用いた水路の両面で運搬される。水陸どちらにしても、大津を通過しなければならない。言い換えれば、琵琶湖南端の付け根にある大津を押さえてしまえば、そこから先の兵站に支障を来す事となる。
翁から齎された“湖賊出没”の報は西軍を欺く方便であると同時に、『大谷吉継率いる北陸方面の軍勢が通過した』旨を伝える符牒の役割も兼ねていた。伏見城を攻略した西軍は伊勢・美濃・北陸の三方面に部隊を展開したが、東軍に与した前田勢に対処する北陸方面の部隊はどうしても大津通過が遅くなる。家康率いる東軍に備えるべく伊勢や美濃へ向かう大半の軍勢が通り過ぎた後に高次達が決起した場合、遅れてやって来る北陸方面の部隊に制圧される可能性があった。ただ、北陸方面で警戒すべき勢力は前田勢のみで、その前田家が南下しない目途がつくか主力同士で決戦の機運が高まってきた時には、大谷吉継を始めとする部隊も想定される主戦場へ移る事になる。そうなった時は、前田勢が越前南部にでも侵攻しない限りは北陸方面担当の部隊が戻って来る事はない。そうした見立てに基づいて、大谷吉継が通過した時機で挙兵すると高次は決めていた。
「この挙兵は私利私欲の為に非ず。この一戦は失われた誇りを取り戻す為にある!!」
より気持ちを込めて高次が宣言する。高次の口から飛び出した“誇り”の二文字に、居合わせる全員の表情が変わる。
「私が不甲斐ないばかりに、皆にも『蛍の家来だ』と後ろ指を指され、悔しい思いをさせてしまった。だが、それも今日限り。散々に引っ掻き回し、見返してやろうではないか!!」
高次の呼び掛けに、家臣達から「オォーッ!!」と咆哮が挙がる。閨閥で出世した印象の強い高次は悪い意味で有名だったが故に、家臣達も他の家の者から馬鹿にされたり嘲りを受けたりしていた。積年の恨みを晴らす機会が巡ってきたと燃える者が多かった。
溜まりに溜まった鬱憤を爆発させるように声を挙げる家臣達の姿を目にした高次は、今回の戦の成功を確信した。一丸となった京極家は意気軒昂なまま乾坤一擲の戦に向けて動き出していく。




